内藤ステーション 旧前橋駅跡 [隠れ郷土史]
JR前橋駅前を東西に走る県道109号線を石倉前橋停車場線といいます。
この県道は東西1.6kmしかない。ここより東で合流するる国道50号線「中川小学校前」までなら2kmぐらいあるかもしれないが、短い県道です。
前橋駅前を過ぎて、利根川を渡って(利根橋)石倉町一丁目までの短い県道ですが、この表示、停車場線というのに目がいった。

停車場とは駅に昇格する前のことだろうか。現在の前橋駅のことか。

調べてみたら、今いる前橋市表町から西の利根川を渡った石倉町に最初の前橋駅があったというんだな。
初めて上野から高崎まで鉄道が開通した先、前橋まで延長しようとしたが、利根川を架橋するのが困難で石倉町に駅を設置したそうです。最初は利根川を渡っていなかったのだ。渡る手前です。
内藤ステーションといいます。前橋ステーションでもいい。
11時から15時までの時間帯は、高崎方面の電車が1時間に2本しかない。新前橋駅まで行けば上越線や吾妻線の分だけ本数が増えるので、澄んだ青空の下、内藤ステーション経由で新前橋駅まで歩いてみたんですよ。



利根川を渡るとこ。左手には両毛線の利根川橋梁が並行している。
この利根川橋梁は川に沿って吹く強風、赤城おろしか榛名おろしが強いと電車は速度を落としたり、運休したりすることがある。
前に新前橋で足止めくってタクシーで前橋けやき通りまで行ったことがあるが、私が歩いているのはその時の道だ。



右手の上流側を見ると群馬県庁が見えます。県庁所在地なのに1時間に2本しかないんですよ。



橋を渡って下りていくと、そこに旧利根川橋の橋台跡があった。新旧の橋台が並んでいる。
対岸にもある筈だが草葉が生い茂って見えない。



河原に旧利根川橋の橋脚の台が見えます。楕円形の白い部分です。


河から県道に戻って上流を見たところ。県庁が目立つ。
この県庁と高崎市の市役所が高さを競い合っているように思うのは私だけじゃなかろうて。

現在の若い方は気にしてないと思うが、前橋に県庁を置いたことで高崎市と対立構造になったことは過去にサラッと述べたけど、前橋市としてはそれ以外にも屈託があって。
上毛かるたでいう『県都前橋生糸(イト)の市(マチ)』です。こう謳われるのに世界遺産登録に関われなかったのです。
調べないとわからないが、群馬の生糸産業は世界遺産になった富岡製糸場より先に前橋で始まったのですよ。
富岡製糸場が操業開始したのが明治5年(1875年)だが、その2年前、明治3年(1873年)に「日本で最初に機械製糸工場」が前橋市で操業を開始しています。
最初は住吉町1丁目で操業スタート、次に岩神町(県庁の北側)へ移転した。「藩営前橋製糸所」という。藩営とは官営のことです。
明治5年の廃藩置県後は県営になり、その後は私営の大渡製糸所として明治31年(1898年)まで操業した。
生糸織物を東京まで搬送したが、利根川河川運輸で倉賀野を経てまる3日かかったという。これは鉄道が必要だと相成り、初代前橋市長の下村善太郎という人や、前橋の豪商、生糸商人たちが「製糸織物産業の発展には鉄道敷設が必要」と働きかける。
明治17年(1884年)国有化される前の日本鉄道(日本最初の私鉄)によって上野~高崎間が開通、8月には前橋まで延長されたが、前述のように利根川架橋が困難だった為、最初の前橋駅は現在の前橋駅ではなく、利根川を渡らず、私がこうして歩いている先、現在の石倉町にあったのです。
旧日本鉄道(旧国鉄)の前橋駅といっていい。



この辺りの筈だが。
あったあった、両毛線の高架橋の袂、石倉アンダーパスの歩道脇にある。内藤分ステーションとある。
内藤とは、箕輪城からこの地を治めた武田家の内藤昌豊(長篠で戦死)に因む地名らしいです。


第67台内閣総理大臣、福田赳夫の揮毫でしょうか。






道を渡った北側にもうひとつ解説版とモニュメントがあった。
こちらは高崎出身の福田赳夫の揮毫ではなく、近年になって同町在住の有志の方が自宅敷地内に私費で設置したもの。こちらは前橋ステーションとある。


