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大将と台場跡 [隠れ郷土史&ラーメン]

大将1.jpg
いつまで工事してる?.jpg
大将のある本牧マリンハウス1号館と2号館の間の工事がまだ終わらない。
いつまでやってんだろ。くるまが停められないじゃないか。このスペースはMAX4台停められる。大将の売上4台減は小さくないぞ。
停められないので最近は中区の公用後、磯子区へ移動する途中でバスで立ち寄ることが多い。本牧通りのバス停、本牧宮原から徒歩5分程度です。
ワカメラーメン、プラス、キムチ皿150円の券を渡しながら、
「キムチ少な目にしてくれ」
大将のラーメンスープはノーマルスープにキムチを加えると劇的に変化する。全く違う味のコクが加味される。2段階、2種類のスープが楽しめるのです。
ところが大将のスタッフは盛り付けに頓着せずド真ん中にキムチをゴソッと力任せに投入するもんだから、2段階のスープが楽しめないことがある。最初っから赤い。
キムチは皿に分けて私自身の意志でちょっとずつ追加投入するようにしている。辛いのが好きな方はいいけど私はキムチは多過ぎてはいけない、少しでいいのです。
キムチラーメンだとプラス100円、キムチ皿だと150円、50円の差がある。そしたら若いのが、「キムチ皿でなくて載せますよ。50円返金します」と言うので結局はこうなった。
キムチワカメ.jpg
スープの色が違うのがわかりますか?
スープ1.jpg
スープ2.jpg
喰い終わって出て、根岸駅行のバス停時刻を見たらまだ若干の時間があった。では来た時に下りたのバス停、本牧宮原に戻ろうかと踵を返したら、大将向かいにある小丘に異変を発見した。本牧十二天、通称で十二天山、護国山ともいうこの丘の麓が緑地帯と小公園化していたのです。
幾つかパネルが立っていた。
本牧十二天緑地2.jpg
パネルをかいつまんで言うと。。。
本牧十二天の由来は源頼朝が鬼門鎮護の為に本牧神社を置いた。(建久3年、1192年)
鎌倉時代に本牧は「平子の郷」と呼ばれ、小田原北条氏の時代には「本牧郷」、江戸時代になってから「本牧本郷村」と呼ばれた。
人口2000人の漁村で、いりこの生産と廻船湊として賑わった。
本牧本郷村には集落が6つあって、間門、牛込、原、宮原、箕輪、台、十二天社は村の総鎮守であったこと。
江戸後期には名所図(絵)に載るようになった。絵に描かれるくらいだから風光明媚だったと思われます。
護国山砲台建設前.jpg
そして黒船来航と横浜開国に絡んでこうある。
「鳥取藩松平家を中心に2500人もの武士が集められ主に海岸線に数ヶ所の砲台が作られ・・・」
大将の向かいの丘、十二天山には砲台があった。護国山台場です。
護国山1.jpg
護国山2.jpg
台場、砲台は、中世武士団の自領自衛や支配層の政治中心部や権威の象徴ではなく、諸外国に対する自衛、対外的なもので、諸外国船が日本沿岸にちょいちょい現れるのを脅威に感じた江戸幕府が、最初に諸藩へ砲台構築の命を発したのは嘉永2年(1849年)のこと。
江戸湾の防衛ラインは当然、江戸城を詰めの城とするもので、、
房総館山から三浦半島剣ヶ崎を大手。
富津、観音崎、千駄先の浦賀水道を第一防衛ライン。
夏島、野島、金沢、富津を第二防衛ライン。
羽田、大森を第三防衛ライン。
品川沖に海中台場11基。
この時、三浦半島防衛ラインの拠点司令部や基地として大船の玉縄城を再修築しようという建議も出た。
イメージ.jpg
公園のパネルにはそこまで詳しく載ってないが、「嘉永6年(1853年)の黒船来航と、それに続く安政6年(1859年)の横浜開港は本牧にも大きな変化をもたらしました」の後に、「本牧の八王子山と十二天山は沿岸防備の為に熊本藩が、後に鳥取藩が守りを固める場所になりました・・・」
八王子山は現在の市営バス本牧車庫に隣接した崖の上で現在はマンションが建っています。こっちが先に完成したが、開国を迫るペリーの黒船が再来航して上陸した後、ここ本牧十二天の護国山台場にも建設という流れになる。
台場を守備した鳥取藩の藩主は池田相模守慶徳(ヨシノリ)という人。鳥取藩兵が十二天山から八王子山までの本牧海岸を警護する陣営図も載っていた。
鳥取藩警備中の護国山.jpg
砲台、台場の縄張りはわからない。ジャン家の史料には、周囲を土塁で囲い、石塁の砲座上に銅製の砲を鎮座させたという。
訓練でブッ放したとは思うが実戦闘にはならなかった。
古写真2-1.jpg
十二天山(護国山)は終戦時に米軍占領地になって神社は本牧二丁目へ移転した。現在は本牧和田にあります。
(ジャン家の史料にはそれ以前、砲台建設時に神社社務所が兵営になったとある。)台場跡には米軍住居用に給水タンクが置かれた。
いつか日本に変換され、国有地として立ち入り禁止となった。
護国山3.jpg
拡大してみる.jpg
柵を越えて裏からよじ登ろうとすればできないことも無さそうだがそんなことしてお縄になる訳にもいかない。給水タンクが置かれた際にも砲台遺構は潰れたと思う。
古写真1-1.jpg
現在の様子.jpg
ここ一帯はかつては海だったが現在は埋め立てられて風光明媚だった頃や海中砲台の面影はない。崩れないようにコンクリで固めてある。
大将のスタッフもここが砲台だったことは知らないだろう。
コメント(2) 

コメント 2

ちまき

大将の茎ワカメ&キムチ 好きです!!

本牧は車でないと行き辛いのでなかなか行く機会が無いんですよね。
こんな台場跡があるなんて知らなかったです。
by ちまき (2016-01-23 22:36) 

船山史家

ちまきさんおはようございます。大将フリークでしたよね。
茎ワカメは三陸産を仕入れていたのが震災後で鳴門産になり、また三陸産に戻したようです。細かったり平べったかったり不揃いなのがいいです。
キムチは自家製です。大将錦町店は別室に仕込室があって、そこで寝かせたスープや白菜を浸け込んだりしています。その日によって辛さに多少のバラツキがありますが手づくり感満載です。
台場はジャン家にある史料で偶然見つけまして。これってあの山じゃんかって。
大将のあるマリンハウス側は海だったので、砲身は大将を向いていたかもです。
by 船山史家 (2016-01-24 07:16) 

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