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ナレ死の現場 [隠れ郷土史]

気になる丘1.jpg
前夜、ホテルコンコルドを出て貴田乃瀬へ向かう際、ホテル前の交差点、横断歩道の向こうにある丘が気になった。あれも浜松城の曲輪のひとつではないかと。そこには葵の幟がパタパタはためいてたのである。
浜松城の前身である曳馬城の主郭跡です。そこには小さいながらも東照宮と謳ったお社がある。
気になる丘2.jpg
貴田乃瀬の翌朝、100%ではないけど7割方満足したモーニングバイキングを済ませてチェックアウト、では駅に戻る前、腹ごなしに散策を。
「あっちじゃないの?」(ジャン妻)
ジャン妻が指さした方角には浜松城の再建天守閣があった。
「あっちは興味ないんだ」
前の丘を指した。
私は天守閣、白亜の楼閣、石垣、そういうものに全く興味がないのです。(会津鶴ヶ城は別だが)
10数年前は姫路市内にも支店があったのですが(管理が行き届かず現在は他社へ譲渡)その頃ですら国宝の姫路城に行ってません。何故かと言われても、興味がないからとしか言いようがないなぁ。
気になる丘3見上げる.jpg
アヤしい丘を見上げる。
「何処から登るんだろ?」(ジャン妻)
ぐるっと廻ってみる。途中を左折した。この道は堀の跡だね。
気になる丘4登り口は何処だ?.jpg
気になる丘4空堀跡らしい1.jpg
また左折する。向きは浜松城を向いてる筈だ。これも堀の跡だろ。
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気になる丘6案内板があった1.jpg
あ、案内板があった。元城町東照宮(引間城跡)とある。元城町とはもともと城があった町か。浜松城の前身である地域を裏付ける命名である。
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ゆるい坂を上って。これが山城だったらジャン妻はブゥブゥ言いよって絶対についてこない。町内の平城だからつきあってくれてるのです。
気になる丘8.jpg
小さいながらも東照宮の入口、鳥居があった。その右に曳馬城跡の碑とイワレを記した解説板、位置関係を示すものが。
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ミニ東照宮2.jpg
ミニ東照宮3案内板.jpg
ミニ東照宮4解説板と碑1.jpg
ミニ東照宮5曳馬城.jpg
私らだけかと思ったら境内に4組ほど観光客がいたんですよ。いわゆる歴女と思しき方も。いるんですねぇそういうのに興味ある方が。
「お参りする?」
「する。ここまでキタんだから」
小銭、バス代を残して他を投げ込んだ。コロナ禍が収束しますようにって。
ミニ東照宮21.jpg
ミニ東照宮22.jpg
ミニ東照宮23-1.jpg
曳馬城は引馬城ともいう。引馬といえば、高崎駅から群馬バスで剣崎の託児居酒屋へ行く途中に引馬っていうバス停、地名があったな。馬でも引いたのだろうか。
いや、この地のイワレだと、ここから現在の浜松城天守の位置まで城を引いた?推測ですが。
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4月7日からCS銀河で「おんな城主直虎」全話再放送中です。録画して観てます。
4年前に初回観たときは大河って感じがしなかった。ホームドラマかよって。井伊谷という狭い世界、足を伸ばしても駿府辺りまで。小さい家中の騒動の繰り返しでスケールが小さい。入れ込む登場人物は一人もいなかったですね。中野直之は生意気だし、奥山六左は使えないし、龍雲丸はチンピラのボスでしかない。井伊谷三人衆も何だかなぁって。じゃぁ何で再放送見てるかというと、大河として観なければいいのですよ。小さい内容でも要所要所に光るところがたくさんある。検地とか徳政令とか今川仮名目録とか。井伊家を次から次へとイジメる過酷な運命展開には一掬の涙泣きを得ない。
ドラマ前半で前田吟さんが演じた井伊直平、この人は直虎や直政の曾祖父ですが。何であんなトシまで頑張っているかというと。嫡男が登場しません。杉本哲太さん演じた直盛(直虎の父)は直平の嫡男、直宗が三河国田原城攻めで討ち死したので家督を継いだ。
直平の次男、直満(演、宇梶剛士さん)は第1話のとおり横死している。だいたい井伊谷の位置関係で相州小田原の北条氏と誼を通じるのはかなり無理があると思うが。
登場しないが、この時に四男、直義も討たれている。
五男、直元は病死、
三男は小林薫さんが演じた南渓和尚らしいがよくわからない。で、お爺ちゃん直平についてですが、第12話(おんな城主直虎)の途中で奇妙なナレ死を遂げている。
井伊直親を掛川街道で殺害し、2歳の虎松(直政)の首まで差し出せと、今川氏真の井伊家への怒りは収束しないかにみえたが、新野左馬助の掛け合いでどうにか虎松は助命された。
だがそれには条件があった。
小林薫さん演じる南渓和尚が言う「オオジジ様が戦いに行くことが決まった」
70歳を超えた高齢の直平に戦場へ出向けというのである。
「オオジジ様は70を過ぎたご高齢ではないですか。何故、戦になど・・・」(柴崎コウさん演じる直虎、この時は次郎法師だったかな。)
直虎(次郎法師)が館へ行くと、直平と新野左馬助、中野直由が酒盛り中で、
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「我々が今後、今川の戦の手伝いに出ることが虎松の命を助けるための条件だったのだ。我々は必ず戻ってくる。仮にその、もしも、が起こったとしても、それはもはや宿命である。」
息子たちを失いながら、このトシまで生きながらえ、悟ったように言う直平だが。戻っては来なかった。
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『直平は、今川に叛旗を翻した粟野氏を責める為出陣、その陣中において不思議な死を遂げた。』
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『新野左馬之助と中野直由は、反乱を起こした曳馬城の飯尾連竜討伐で討死を遂げた。』
ナレ死です。不思議な死を遂げた?その現場がここ曳馬城の可能性があるのだ。
今川氏真に従って出陣した井伊直平は、ここから西、白須賀に在陣中、陣中から不審な出火があり、白須賀集落が焼き払われ、氏真は直平が直親殺害を遺恨に思ったうえでの意趣返しと勘繰った。
直平は不慮の事故であると弁明するが、この出火過失を埋め合わせる為、甲斐武田に通じた天野左衛門尉討伐の際、曳馬城内で毒殺されたというもの。(他にも諸説アリ)
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新野左馬之助と中野直由は、今いる曳馬城の飯尾連竜攻めで討死とあった。
飯尾氏については説明版に家康前の歴代城主として簡単な説明があった程度だった。井伊直平、新谷、中野については全く触れられていなかった。
直虎の再放送CSで観なおして、直平、新野、中野の最終シーンで、ナレ死と照らし合わせて、
「貴田乃瀬の翌朝、行ったあの小さい東照宮で3人とも死んだんだ」
「???」(ジャン妻)
その辺り、曳馬城のくだりを後日、ジャン妻に得意満面で解説した私ですが。通じたかどうか。