位置関係がこれ。

それまでは利根川の水運で3日、更に横浜港を経由して海外へ輸出していたのだが、鉄道の開通によって4時間20分ほどに短縮された。1日3往復、乗降客数も多く、明治18年(1876年)年間69147人、明治21年(1879年)217260人という。



だがこの駅の存続年数は短かった。僅か5年です。
明治21年(1888年)には両毛鉄道が小山~足利間を開業、翌明治22年(1889年)11月20日には小山~現在の前橋駅間が開業しています。となると利根川を挟んで2つの前橋駅があったことになり、私がこうして歩いてきた距離だけ離れていたのですが。
同年12月26日、ついに利根川に待望の鉄道橋が架かり、日本鉄道が前橋駅(内藤分ステーション、日本鉄道)が前橋駅(両毛鉄道)が接続、延長された。利根川を渡って県庁側にある前橋駅に乗り入れが可能になったので、旧前橋駅の内藤分ステーションは廃止された。

大正10年(1921年)7月1日、当時は上越南線といった上越線が渋川まで開業し、両毛線との分岐駅として新前橋駅が開業するのですが、新前橋駅と旧前橋駅は700mほどしか離れていません。内藤ステーションは復活しなかったのです。



石倉町から新前橋駅まで延々と歩きます。
何しろ1時間に2本しかないので、私が歩いている間、両毛線経由の高崎方面の電車は来なかった。その代わりに、上越線や吾妻線から来た高崎方面の電車音を聞いた。



この新前橋駅、県庁を持ってかれた高崎市がそれを根に持って?上越線を高崎駅から伸ばす際に前橋を通らずそのまま北上して渋川に至る路線案を主張した為に前橋議会が反対し、利根川よりこっち(高崎)側の前橋市内域に両毛線との分岐駅として設けた駅だという説がある。
私はそれを居酒屋や、出入りしている年配の営業マンから聞いた。
後年、高崎市は新幹線の駅の誘致に成功しているが、高速を出す為の線形を考えたらそれは当然だろうね。
この県道は東西1.6kmしかない。ここより東で合流するる国道50号線「中川小学校前」までなら2kmぐらいあるかもしれないが、短い県道です。
前橋駅前を過ぎて、利根川を渡って(利根橋)石倉町一丁目までの短い県道ですが、この表示、停車場線というのに目がいった。

停車場とは駅に昇格する前のことだろうか。現在の前橋駅のことか。

調べてみたら、今いる前橋市表町から西の利根川を渡った石倉町に最初の前橋駅があったというんだな。
初めて上野から高崎まで鉄道が開通した先、前橋まで延長しようとしたが、利根川を架橋するのが困難で石倉町に駅を設置したそうです。最初は利根川を渡っていなかったのだ。渡る手前です。
内藤ステーションといいます。前橋ステーションでもいい。
11時から15時までの時間帯は、高崎方面の電車が1時間に2本しかない。新前橋駅まで行けば上越線や吾妻線の分だけ本数が増えるので、澄んだ青空の下、内藤ステーション経由で新前橋駅まで歩いてみたんですよ。



利根川を渡るとこ。左手には両毛線の利根川橋梁が並行している。
この利根川橋梁は川に沿って吹く強風、赤城おろしか榛名おろしが強いと電車は速度を落としたり、運休したりすることがある。
前に新前橋で足止めくってタクシーで前橋けやき通りまで行ったことがあるが、私が歩いているのはその時の道だ。



