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ふたつ山砦 [隠れ郷土史]

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初秋の頃、この日の静岡日帰り出張は新横浜7時45分発のこだま、静岡駅で8時56分発の東海道線島田行(僅か3両編成だった)、藤枝着は9時15分、そして行政までタクシーで。
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静岡2.jpg
都内の平時シフトは9時~18時勤務ですが、それを地方出張に当てはめて藤枝に9時きっかりに来るのは厳しい。かといって前泊するほどでもないし。
「そういう場合ってスタートは何時から勤務時間にするんですか?」(現地の姐御リーダー、A子)
鋭いツッコミだな~。
「自分で決めるしかないね。小田原とか。熱海とか」
こういう質問を受けたのは、静岡や群馬の社員が東京で研修を受ける場合、移動時間はどのタイミングから勤務時間になるのかということ。
「上京する場合は新幹線に乗った時間だろうね」
「退勤時間は?」
「その逆かな。最寄り駅に着いた時間でいい」
藤枝.jpg
前へ進むのに一旦戻るルートが嫌いな私は、新横浜に戻らず真っすぐ西に向かって小田原から乗車するのを好むのですが、今回はそうしなかった。朝メシを食べた松屋でアンちゃんがひとり勤務で時間がかかったからですよ。
松屋1.jpg
松屋2.jpg松屋3.jpg
松屋4.jpg松屋5.jpg
松屋6.jpg松屋7.jpg
どうも松屋さんのタッチパネル券売機は苦手だよ。
またこんなオカシなことになってさ。
またもこんなことに.jpg
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静岡県藤枝市にある行政です。
駅から私を乗せてきたタクシーが去っていくところ。
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幸い申請は無事に終了して時間に余裕ができたので、タクシーを呼ばないで徒歩で駅まで戻ることにした。

さて、カテゴリに繋がる歴ネタですが。その前に。
私がタクシーを見送ったこの行政ですが、1階のWCをお借りしたことがあります。それも10回や20回どころじゃない。もっとです。
届け出事項があってその際に借りるのですが、お腹の調子がイマイチな時に、ここから東にある「まぁるい縄張り」田中城近くでランチしたことがある。
https://funayama-shika-3.blog.ss-blog.jp/2017-05-29
https://funayama-shika-3.blog.ss-blog.jp/2017-09-05-1
この時のランチは藤枝で有名な朝ラーメン、それも温かいラーメンと冷やしラーメン(冷やし中華ではない)をセットで食べた。冷えたら当然お腹の調子が更に悪くなり、この行政のWCをお借りしたものです。
過去記事の田中城散策他は私の体調管理不行届でドジった旅紀行でもあったのですが、その田中城を徳川軍が攻囲した時の陣城、砦がこの行政の南にあるのを知った。
ただ、行政から直線では行けない。東海道線をアンダーパスする必要がある。
カインズやベイシアをグルッと廻って、踏切を渡ってそっち方面へ向かいます。
踏切.jpg
家康の藤枝方面への侵攻は天正3(1575年)年8月頃からだが、武田方の最大拠点、私がお腹を壊したまぁるい縄張りの平城、田中城攻めは天正6年から数回に及んだ。平城なのにすぐには落とせなかったらしい。
家康が野戦が得意というのは家康ファンが言ってるだけだと思うが、平城なのに田中城攻めに難儀したのは、天正7年(1579年)に嫡子、信康が自刃したのもあって、メンタル的に参ってたのではないかな。
田中城が落ちたのは天正10年(1582年)です。史料には、このとき砦(とりで)が築かれた「二つ山」があったと。
あの二つの山かな。
二つの山.jpg
どちらに行こうか。2か所廻るのはキツいしな。
検索したら、東海道本線のすぐ南側にある岩城神社の祀られている比高30mほどの山だというからあれかな。
(鳥観図の第一人者、余湖先生のサイトによる。)
砦へ向かう1.jpg
砦へ向かう2.jpg
砦への参道.jpg
岩城神社はここから参道が伸びていた。
比高30mほどの丘が、家康がここから東にあるまぁるい縄張り、田中城を攻めた時の陣城のひとつです。
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神社3自然地形か2.jpg
この参道は岩城神社の西側であり、陣城はこの右上にある。人工的な縄張りが崩れたのか、単に自然地形なのかわからない。散策して雰囲気のみ味わった。
神社4自然地形か3.jpg
神社5左に空堀跡?.jpg
神社6石段.jpg
登ったら岩城神社があった。境内は薄暗くて無人です。誰かが手入れしている感もない。
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社殿の裏は雑木林で人口的に手を加えた形跡がなかった。
境内の東には10mほどの石段があり、そこを登ったところが最高所だった。
神社9本郭へ.jpg
郭と思われます。西側には低い土塁も。
本郭2土塁痕.jpg
本郭1見下ろす.jpg
そこから見下ろしたところ。二の郭、三の郭と段々になっていた。この辺りはいい雰囲気です。
でもこれだけで規模の大きなものではない。あくまで物見の場所で大軍は麓に駐屯させていたのだろう。
私は史料そのものは見てないが「駿河二山ニ陣取候」とあるそうです。この二山とは二つの山に陣を取ったということ。陣所はこの岩城神社の山ともうひとつに置かれていた。
もうひとつはあの山だろうか。
本郭5あの山もそうかな.jpg
各方面を調べてみたら鳥観図の第一人者である余湖先生のサイトに、
「岩城神社(八幡山)は、かつて西側に藤五郎山、東に池田山があり、広大な陣城であったが、藤五郎山と池田山は現在では削平されて失われているという」
コメ増産が叫ばれた時代があって、均されて田んぼになったに違いない。
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本郭4吸い込まれそうだ.jpg
ではまぁるい田中城を攻囲する本陣として、そっち方面を望んでみますが、駅方面を望むが木々で遮られて見えないです。定宿ルートイン藤枝も見えない。
本郭7駅方面2.jpg
太極拳をしているオバさんがいた。
散歩、散策中のおじいさん。
黒いスーツ姿で革靴は私だけである。
神社11引き上げよう.jpg
家康はこの陣城にいた時は嫡男信康や築山御前のことで参っていたと思う。殆ど信長の命で誅したようなものだからね。
自刃の悲報はこの陣城か砦か、田中城の前戦で受けた筈だ。
荒れた家康は、田中城を落とした後も焼津の用宗城で相当やらかしたようです。
https://funayama-shika-3.blog.ss-blog.jp/2016-02-11
「三河に勃興し遠州に勢力を拡大した徳川勢と度重なる攻防戦を繰り返し、なかでも天正七年九月の戦は最も残虐であった。それは織田信長に今川と結び謀反の疑いをかけられた家康が、今川方の血をひく正室築山御前を自らの手の者に殺させ、また長子信康は二俣城中で自刃して果てた。我が妻子の無念を思う家康のやるところなきうっ憤の吐け場となり激闘壮絶を極め、武田方の城将向井伊賀守正重、甥の兵庫、叔父伊兵衛政綱、長男政勝ら悉く悲惨な討死を遂げた。」
天正七年九月の戦は最も残虐であった・・・