境内の裏にある土塁痕?いや、これは後世の壊変であろうね。
土塁かな1.jpg
土塁かな2.jpg
土塁かな3.jpg
右に昨夜泊ったコンコルド、左遠方に浜松城、
右コンコルド左浜城.jpg
浜松城が見える1.jpg
浜松城が見える2.jpg
気になる丘11下りたところ.jpg
「いやぁ、観光したなぁ」
「???」(ジャン妻)
では境内にある二公像の間で記念撮影をして帰りましょう。
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二公像1.jpg
二公像とジャン-1.jpg
帰りのバス.jpg
浜松駅に向かうバス車内、運転手は昨年、給料が不満で退職したウチのエリア長にクリソツだった。その運転手のアナウンス「両替のお客様は最後尾にお並びください」に失笑した。思わず口に出てしまった。
「そんなこと言ったって、全員が両替だったらどうすんだよなぁ」
「シッ!」(ジャン妻)
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着弾土塁! [隠れ郷土史]

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「浜町の蓮上院ていうお寺」
「れん、じょう、いん、さんですか」
タクシーの運ちゃんはナビを突っついてる。
「七枚橋の先ですかなぁ」
私は余所者ですよ。七枚だか八枚だかわからん。
まだナビを突っついている。
「ああ、新玉小学校の裏ですね」
新玉小学校?それだ。
「その裏でいいです」
そこも戦時中に空襲があって死者が出たんだ。私が今から見に行くものは、その煽りを喰らって一部が吹っ飛んだ形状になっているのです。
寺1.jpg
寺までは殆どワンメーターでした。640円、1000円札1枚と40円渡した。
「すみませんねぇ、この辺りはお寺さんが多いもんで」
とか何とか言ってましたね。こちらこそワンメーターですみません。歩ける距離だったし。帰りは歩いたし。
モダンな本堂ですな。
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後ろでUターンするタクシーが境内の砂利を踏む音がした。その音を聞きながらお参りするフリだけした。お参りに来たわけではない。法事とかの打ち合わせでもないよ。私が探しているものはこの本堂の裏にある筈だが。
境内の一画に、ご住職の母屋らしき家が。
寺3土塁が見える.jpg
母屋の後ろに草を刈って緑色の土手が見える。おそらくあれだろう。
寺の境内とはいえ民家の敷地内ともいえる。アヤしまれないように歩み寄った。
土塁1.jpg
立入禁止の表示がある。これがないと土塁上に登る輩がいるからだろう。
土塁2.jpg
土塁3.jpg
この土塁、途中が窪んでいるように見えるが。どこの土塁でも頂部が平たくなくて、このようにウネったカタチをしているのは後世の壊変や自然の崩れだったりする。
だが、この蓮上院裏の窪んだ土塁は理由、いわれがあるのです。おそらく向こう側から見たら、その形状や、窪んだ辺りの理由が記されてある筈だ。
土塁4窪んで見えるが?.jpg
ここから先へ踏みだすわけにはいかないので、いったん本堂前に戻って、本堂左脇の墓地の間を分け入って、フェンス越しに見てみる。
土塁5墓地を廻って塀越しに1.jpg
土塁6墓地を廻って塀越しに2.jpg
土塁7墓地を廻って塀越しに3.jpg
土塁8墓地を廻って塀越しに4.jpg
手が届きそうだが、遠望するだけでガマンする。少しUpしてみる。
土塁9墓地を廻って塀越しに5ズーム1.jpg
土塁10墓地を廻って塀越しに6ズーム2.jpg
土塁11墓地を廻って塀越しに7ズーム3.jpg
やはり向こう側、住宅側に廻らなきゃいかんな。並んで立っている住宅の前には公道がある筈だから。
本堂に一礼して参道を戻り、
寺5参道を歩いて大通りへ.jpg
寺6振り返る.jpg
大通りに出て左へ、途中、角を曲がって真っすぐきたところ。
ぐるっと歩いてその先は色町だったらしい.jpg
この住宅地の先に1軒のスナックがあった。こんな閑静な住宅地にスナック?と訝く思って後で調べたら、この先はかつて抹香町といって、小田原城下に4か所あった色町の跡だという。
遊郭ではなく私娼窟だったエリアで、高崎の柳川町のようなものか。(遊郭は公的なもので公娼、私娼は非公式なものです。表向きは料理屋の酌婦とかの扱い。)
関東大震災後の大正14年(1925年)、小田原警察が城下のハズレにあるゴミ捨て場だったこの辺りに移転させたという。一画に纏めた方が取り締まりやすいからです。
戦後には赤線になり、1958年に売春防止法が施行されることで赤線の時代は終わる。現在、抹香町という名前は無いが、この先へ踏み込むと、まだ面影が残ってるらしい。
でも今日はそれがテーマではないです。左折するとその先に町内会のゴミ出し場があって、そこからさっき寺の境内から見た土塁が伸びている。
土塁21曲がったら土塁が見えた.jpg
土塁22土塁の端は町内ゴミ出し場.jpg
土塁23伸びている.jpg
小田原城は二の丸総堀、三の丸総堀、総構え堀、三重に囲われた構造となっていた。今私がいる場所は総構えの堀のひとつで、これらが小田原城下町全体を取り囲んでいた。屋敷や寺もろとも囲んでいたのである。
私が歩いている下は水堀で、住宅を建てる為に暗渠にしたようである。
この土塁は、先ほど入った連上院という寺の裏にあるので連上院土塁と呼ばれ、新玉小学校に隣接している。
土塁24解説板が.jpg
土塁25解説板.jpg
解説板その1、天正18年(1590年)太閤秀吉の小田原攻めの際に築かれ、対陣したのは徳川家康だと。
だが、この土塁が残された見どころはこの先にあります。
土塁26沿って歩いてみる1.jpg
土塁27沿って歩いてみる2.jpg
土塁の中央部に、何かで抉れたようなデカイ窪みが!
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土塁29爆弾着弾跡1.jpg
太平洋戦争の終わりの頃、小田原空襲時で投下された爆弾が着弾、土塁が吹っ飛んだ跡!
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土塁32爆弾着弾跡3.jpg
土塁33爆弾着弾跡4.jpg
小田原空襲は太平洋戦争末期、昭和20年(1945年)7月17日、8月3日、5日、7日、13日、15日、7回に渡って城下町は空襲に見舞われた。
この土塁が爆弾で吹っ飛んだのは5回めの13日、当時は小田原市新玉国民学校といった現在の新玉小学校・・・(・・・運ちゃんが新玉小学校かなぁと自信なさげに口に出した学校・・・)・・・が爆撃を受けて校舎が倒壊し、教職員1人、用務員2人計3人が犠牲になった。そのとき小学校に隣接するこの土塁にも着弾したというもの。
米軍が攻撃目標としたのは、当時は軍需工場だった湯浅蓄電池製造小田原工場(現在の株式会社ジーエス・ユアサ・コーポレーション)、富士写真フィルム小田原工場らしいがその煽りを喰ったわけである。
学校に爆弾を落とす意味なんかないだろうに。余った爆弾を行きがけの駄賃とばかりに落としてったのではないか。
土塁30爆弾着弾跡解説板.jpg
土塁に沿って先まで歩いてみる。
右には家々が連なっている。いずれも新しい家だが、1軒だけ遊郭か料理屋時代の名残を留める家もあった。(撮ってません。)
土塁は新玉小学校の敷地にぶつかるところで終わっていた。
土塁34小学校まで伸びている.jpg
では大通りに戻ろう。戻る途中で、さきほどのえぐれた場所をフェンス下のブロックに登ってフェンス越しに撮ってみた。
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土塁36爆弾着弾跡5.jpg
土塁37爆弾着弾跡6.jpg
土塁38爆弾着弾跡7.jpg
土塁39爆弾着弾跡8.jpg
土塁がカットされた先端部は石で補強されており、そこからも民家が連なっている。お婆さんがいたが、声はかけず、私に視線を向けることもなかった。
土塁40戻ろう.jpg
最後のこれは蓮上院のすぐ隣に接する善照寺の墓地の奥に墓石が撤去された一画があって、そこから腕を伸ばして撮ったもの。
土塁41もうひとつの寺越しに.jpg

