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地元の砦跡 [隠れ郷土史]

砦(トリデ)とは何だろうか。
館ではない。恒久的な住居ではない。
スケール的に城でもない気がする。城は他国や外敵からの防御の拠点だが、城主の居住区もあるし、その地の政庁を兼ね、施政者の象徴でもある。砦はそこまでの規模はない。
近隣諸国を仮想敵国としたら、防御、守る側と、攻勢、攻める場合とある。砦が前者なら、核となる城を防御する為に外の要所要所に造られる小規模な要塞をいう。
後者の場合は、攻城する側、包囲する側が造る。城兵を監視して封じ込める砦である。韮山城や高天神城の攻囲戦では城兵を封じ込める為に幾つも設けられた。付城とか陣城ともいわれる。
ただ、造る性質上、砦はあくまでポイントであり、攻囲する為に丸太で支柱を打った柵は砦とは呼ばない。攻囲する陣でいい。
攻める側の砦は相手の城が陥落したら不要になる。終われば廃される。残して利用する必要などない。
今回取り上げるのは、前者、外敵の攻撃を防ぐ為の砦跡、横浜方面から東海道線で大船駅に滑り込む前、右手に鬱蒼と茂った台地があって、そこにあったらしい砦、
長尾台1バス停.jpg
大船駅西口から歩いた。バス停2つくらい歩いたその場所は長尾台という。この長尾台出身の春の新卒入社の社員がいた。申請書類にその子の住所を記入する欄があって、人事部から入手したデータを見たら長尾台町だったの。
へぇ、砦のあった丘に住んでるのかって思った。
ところがその子、入社して2年で入籍、埼玉県に転居、ご懐妊で産休、復職したら時短どころか雇用形態変更でパートになっちゃって、半年で辞めやがった。私が人事部に「彼氏がいるヤツは採るなよ」って言い放った最初のケースだったね。
まぁそれはいいや。その長尾台バス停から斜め左に逸れて真っすぐ歩いて、床屋さんにぶつかったら左折、またすぐ左折、町内ゴミ出し場のある交差点を今度は右折、折れてばっかりで少々めんどくさいのだ。
そこから緩やかな坂を上がっていく。右に廃屋があって、
長尾台2坂1.jpg
長尾台3坂2.jpg
F山温泉前から先の林道、作業道のような坂を上がっていくと、そこに解説板があって、
長尾台4坂3.jpg
長尾台5坂4解説板1.jpg
この手のサイトには必ず出てくるといっていい横浜市栄区、おそらく教育委員会が打った解説板、転記するのがタイヘンだった。
長尾台6坂5解説板2.jpg
『長尾砦址は戦国時代に小田原北条氏が築いた玉縄城の出城、長尾砦の址といわれる。しかし長尾の名は古く鎌倉以前にまで遡る。

この地に鎌倉武士長尾氏の館があったといい、昭和55年、農地整備に伴い横浜市埋蔵文化財調査委員会の発掘調査が行われ、縄文時代から中世にかけての遺物が発見されている他、現在までこの付近から五輪塔、板碑、陶磁器等が出土している。

長尾氏は平安時代の武将で、源義家に従って後三年の役で活躍した鎌倉武士の祖ともいえる鎌倉権五郎景政の子孫がこの地に住んで 長尾次郎と名のったと伝えられ、これが鎌倉長尾氏の始祖だという。この地の御霊神社(別名権五郎神社、本社は鎌倉坂ノ下)は景政を祭神とするから、長尾氏の祀った祖先神である。
次郎の子孫という長尾定景は、治承4年(1180年)8月の石橋山の合戦で源頼朝を護る為、俣野五郎景久と組内をしていた佐奈田与一義忠を討ちとった人物と源平盛衰記にある。また、建保七年(1219年)一月、 三代将軍源実朝を殺害した別当公暁を討った人でもある。

その子景茂は宝治元年(1247年)6月の三浦泰村の乱(宝治の乱)で泰村方に付き、泰村が敗れたので北条時頼軍に襲われ、景茂父子は源頼朝の建てたという法華堂で自刃した。ここに鎌倉長尾氏は滅亡したのだが、室町時代にその一族、長尾景仲が活躍したし、戦国時代に長尾顕方等の一族の屋敷があったというから、その後も一族の子孫達がこの旧長尾郷一帯に定着していたと 考えられる。』

(三浦泰村はコメディチック大河で山本耕史さんが演じている三浦義村の子です。)

『戦国大名で有名な上杉謙信も、越後国守護代の長尾氏で長尾景虎といい、後に関東管領上杉氏の末裔を迎えてその養子となり 上杉氏を名乗ったのだから、その先は鎌倉長尾氏である。
その時代、小田原北条氏が関東一円に勢力を拡大する中で、長尾顕方等の一族もその勢力下に組み込まれ、玉縄城主北条綱成の領地とされ、長尾氏の屋敷のあった長尾台に長尾砦が築かれて柏尾川流域一帯を掌握する根拠地となり、三浦・武蔵方面への支えとした。』
長尾台7坂6解説板3振り返る.jpg
解説板には「柏尾川一帯を掌握する根拠地となり」とある。砦で統治するとは考え難いので、後北条氏の頃にはそれ也の建物が建っていたのかも知れない。
この解説板が無ければ砦があった台地に上がってもただの農耕地、住宅地を見るだけで終わる。
レビューも散々である。転用すると、
「城跡との事ですが、看板がなければそれと気づかない位に何もないです。」
「看板があるだけで何もありません。」
何もありません?畑と家々はあります。坂を上りきって左折すると砦の跡に入るのですが、右に行って獣道を下ると解説板にもあった御霊神社に下りていく。そこにはこれとは別の「長尾氏居館跡」の解説板があるのですが今回は省略します。いったんそこへ下るとまた上って来なくてはならないからね。
台地上に出ると、そこは広い農耕地になっている。砦の規模じゃないです。
長尾台8台上は畑.jpg
長尾台9堀跡ということにしておく.jpg
このキャベツ畑の窪みは空堀の跡かもしれない。私も上州に赴任していた1年間でいろいろ見て廻ったので、この程度の形状を見て想像ができるくらいにはなった。
これもこの筋のサイトにはよく出て来る物見塚、または物見台、壇のようになっていた。
長尾台10よく見かける物見台跡?.jpg