右手の上流側を見ると群馬県庁が見えます。県庁所在地なのに1時間に2本しかないんですよ。



橋を渡って下りていくと、そこに旧利根川橋の橋台跡があった。新旧の橋台が並んでいる。
対岸にもある筈だが草葉が生い茂って見えない。



河原に旧利根川橋の橋脚の台が見えます。楕円形の白い部分です。


河から県道に戻って上流を見たところ。県庁が目立つ。
この県庁と高崎市の市役所が高さを競い合っているように思うのは私だけじゃなかろうて。

現在の若い方は気にしてないと思うが、前橋に県庁を置いたことで高崎市と対立構造になったことは過去にサラッと述べたけど、前橋市としてはそれ以外にも屈託があって。
上毛かるたでいう『県都前橋生糸(イト)の市(マチ)』です。こう謳われるのに世界遺産登録に関われなかったのです。
調べないとわからないが、群馬の生糸産業は世界遺産になった富岡製糸場より先に前橋で始まったのですよ。
富岡製糸場が操業開始したのが明治5年(1875年)だが、その2年前、明治3年(1873年)に「日本で最初に機械製糸工場」が前橋市で操業を開始しています。
最初は住吉町1丁目で操業スタート、次に岩神町(県庁の北側)へ移転した。「藩営前橋製糸所」という。藩営とは官営のことです。
明治5年の廃藩置県後は県営になり、その後は私営の大渡製糸所として明治31年(1898年)まで操業した。
生糸織物を東京まで搬送したが、利根川河川運輸で倉賀野を経てまる3日かかったという。これは鉄道が必要だと相成り、初代前橋市長の下村善太郎という人や、前橋の豪商、生糸商人たちが「製糸織物産業の発展には鉄道敷設が必要」と働きかける。
明治17年(1884年)国有化される前の日本鉄道(日本最初の私鉄)によって上野~高崎間が開通、8月には前橋まで延長されたが、前述のように利根川架橋が困難だった為、最初の前橋駅は現在の前橋駅ではなく、利根川を渡らず、私がこうして歩いている先、現在の石倉町にあったのです。
旧日本鉄道(旧国鉄)の前橋駅といっていい。



この辺りの筈だが。
あったあった、両毛線の高架橋の袂、石倉アンダーパスの歩道脇にある。内藤分ステーションとある。
内藤とは、箕輪城からこの地を治めた武田家の内藤昌豊(長篠で戦死)に因む地名らしいです。


第67台内閣総理大臣、福田赳夫の揮毫でしょうか。






道を渡った北側にもうひとつ解説版とモニュメントがあった。
こちらは高崎出身の福田赳夫の揮毫ではなく、近年になって同町在住の有志の方が自宅敷地内に私費で設置したもの。こちらは前橋ステーションとある。


位置関係がこれ。

それまでは利根川の水運で3日、更に横浜港を経由して海外へ輸出していたのだが、鉄道の開通によって4時間20分ほどに短縮された。1日3往復、乗降客数も多く、明治18年(1876年)年間69147人、明治21年(1879年)217260人という。



だがこの駅の存続年数は短かった。僅か5年です。
明治21年(1888年)には両毛鉄道が小山~足利間を開業、翌明治22年(1889年)11月20日には小山~現在の前橋駅間が開業しています。となると利根川を挟んで2つの前橋駅があったことになり、私がこうして歩いてきた距離だけ離れていたのですが。
同年12月26日、ついに利根川に待望の鉄道橋が架かり、日本鉄道が前橋駅(内藤分ステーション、日本鉄道)が前橋駅(両毛鉄道)が接続、延長された。利根川を渡って県庁側にある前橋駅に乗り入れが可能になったので、旧前橋駅の内藤分ステーションは廃止された。

大正10年(1921年)7月1日、当時は上越南線といった上越線が渋川まで開業し、両毛線との分岐駅として新前橋駅が開業するのですが、新前橋駅と旧前橋駅は700mほどしか離れていません。内藤ステーションは復活しなかったのです。



石倉町から新前橋駅まで延々と歩きます。
何しろ1時間に2本しかないので、私が歩いている間、両毛線経由の高崎方面の電車は来なかった。その代わりに、上越線や吾妻線から来た高崎方面の電車音を聞いた。



この新前橋駅、県庁を持ってかれた高崎市がそれを根に持って?上越線を高崎駅から伸ばす際に前橋を通らずそのまま北上して渋川に至る路線案を主張した為に前橋議会が反対し、利根川よりこっち(高崎)側の前橋市内域に両毛線との分岐駅として設けた駅だという説がある。
私はそれを居酒屋や、出入りしている年配の営業マンから聞いた。
後年、高崎市は新幹線の駅の誘致に成功しているが、高速を出す為の線形を考えたらそれは当然だろうね。
2019-11-17 07:47
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