あの土塁は小田原城攻城戦で小田原城下民を護ったかもしれないが、太平洋戦争末期の本土空襲時には住民を護れなかったのか。弓矢や銃の時代ではないし、敵弾は空から降ってきたのだからね。
大通りに戻った.jpg
帰りは小田原駅まで歩いた。通りはシャッター商店街、裏の飲食店街は大手チェーン店ばかり。昼は悲惨な結果になったのですが。
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地元の城山 [隠れ郷土史]

上長のディクソンから、
「〇〇さん(私のこと)は休める時は有休取ってください」
と言われたのが1月の第1週、唐突に言われて言ってるところの真意を図りかねたのだが、要は在宅勤務が基本できない私に対して、新規感染者数が増大している都内に「来る日をなるべく減らしていいですよ」というヘンな慮り(オモンバカリ)だった。
減らしていいったって有休ですがね。でもお言葉に甘えて。天気のいい日に1日休むことにしたのだよ。
「アタシはその日在宅よ」(ジャン妻)
家にいるからってアタシに構わないでねってか。
「昼ぐらいは作ってあげるけど」
固辞した。そっちは在宅勤務なんだから有休の私に気兼ねしなくていいよと。
「いいよでかけるから」
「何処へ?」
またヘンな場所じゃないでしょうねぇと目が疑っている。私の散策カテゴリには廃墟とか廃道とか、危険な場所はないよ。地元の小さい砦跡を見に行くのさ。地元といっても隣の区です。
「山城?」
「寺・・・」
嘘ではない。その寺の境内には城主のお墓と解説板があって、寺の近くの裏山が砦跡、そこには城山稲荷さんが祀ってあるという。
標高90m弱、難なく登れそうだがお稲荷さんへの参道が荒れてるらしいのだ。夏場は草ぼうぼうとか。
「遠いの?」
「横浜市内だよっ。東戸塚からタクシー、保土ヶ谷からバスかな」

東戸塚駅ロータリーからタクシーに乗ったよ。
タクシー運ちゃんには「今井の金剛寺」と言ったら通じた。歩けない距離でもなかったが。横浜新道に沿って側道をひた走った感がある。
金剛寺1.jpg
「お寺の中に入りますか?」と言われて「いや、入らなくていいよ」と固辞したが、どうも運ちゃんは私を住職かそっち方面の関係者と間違えたフシがあるな。
金剛寺2.jpg
寺の境内に入って本堂に一礼してから山門脇を見ると、解説板とこの辺りの地系図が描かれていた。
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解説板5.jpg
解説板6地形図1.jpg
この地形図に描かれてある本丸と二の丸は、これから登る城山稲荷の出丸より高所になっていたようだ。
後で行ってみたら、その辺り一帯は今井の丘公園、もしくは住宅になっていた。
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この解説本文、ジャン自室にある貴重な書籍の著者、西ヶ谷恭弘先生の筆そのままです。今井の城山はどのサイトを見てもだいたい同じですが、マニアの中での有名なポイントが幾つかあって、

①城主は今井四郎兼平?
本当かなぁ。木曽義仲の忠臣だが、頼朝と争った義仲の一党がまさか鎌倉に遠くないこの辺りにいたとは信じ難い。
(義経で古本新乃輔さんが演じたこの人。)
今井.jpg

②、お稲荷様の境内に、昭和57年頃の横浜市長さんが書いた碑があること。
こんな(と言ったら失礼だが)ローカルで史跡指定もされてるのかアヤしい放ったらかしの砦跡を現役の市長さんが着眼して碑まで建立するとは珍しい。

③、稲荷の背後に堀が残っているが、後世の壊変の如くで甚だアヤしいという。マニアのサイトの殆どが後世の壊変であろうと疑っているのです。

④、昭和30年10月、城山稲荷付近から埋蔵金が掘り出されたこと。
この④記述は書籍やお寺の境内の解説にもあった。大きいカメに100貫、重さは400kg、江戸期の銭は無く、宗銭、元銭、明銭、後北条氏の通貨だった永楽銭などの古銭がギッシリ入っていたと。
そういう場合、所有者は誰になるのかな。
現在の貨幣に変えられるものなのかな。

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埋蔵金2.jpg
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埋蔵金4.jpg
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登城口は何処だ?.jpg
では登城口は何処か。訪城した後で営ってたら入ろうと目星をつけた蕎麦屋さん(コロナ禍で休業中だった。)の前に3本の木の柱があって、
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これがかつて、城山稲荷と城跡を表す字が描かれていたらしいのだ。今は消え失せ、単に古い木の柱と化している。
登城口2これが標柱だったらしい-1.jpg