長尾台11大空堀?.jpg
そしてこれまたサイトでよく言われるこの形状、左はブロックで固められて住宅が建っているのですが、向こうの山に向かって断面が箱の形状になっている。この削平地をジャン自室にある史料では大空堀としているが、何だか不自然な気がする。幅が広過ぎなんですよ。
ジャン自室の史料にはこの広さや幅について「鉄砲を意識して」とあったが、堀だけだとすると台地上の面積を有効活用していない気がするのだ。
そうでなくても長尾台地は広い。綺麗に畑地や宅地に開発されているので、表面の地形観察だと漠としてわかり難いが、長尾台地全体がそうだとするとこれはもう砦の規模ではない。この大空堀?を含めてかなり大きい巨城になってしまいそうだ。
史料3.jpg
守備する側は籠城する兵力だけで敵を撃退することは難しい。他からの援軍が要る。その援軍を待つための時間稼ぎも要る。この台地には縄張りの有無が判然としないが、緊急時の住民の避難場所としてなら大空堀も含めて有効かもしれない。
長尾砦跡は住宅地でもあり農耕地でもある。密集している住宅地ではなく、ポツポツと個人宅が写ってしまうので、あまり数多く写真を撮るのは憚られる。

だが、ひとつのレビューがある。
それはGoogleにあった。
こんなレビューが。。。

『余り遺構は無いかと思いきや意外や意外、玉縄城主要部に繋がる尾根方面に隠れる様に林道に成ってる空堀状の道と土塁の武者走り、その下には谷を裾切した大空堀が残ってました。』

その隠れ遺構は、今は農地にしか見えない大空堀の写真の二又の舗装された農道を右に行って、道の行き止まりを突き抜けると、
長尾台12空堀道1.jpg
武者走り、空堀を兼ねた道が続いていた。
これがレビューによる空堀状の道と土塁の武者走りらしい。
長尾台14空堀道2右に土塁1.jpg
長尾台15空堀道3右に土塁2.jpg
長尾台16空堀道4.jpg
長尾台17空堀道5振り返る1.jpg
長尾台18空堀道6.jpg
進行方向右の土塁、向こう側下は崖のようだ。
実はこの崖下に有名な蕎麦屋の屋号のもとでもあるホンモノの九つ井戸がある。長尾砦の水の手だったのだろうか。
長尾台19空堀道7振り返る2.jpg
木々が倒れている。この辺りは夏場だと深い薮に覆われて、確認も難しくなるのではないか。
長尾台20空堀道8木々が倒れている.jpg
長尾台21空堀道9出口が見えていた.jpg
急に前方が明るくなってきた。住宅地に抜けた住居表示には「玉縄」とあった。砦の切通し道は横浜市と鎌倉市の境目を越え、玉縄台へ抜けたのです。
抜けた先には玉縄城がある。そことの繋の道に違いない。堀を兼ねた古道は後北条氏時代のものと考えていい。
史料によると、長尾砦の城代は鳥居伝十郎というそうです。天正18年(1590年)の小田原滅亡まで努めていた。謎の人物。
出てきた空堀道を振り返ったところ。
長尾台22空堀道10出口え振り返る.jpg
砦なんてのは後世に伝えるものは殆どない。必要はのはその時だけで、終わってしまえば廃され、打ち捨てられ畑や自然に還るのだろう。
何かそこにドラマがあれば場所と名前だけは残るケースがある、田楽狭間の前哨戦だった鷲津、丸根、善性寺の砦名が後世に残るのは、総大将が討ち取られて首まで取られたからである。一か八かへ至るまでのドラマがあるからである。
史料4.jpg
自分はこの後、玉縄住宅からアヤし気な別の「土の道」に踏み込み、左右が急斜面なこれまたアヤしい尾根を歩いたが、そこは私有地のようでもあるので掲載しません。後で地図をなぞってみたら、廃止撤去されたドリームランドモノレール軌道跡の一部を見たような気がした。
この日のランチは大船駅東口の石狩亭、
https://funayama-shika-3.blog.ss-blog.jp/2022-02-02
コメント(2) 

コメント 2

佐奈田堂

呼ばれたような気がして・・w
ツワモノどもの夢のあと
勝つ者、負ける者、いずれにしても時が穏やかにしてくれますね。

by 佐奈田堂 (2022-04-17 17:09) 

船山史家

佐奈田堂さんこんにちは。
>俣野五郎景久と組内をしていた佐奈田与一義忠を討ちとった人物と源平盛衰記にある・・・
これ、解説板から転記したのですが、その辺りは石橋山合戦では描かれなかったですねぇ。
漠とした戦闘シーンでのハイライトだから取り上げてもいいのにね。
by 船山史家 (2022-04-17 19:52) 

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