岩城神社の境内には田中城攻囲戦の陣城、砦だった記載は皆無だった。陣城や付城は戦時中の軍事施設なので、戦争が終われば放置される。政庁や象徴ではないからかもしれない。
砦の壁.jpg
さぁ戻ろう。藤枝駅まで歩いた。これが結構な距離で足がくたびれてきた。東海道線に沿って直線的に歩くだけなのだが、藤枝駅が見えてるのにそこまでたどり着かないような錯覚に陥った。
砦の地図.jpg
藤枝11.jpg
この後、自分は清水区へ11:30に駆け込んでいます。前にUpしたラーメン屋でチャーハンがデカい店、その先向こうにあるのが私が出向いた清水区役所。
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その先で見たものがこれ。
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清水区3.jpg
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何なんだろうねこのネーミングは。入る気にならないよ。
清水駅からここまで往復歩いたのです。その歩いた疲れと朝早かったのが重なり、眠気をもよおしてきた。
次の行政窓口、富士宮市に向かおうと富士市方面の電車に乗ったのですが、その電車はワイドビュー富士川という特急だったのですよ。(続く)
コメント(2) 

コメント 2

くまねこ

こんにちは。

地元民でもなく、歴史も知らなければ、
ただの2つのちっちゃな山ですね。

大勢の人間が命をかけた場所も、
時の流れに埋もれていくものなのですね。
by くまねこ (2019-12-27 14:08) 

船山史家

くまねこさんこんにちは。
だたの2つのちっちゃな丘でした。片方には神社がありました。参道もあるし一部は公園化されてます。もう片方は行ってませんが。
実は今日の記事、明日、明後日~年末年始記事への序章なのです。
最後に書いたJR特急・ワイドビュー富士川がネック、キーワードでして。このあと何が起きたかというと・・・??
by 船山史家 (2019-12-27 17:15) 

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