登城口3.jpg
登城口4.jpg
左は未舗装の駐車場、右は民家で、塀に沿って歩くと荒れ放題の参道に入ります。冬場の時期でこれだから夏場は草ぼうぼう、蜘蛛の巣だらけでヤブ蚊ブンブンに違いない。
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カットした丸木で土崩れを抑えてある階段が現れます。段差は格段バラバラで幅も狭く、踏み付けるのに多少の注意を要する。
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そんなに急でもないし距離も無いけど。夏場だったら汗だくになるところだ。今日は晴れてるけど寒いのが幸い。
登城口8階段を登る1.jpg
登城口9階段を登る2.jpg
登ったらそこは平場になっていて、お稲荷様と碑があった。これが出丸らしい。
城山稲荷2.jpg
城域はこの稲荷さんから北西に伸びて、馬の背中みたいに長いらしい。伸びるにつれて高所になり、さっき述べた今井の丘公園や新興住宅地に繋がるのです。上に行くほと何もないけど、ここより高い領域になる。
城山稲荷3.jpg
旧いけど立派な城跡碑です。それももと横浜市長さんが建立したもの。
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荒れてる稲荷さんに一礼して裏に踏み込んでみる。竹だらけである。
城山稲荷の背後1.jpg
城山稲荷の背後2.jpg
城山稲荷の背後3.jpg
その先に何やら窪みが。。。
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あ、これか、マニアで有名なアヤしい堀です。
この堀が鎌倉時代から今日までずーっと残ってるとは考え難いですな。東側に土建屋さんか?資材置き場への侵入を阻止するバリケードみたいな板があってそこで終わっている。
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これ以外に遺構(この堀すらもアヤしいが、)は無いので、いろいろ撮ってみた。
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堀底に下りてみた。東にある土建屋さんへ続く作業道のように見えるな。
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向こう側、北側にあがってみた。緩い自然地形のまま地勢が高くなっていくがどこも竹藪だらけ。日本の自然ってのは何でこんなに竹が多いのだろうか。
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堀10振り返る.jpg
竹藪を抜けたらその先は住宅が密集していた。そのままいったら家人が竹藪の中から現れた私を見て驚くだろう。お稲荷様へ戻りましょう。
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堀の先は竹藪2.jpg
お稲荷様へ戻る途中、こんな塚を見つけた。
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はて?この土饅頭は何だろう。
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塚3.jpg
戻って唯一の遺構らしい堀を見下ろす。
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いったん下りて稲荷様へ戻って、
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城山稲荷7振り返る.jpg
一礼してさっきの階段を降りなきゃ還れない。登るより降りる方がアブなそうだ。
下りる1.jpg
これだけです。城山から降りたら、さっき上がってきた狭い参道に近所の人がいて、草刈りなんぞをしていた。
目が合ったので、私は城山稲荷を指した。
「登られたんだ。お疲れさまです」
「お金が出たんですか?」
「そう。たくさん出た。今でもお寺に保管してあります」
「そうですか・・・」
「この辺りは池だったんだよね」
池?
今は湿地帯の面影は無かったが、この後、寺に戻って寺の塀にそった獣道を歩いてみたら、とある民家の庭と敷地内に荒れた池があって、如何にもジメジメした湿地になっていた。湧き水が溜まっているとみた。
砦があった頃は、近くを流れる今井川の水を引き入れて攻め難くしていたのだろう。
下りる2そこに地元の人が.jpg
解説板には「室町時代初期の城であり、南北300m、東西200mの規模があり、現在でもその跡をよく残す」のようにありましたが、
跡はよく残してません!
そんなに巨城なのかという疑問も。古銭がたくさん入ったカメが出土したのでプチ有名な砦跡。。。
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さて昼時だ。
城跡向かいのお蕎麦屋さんはコロナ禍で休業中、他も営ってる店は無さそうだ。
保土ヶ谷駅方面ひとつ先のバス停まで歩いたら。。。
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大丈夫かこの店?
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引越山? [隠れ郷土史]

蔦が無くなったすみれさんでランチした後、県内を3か所ほど廻りました。
ENDは渋川市でしたが、担当者とのアポが夕方4時以降にお出でくださいと。少し時間が空いたのです。
駅前の純喫茶ルナで時間を潰そうかとも思ったのですが、気が変わった。公用圏内から大幅に逸れない程度に寄り道しました。
渋川駅前ロータリーに接して建つホテル、エクセルIN渋川を出て、ランチ、グランド、季節もの他、ラミネートメニューがやたらと多いファミレス、とんでんの角を曲がると、緩やかな直線の坂が伊香保に向かって伸びています。
この通りを市役所通りというのですが、坂が右にカーヴして、九兵衛(とんかつ)、渋川界隈で有名な焼肉、あおぞら本店を過ぎると、右手に蕎麦屋さんを見て平沢川を渡ります。
ケンタッキーフライドチキンが見えたらすぐに左の側道路地に入ったら道路整備工事中で、本線に戻って先へ走り、入沢交差点の先を左折すると、行き違いが困難で狭く細い道に入った。
「せまい道、速度を落として」の看板があったのを覚えている。
旧い家、新しい家々、田畑の合間の掘割道を下っていくとT字路に出て、左にハンドルを切ると、そこに珍しい名前を彫った標柱があった。
砦1標柱1.jpg
引越山の砦跡、とあります。
畑の畝にポツンと立っている。でも解説版はない。
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右手に切り立った10mほとの丘がそれなのだろうか。あの藪じゃぁ登れないな。
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南側に廻ってみて見上げてみる。藪だらけです。
所有者はどういう人なんだろう。麓にあるネギ畑を所有する地元の方だろうか。
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さっき渡った成沢川のせせらぎが聞こえる。家が建ってなければ急峻な崖と斜面になっている筈だ。
何処から見ても草ぼうぼうで、形状や断面がどうなっているのかはわからない。
この時期、そろそろ葉が落ちて形状が見やすくなる季節だが。どんなカタチをしているのか全くわからない。
でもこのクラスで、しかりした標柱が立っているのに少し驚かされた。地元でこういうのがお好きな方が立てなのだろうかね。
さっきくるまで追い抜いたのですが、手押し車に両腕を預けて犬を散歩のお供に連れた婆さんがユッタリヨッタリ歩いてきた。
犬を連れてるというか、犬に連れられてる感があったね。それぐらいゆっくり歩いていた。
目と目が合った。軽く頷いて丘を指して
「この山は?」
「引越っていう山の名前なんだよ」
「どっかから引っ越してきたのかな?」
バカなジョークには笑って答えなかった。滑ったかもしれない。
婆さんと犬はゆっくり去っていく。その後ろ姿を見ていて、なるほど群馬はくるまが運転できないと移動に不便なんだなと思ったよ。
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犬が繋がれた紐で婆さんを巻いています。犬が婆さんを護っているかのように見えた。
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でもユニークな山の名前ですね。引っ越しなら読んで字の如く移転とか転居とか、住変に伴う性質のものですが、引っ越し山ではなく、間の平仮名が無い引越山なのです。
漢字を分解してみましょう。引き越す、引き越える、位が上がる、追い越す、そういう意味もあるらしい。
その先まで歩いて見上げてみる。
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せっかく来たので、なるべく多く撮ったのですが、どれも同じようなヤブの写真ばかりだな。こうして撮っている私の背後にはキレイで真新しい家々があるのです。
引越山砦をサイトを検索すると幾つか上がってきます。幸運にも刈り払われた状態で山に登られた方もいるようです。
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このマイナーな砦、GoogleMAPにも表示されます。MAPにはこの引越山の他にも幾つか砦が表示されるので、この集落を護る為に幾つかの砦、物見が設けられていたらしい。
では本城は何処なのか。それは今いる集落の上手にありました。
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伊香保方面へくるまを走らせます。いつしか森に入り込み、そこは何とか林道と表示されていた。「行き違い注意」「マナーをまもって」そんな看板が幾つもあった。
林道とはいえ、船山温泉の前を通っている作業者だけの道ではなく先には別の家々がありました。れっきとした生活道でもあるようだ。
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行き違いができる場所が限られているようなので、いったん上まで走って、Uターンして停められる箇所に戻ってきたところ。
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徒歩で戻ります。
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すっかり日が西に隠れかかっている。西に山々がある地域の日暮れは早い。急がないと。もっとも急いだところで遺構の満足度はそうないのですが。
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立派な碑が立っていて、渋川城?
2017年に渋川駅に近い辺りにも同名のがあったのを見たぞ。
https://funayama-shika-3.blog.ss-blog.jp/2017-03-26-1

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机上では調査不足ですが、この凹んだ部分が堀切の跡でしょうな。幅は8m、深さは1mほどですが。後世になってから浅間山の噴火等で埋まって浅くなったのでしょう。
今は何も無いが、資材置き場にちょうどいいかもしれないね。
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城6堀4.jpg
碑の裏には解説が彫られていたがよう読めんぞ。
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この地にいたのは入沢氏、地名を姓にしたのか、姓を地名にしたのか。
この辺りの国人衆は箕輪城の長野氏から北方で遠いので、信濃北から街道をやってきた真田氏、すなわち武田氏に付くしか生き残れない筈だ。
武田が滅んだ後、入沢氏がどうなったかがわからない。
城8碑4.jpg
ここが本城で、さっきの引越山は街道を監視する物見だったんだな。
では城郭鳥観図の第一人者、余湖氏のサイトから転載します。氏のサイトには入沢城となっていた。この辺りの集落の名前です。(出典元を掲載すれば転載OKなのです。)
鳥観図2.jpg
鳥観図1.jpg
ジャン妻に写真を見せたんですよ。ユニークなネーミングだろって。
(-”-;)
眉間に立皺が刻まれている。眦が吊り上がっていた。
「まさか革靴でこの藪を登ったんじゃないでしょうねぇ」
「登ってないし登れないよっ」
あの犬と散歩してたお婆ちゃん、元気で長生きして欲しいものだ。
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宿入り前散策記 [隠れ郷土史]

檜原の郷1.jpg
檜原の郷2五輪塔1.jpg
檜原の郷3五輪塔2.jpg
穴澤一族の郷にやってきました。
「好きだねこの場所」
「こないだも一族の末裔さんからコメントいただいたよ」
「へぇ」
特になにするでもないです。五輪塔の前に立つだけ。「会いに来たよ」って。
檜原の郷4五輪塔3.jpg

檜原湖1.jpg
檜原湖2.jpg
檜原湖3.jpg
裏磐梯、桧原湖畔、ワカサギ釣りで有名です。
会津北の関守、穴澤一族が暮らした村は湖底に沈んでいます。やや渇水してたので、木の切り蕪がそこらに散見される。
檜原湖4水が少ない1.jpg
檜原湖5水が少ない2.jpg
檜原湖6水が少ない3.jpg
檜原湖7水が少ない4.jpg
静かな湖畔ですが時折バイクの音が鳴り響いていた。人は戻ってきてるようで、資料館を兼ねた会津山塩ラーメンは外にも行列ができてました。
檜原の郷6資料館と山塩ラーメン屋.jpg
途中の道はまだまだ細い箇所もありますが、来る度に拡張され整備が進んでいるようです。
檜原湖8.jpg
檜原湖9.jpg
気温がぐっと下がって、これから降雪、湖は氷結、白銀の世界になるでしょう。
「また見に来るからよ」
そう呟いて里を後にしました。
檜原の郷5五輪塔4.jpg

解説板1.jpg
裏磐梯から下りて蕎麦宿までの午後の時間潰しです。目指すものは磐越西線で喜多方方面へ二つめの駅、笈川駅の先、121号線から西に逸れて日橋川に面した辺りにあった。
「あれだ」
「・・・」
「あったあった」
「何もないじゃない?」
路肩にくるまを停めた。ジャン妻は無反応である。何も遺構が無くてもこういう解説板があるだけで☆ひとつ上がるものなのだよ。
「ひとりで行ってらっしゃい」
「来ないのか」
「どうぞ」
下りないのである。解説版を見ようともしなかった。
まずは解説版を見ようか。浜崎城址案内図があって、本文は、
解説版2.jpg
解説版3.jpg
本城趾は、中世から近世にかけて会津盆地のほぼ中央を通る米沢街道の要衝、浜崎集落の北東に在って、北を日橋川が西流し「北方(きたかた)」と称した会津北部を押さえる位置を占める重要拠点であった。

(喜多方は北方だったんですね。)

「会津古塁記」によると「別名藤森城と称し、浜崎主馬、至徳年間(1384年~1386年)築く」とあるが築城年代は詳でない。

(浜崎主馬なんて知らないよ。)

古文書(真壁文書)によれば、観応3年、1352年正月から三浦若狭守(葦名直盛か)は真壁政幹の代官、薄景教らを率いて、河沼郡の合川、浜崎城、蜷河庄政所館(会津坂下町)等を攻めていることが「真壁文書」にある。
この文書にでてくるのは浜崎城の歴史上の初見である。これは浜崎城がそれ以前に築城されていることを物語るものである。
下って、宝徳3年(1451年)及び亨徳2年(1453年)葦名氏の内紛による二度にわたる浜崎城をめぐる合戦があり、浜崎城は落城し、浜崎靭負政頼や松本右馬允通輔の一党は滅亡した。

(知らない名前ばかりである。でも詳しい解説だ。)

浜崎城は慶長の初めごろ(1600年)までは日橋川と大塩川の二大河川が合流する岬の微高地地域(元塩川町古町地内)にあった。
天正18年豊臣秀吉は、小田原の北條氏を攻め滅ぼし、同年8月に「奥州仕置」を終えて、会津を蒲生氏郷に与えた。氏郷は翌19年家臣の知行割を行い、重臣らを領内各所に配置した。塩川の浜崎城へは蒲生喜内頼郷(横山喜内)をいれたが、この浜崎城は南と北を二つの河川に挟まれた地域で、再々水災に遭い悩まされていた。

慶長6年(1601年)10月蒲生秀行の代には、家臣の蒲生主計介郷貞を塩川の浜崎城に入れたが、主計介は水災を怖れて日橋川南岸の浜崎の地に城域を移し新に築城した。これが現存の浜崎城址である。元和元年(1615年)一国一城の制度になった時、この浜崎城址は廃城すべきであったが、蒲生氏は「茶屋」と名づけ、暫しの年月そのまま残しておいた。

(城館を茶屋として残したのですか。よくそれで通ったなぁ。)

城址の規模は「浜崎城跡発掘調査記録」によると、本丸東西90mに幅約10mの濠をめぐらし、二の丸はその西北に並んでいたことがわかる。現存の城趾は本丸の西と南、東北の一部に土塁が残り、東と西に濠跡が湿地となり、南は水田になっている。中央を国道121号線が南北に通り、本丸を東西に分断している。
二の丸は西北に続いていたが現在は畑になっている。二の丸のほぼ真ん中をJR磐越西線が走り、土塁と濠は共に破壊されて、その跡をとどめていない。
本城址は昭和56年3月27日湯川村史跡に指定された。
湯川村教育委員会

随分と細かくて詳しいけどローカルな説明ですね。
喜内頼郷(横山喜内)とは、葵三代で竜雷太さんが演じたあの人か。
この人か.jpg
これは戻ってからの机上調べ。説明によると最初は2つの川が合流するの位置にあったと。
でも現在の合流地点と、古町とはやや東西に離れています。塩川町古町は橋を渡ってすぐ向こう側のようです。
それで、水害に悩まされたからこっち側に渡ってきたってことか。
現在の日橋川は護岸工事がなされています。日橋川の源流は猪苗代湖で、猪苗代湖と会津盆地は高低差が300mもあるんですよ。急流と落差を利用した水力発電所が6つも設けられて稼動しています。
他、平野部に来るまでに無数の調節施設がある筈だから、そういう施設が無かった往時は相当な水量や勢いがあったと推察されます。
浜崎城MAP2.jpg
道に沿って真っすぐ歩きだしたら、敷地の広い民家の向こうに土盛りが見えた。犬が気持ちよさそうにベターッと寝ていた。中に入るわけにいかないな。
民家の敷地の向こうに1.jpg
民家の敷地の向こうに2.jpg

その先、駐車場側から見えた土塁がこれ。草ぼーぼーです。
民家の敷地先に1.jpg
民家の敷地先に2.jpg
民家の敷地先に3.jpg
何だつまんないと思うなかれ。さっきの見取り図によると方形の平城なので、こういうのは繋がってなくても各所にポツンポツンと点在しているものなのだよ。
道路向こう側に渡った。
日橋川の右手に1.jpg
ホラ、あるじゃん。
日橋川の右手に2.jpg
何か倒れているぞ。
日橋川の右手に3.jpg
あ、標柱だ。こういうのはちゃんと立て直して欲しいものだね。
日橋川の右手に4標柱が倒れている.jpg
その先、土塁が続いています。左には日橋川、右手は民家です。民家の敷地の一辺を廻っているのです。
日橋川の右手に5川に沿って土塁が.jpg
日橋川の右手に7.jpg
日橋川の右手に8.jpg
日橋川の右手に9堀1.jpg
日橋川の右手に10堀2.jpg
堀が見えてきたぞ。
日橋川の右手に6日橋川.jpg
堀と河を比べてみる。アタリマエだが日橋川の方が低いし広いです。それに面して堀を掘削する必要があったのかな。日橋川を前にしてそのまま天然の堀にするってことはしなかったのかな。
後世の壊変で護岸整備された現在の1級河川と、現在の遺構である堀の浅さ、この辺りのバランスが悪いともいえる。日橋側の水を引き入れたのかもしれないが。
振り返ると日橋川にそって堀があるのか.jpg
堀の角っこ1.jpg
堀の角っこ2.jpg
堀の角っこ3.jpg
角っこまできました。これだけでもよく残存しています。堀底にある草の山は草刈りをして積み上げたのでしょう。草刈りご苦労様です。ついでながらさっき引っこ抜かれて寝ていた標柱も立て直しといてくださいね。
あ、そうか、草刈する為に標柱を引っこ抜いたのかもしれない。草刈りが終わったら私みたいに腰を痛めて標柱まで気が廻らなかったのかも。
堀の角っこ4.jpg
堀の角っこ5.jpg
新興住宅地が建ち並ぶこの辺りで終わりです。
堀の遺構はここまで1.jpg
堀の遺構はここまで2.jpg
竹藪の向こうには民家があります。そのお家は後世の今になっても土塁と堀に護られているわけか?
竹藪に遮られてるのでそこから奥は見えませんが、そこにお住まいの方は「自分は城に住んでるんだぁ」のような悦に浸ってるのかな。
いいなぁ。(何処が?)
くるまに戻るとこ.jpg
くるまに戻るところ。ジャン妻は何かを検索していた。
「済んだの?」
「なかなかいいものがあった」
そして私が歩んだ道をくるまでゆっくり走ったんですよ。「こんな細い道、大丈夫なの?」と心配しとったが、車窓から「フムフム」と無理解者也に見ておった。
「家が塁と堀に囲まれてるんだぜ」
「でもそれってタイヘンじゃない?何もいじりようがないしできないでしょ」
そうなのです。村指定とはいえ史跡なので、うっかり掘って何か遺物が出土したらタイヘンで面倒だというのである。さすがはもと不動産女史だけのことある。下手に建て替えも壊変もできないでしょうな。
山城と違って楽チンな訪城でした。時刻は2時半になった。湯野上の蕎麦宿入りまでちょうどいい時間である。
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平将門に破壊され。。。 [隠れ郷土史]

散策コース.jpg
常陸国府跡1(国衙).jpg
茨城県廻りは水戸城も土浦城もスルーして、私はあまり遺構の無い何かの跡地にいます。
石岡市内にある常陸国府跡(国衙跡)です。平安時代に常陸国の中央政庁だったところです。
(国衙とは国府内で地方政庁を司った一画を言う。)
常陸国府跡2(国衙).jpg
石岡小学校が目印、その地一帯がその跡なのですが、グランド正門からズカズカ踏み込むのも憚られるな。
でも跡地は資料館を示す矢印があるので、それに沿って遠慮なく入って行くと、
常陸国府跡3.jpg
常陸国府跡6.jpg
常陸国府跡5.jpg
常陸国府跡8資料館.jpg
府中城土塁1.jpg
解説板には府中城とある。
木々の枝、葉っぱの影で本文が所々隠れて読み難いが。
府中城土塁2解説板1.jpg
大きい塁があるぞ。
府中城土塁3.jpg
府中城土塁5.jpg
府中城土塁6.jpg
府中城土塁8.jpg
府中城土塁9.jpg
この時期だと草ぼうぼうで踏み込み難い季節ですが、それ也に草刈りがされているので塁上に登ってみた。
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塁の先まで来た。そこは小学校の正門で分断されていて、向こう側の残類にも解説板がありそうだ。後で行ってみよう。
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切株や根っこにつま先をとられてつんのめったりする。革靴を傷つけたらジャン妻に後で何を言われることやら。
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府中城土塁15.jpg
塁の上をいち往復歩いてきました。これぐらいの散策ならいいだろ。
まさかこの太い塁が、平安時代の土木工事の遺物のわけがない。後世のものです。
常陸国府が衰退した後、この辺り一帯はは大掾氏の本拠地になり、大掾氏が佐竹氏に攻められて没落すると佐竹義尚という人が入った。
関ヶ原線後に佐竹氏が秋田に転封されると六郷政乗という人が1万石で入り、元和9年(1623年)皆川氏が1万石で入り、元禄13(1700年)松平頼隆が2万石として封ぜられ、明治維新まで続いた。知らない人ばかりです。
小学校入り口脇にある塁跡です。
府中城土塁16.jpg
府中城土塁17.jpg
府中城土塁18.jpg
府中城土塁19.jpg
府中城土塁22.jpg
後世の陣屋門です。
陣屋門1.jpg
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陣屋門3.jpg
陣屋門4.jpg
平安時代の常陸国府時代から中世の争乱期を経て、明治維新までこの地は地方政治の中枢だったのですが。
今回は平安時代の常陸国府として見に来ています。それは子供の頃のTVドラマにこの国府が登場し、強く印象づけられたからですよ。
それは地方武士が台頭する前の話で、朝廷が地方を支配していた時代です。都(ミヤコ)から国司に任命されて地方に下向した者がいて、そのまま土着することでその地の守に任じられて支配することになる。
あるいは先に任命されて嫌々地方に赴任するが、行ってみたらやり様によってはそれ也の実入りがあるので、旨味を得てその地に留まるとかです。それら役人の旨味は民衆に担わされるのですがね。
地方行政の長は守(かみ)といって、例えば伊豆守、相模守、安房守といったあれですよ。受領名という。
これらは後年になると、地方大名が献金と引き換えに直接朝廷と交渉して官位を得る直奏(ジキソウ)が増加することになる。その国にいないのに守を名乗ったのは、献金の見返りとして官位を発給するのである。金で買うといっていい。
そういう適当に与えられた官位は権威づけだけではなく、領国支配の正当性や戦の大義名分としても利用されるようになる。朝廷や幕府の権威が衰退しても、地方では施政や軍事行動に有利な場合があるのである。
武田晴信の家臣で板垣信方が駿河守で甘利虎泰が備前守、長尾景虎の家臣で柿崎景家が和泉守ったって、彼らがその国にいるわけじゃないですからね。
朝廷から任命を受けてないのに、自称、私称するケースも増える。これを僭称という。尾張発祥の織田信長が何故か千葉県一帯である上総介を名乗っているのもそうだし、秀吉の筑前守、光秀の日向守もそうではないのかな。

でも平安時代は現地の税を徴収したので、その国の守だったらしいが、でも関東の場合、後年になっても上野国、上総国、常陸国には守はいないのだ。
何故だろう?
それには理由があって。桓武天皇の頃から代々の天皇が多くの皇子が生まれ、皇子に与える官職、官位が足りなくなった時代があったそうです。
今考えると馬鹿馬鹿しいのだが、たくさん生まれた皇子たちに官位を与える為に、皇子を現地に下向させないけれども国の守に任ずる制度を誰かが奏上したらしんだな。皇子=親王なのですが、下向しないのに任じられた国の官位を与えるとなると、その国に在任しない国司がいることになります。
でも誰かが現地で行政官を司らなくてはならない。それは別途派遣されるが守にはなれない。中央に皇子=親王=その国の守がいるからですよ。
その親王任国が関東の3か国、上野国、上総国、常陸国だったのです。中央に守がいるから現地には守がいない。関東3か国は親王任国なので、現地での実務上の最高位は守の次、次官の介(スケ)だったらしい。
だから上野介、上総介、常陸介になるわけですが、遥か後年、有名な上野介である本多正純、吉良義央、小栗忠順はともかく、江戸時代に上総介、常陸介といった官位を持つ大名ってあまり聞かないですね。
で、この人、平安時代の常陸介のひとりです。
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天慶年間の介、藤原維幾、為憲(タメノリ)父子です。若い方が為憲で、演じたのは中島久之さん。
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この2人は私が今いる石岡小学校が建っている常陸国府にいたのです。その頃は私が登っている塁壁はなく土塀だったと思います。
子供の頃に見たドラマで描かれた常陸国府がこれ。
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その常陸国府に、平将門(演:加藤剛さん、故人)の使者がやってくる場面です。近藤洋介さん演じる三宅清忠、将門の幕僚というか客分のような扱いだった。
これを観たのは中学1年生の時でしたね。多感な少年の時期に見たのですが、よくも悪くも影響を受けたよ。
「先に民衆がそこにいて、公の支配者は後から来た」のように描かれていた。
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草刈正雄さんを始めて知ったのもこれだった。
「公のやっていることが賊ならば、自分たちのしたことは賊ではない」
では若かりし草刈正雄さんは何をやらかしたのか。鹿島玄明(演:草刈正雄さん)と、兄の玄道(演:宍戸錠さん、故人)その一党が常陸国行方郡(ナメカタグン)と河内郡にあった不動倉を襲撃、中に仕舞われてた穀物を奪ったのです。民衆から見たら「自分たちの作物を奪ったからそれを取り返した」
「お上が自分たちの作物を奪ったからそれを取り返した」のだが、国府や官から見たら「奪ってはいけないものを奪った」という定義になる。
不動倉とは稲や穀物を収納した倉庫ですが、国衙内や正倉に格納されているものとは別に格納する非常用の倉庫らしい。だが民衆のものではなく役人のもの、国のものであり、都のものなのです。いったんそこに格納してしまうと、国司や郡司でも中央太政官の認可を得なければ開封できない倉庫だという。
鹿島兄弟はそこを襲って穀物を奪い貧しい民衆に配ったのだが、河内郡で手強い抵抗に遭い、鹿島玄道は負傷して将門の館に逃げて匿われる。国府から見たら将門は大罪人を匿ったという構図になってしまった。
浮動倉襲撃1.jpg
浮動倉襲撃2.jpg
将門の幕僚三宅清忠はそれについて国府に申し開きをしに来たのだが、
「藤原玄道のご宥免を願い出たが音沙汰無く、将門自ら歎願に出向き奉る、その際多少の兵を連れて参るが・・・」
清忠は将門の申し分を衛兵に言い渡して去っていったが。最後の方が恫喝さながらである。
清忠国府に乗り込む.jpg

将門と幕僚たち.jpg
常陸国府へ乗り込む一千の将門軍。
将門軍2.jpg
迎え撃つ三千の国府軍は将門軍にあっさり蹴散らされる。藤原為憲は貴公子で実戦の経験が無く、目前で展開される修羅の様に腰を抜かしてしまい、将門に捕らえられる。
常陸国府軍敗走.jpg
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勢い余って将門勢は常陸国府に雪崩こんだ。
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国府占拠3.jpg
藤原惟幾驚愕2.jpg
弟の三郎将頼、伊和員経、三宅清忠、多治経明、文屋好達以下、兵たちは嘲笑うが、将門はこう制します。
「守の殿に非礼はならん」
守ではなく介だと思いますが、まぁいいか。
藤原維幾は田舎武者は与しやすしと見たか、虚勢を張って言うには、
「将門とやら、悪戯に兵を起こし、他国に乱入し」
「お待ちください」
これまでの歎願の書状、使いをよこしたのに反応が無かったので自ら出向いたと。そこで止む無く合戦になった次第と言ってたんじゃなかったかな。
藤原維幾は尚も虚勢を張って、
「前非を悔い、兵を退くならば」
ここでブチッと来た。
「前非を悔いよと?」
メラメラメラ、温厚な加藤さんが怒った。将門の癇癪玉が炸裂、
「自分には悔いるべき何事もないっ!」
憤怒の形相になった。
「国々の事情に疎い都暮らしの公人が、訳もなく乱発する令にのみ従い、ただでさえ天候不順による不作に苦しむ民人を、あなたは随分と苦しめてきたようだな」
「今、私に後悔があるとすれば、何故もっと早くここへ来なかったかということだ!もっと早くっ!」
そこで一呼吸おいて、
「そして、あなた方のような冷酷な司人を放逐し、常陸の民人を救うべきだったのだ!」
ひれ伏す藤原から将門は国の印鑑や鍵を奪ってしまう。
これと同じ所業を坂東八か国、他の国でもやらかしたから朝廷は反逆者の烙印を押して、追討軍を編成することになる。都から軍を送ったのではなく、同じ坂東の豪族である藤原秀郷が立ち上がる。
国府占拠5.jpg
将門に破壊されの説明1.jpg
その場面だけ見たら将門は民衆側の英雄のようだが、実際はそうでもないらしい。現地の解説板を見ると、
「この繁栄を極めた古代都市は、10世紀半ばに起った平将門の乱によって破壊され・・・」
それだけしか記述が無いのである。
将門に破壊されの説明2.jpg
将門に破壊されの説明3.jpg
将門に破壊されの説明4.jpg
別サイトにも「古くは天慶2年(939年)に平将門が300戸を焼き払ったという記述が『将門記』にあり・・・」、
どうも民衆の味方だけとも言えないようである。将門も常陸国の住民だが、ここ中央の国府に攻め込んで相当やらかしたのだろうか。
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将門軍との戦争に敗れた藤原為憲は天慶3年(940年)2月、新皇を僭称した将門の追討軍に将として参戦、平貞盛、藤原秀郷と組んで討伐に成功します。
将門追討の恩賞は叙爵と幾つかの国の権守を歴任された。後世に幾つかの東国武士団の祖となるのです。
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私が中学1年時代にハマった古代の英雄だが、こうして大人になって見ると結局は反乱軍の首魁であり、常陸国他坂東8か国の破壊者だったのがわかった。
近年になって「NHK大河が嘘だらけ」と誹られる理由のひとつでもある。坂本龍馬や西郷隆盛の正体は云々というあれですよ。子供の頃に見て楽しませてくれたからドラマ自体を悪く言うつもりはないが、事実はTVドラマとはかけ離れているのだろうね。この常陸国府は47話の前半でも紹介されていた。現地にあるものはその頃とそう変わってない。でも隠された真実は現地に来ないとわからないものですな。
全話の映像がDVDで出ています。「風林火山」「獅子の時代」と並んで好きなので「買っていいか?」とジャン妻に言ったら「吉永小百合さんがああいう役なのはちょっと」と難色を示された。なので未購入のままです。
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オクタゴン [隠れ郷土史]

関越自動車を快走、
スマートICで下りる、
突き当りを左折、
関越自動車道をアンダークロス、
駒寄スマートIC南を真っすぐ、
大松交差点を左折、
吉岡バイパスを北上、
2つめの信号交差点が見えたら速度を落として右折レーンへ、
右折すると最初の案内表示が、
そのまましばらく走っていると、2度目の案内表示があって左折、
次の写真が3度目の案内表示、以上の案内でたどり着けるでしょうか。
古墳に誘う道1.jpg
この写真はこの先にある八角形の建造物脇に小さいながらも駐車場があるので、そこに一旦停めて徒歩で戻ったのものです。
古墳に誘う道2.jpg
この先です。住宅地の中にあるのだ。
古墳に誘う道3.jpg
折れたクランクを歩いていて、ママさんお子さん2人とすれ違った。
「こんにちはぁ」
こちらも挨拶を返したけど私はマスクしています。向こうはマスクしとらんかったな。まぁこの辺りなら密になることもなかろうて。
曲がると柵が見えます。
何か見えるぞ1.jpg
その柵の向こうには、
何か見えるぞ2.jpg
解説板1.jpg
砲台、トーチカのような八角形の立体が鎮座していた。八角墳といいます。
解説板2.jpg
駐車場にある解説板、読んでもちっともわからない。古代史の世界の専門用語は知ってないとわからない。
グンマはやたらと古墳がある。調査、発掘、復元、公園化された大型のもの、民家の敷地内、神社の境内、農地の中にポツンとあったり、くるまで走っていると遠目に見て「あれも多分そうだろ」近寄ってみたらホントにそうだったりしてまずハズレないです。そういうのがポツポツと点在しています。
この八角形はそれらの中でも有名な方です。
八角形1.jpg
私は古代史には疎いので、詳細はその方面の各サイトに譲りたいです。古墳時代の週末期のものらしい。
解説板にはこうあります。
群馬県指定史跡 三津屋古墳
場所:群馬県北群馬郡吉岡町大久保字三津屋2037-1番地他
指定年月日:平成7年3月24日 追加指定:平成13年3月23日
本古墳は、全国でも極めて数の少ない(正)八角形墳である。
墳丘は二段築盛で周堀を持ち、その規模は墳丘対角間で約23.8m、残存高約4.5mである。八角形の一辺の大きさは下段で約9m、上段で約6mを有する。墳丘の企画設計にあたっては唐尺(一尺≒30cm)が使用されたことが推測される。墳丘下段の縁辺部には列石が配され、上段は扁平な川原石で丹念に葺かれている。
石室は破壊されていたが、奥壁石や側壁根石の抜き取り跡から、一部切石を用いた自然石乱石積の横穴式石室であったと思われる。副葬品は盗掘により発見できなかった。
八角形の企画は、玄室奥壁を中心として石室主軸をほぼ真北に向け八等分している。
古墳の年代は、八角形の墳丘構造、石室の特徴から7世紀後半と考えられる。
八角形墳の存在は7世紀中頃から8世紀初頭にかけての畿内地方の天皇陵古墳、あるいはそれに準ずる古墳に代表される。これらの多くは発掘調査により本来の姿が確認されたわけではない。その意味でも八角形の墳丘形態が確認できた三津屋古墳の資料的価値は高い。
本古墳は、調査時の葺石・列石・盛土を一部修復し、欠失部分は調査結果から復元した。また、古墳内部見学施設は、石室内部見学施設は、石室根石状況ならびに土層断面を発掘調査時のまま展示した。
平成21年12月 群馬県教育委員会 吉岡町教育委員会
解説板3.jpg
この手の解説は難しいな。盗掘のせいで古墳内から埋蔵品が全く出なかったらしいので、外見や内部構造といった形状しか説明できなかったきらいはある。(ケチをつけてるんじゃないよ。)どのクラスの人が葬られていたのかもわからない。
八角形2.jpg
平成5年(1993年)この辺り一帯の宅地開発が行われた。なるほど隣接して建っている住宅は新しい。造成前の調査段階で発見され、それまでは緩やかな傾斜の斜面上にそこだけ瘤のような地形になっていたそうです。
珍しい形状だったのでここだけ造成できなかったのだろう。
八角形の1辺と次の1辺の角度を計算してみましょう。360度/8角=45度、180度-45度=135度です。
八角形4見学路入口1.jpg
八角形5.jpg
八角形7.jpg
敷地内に下りてみましょう。
ホントに八角形なのかな。まず第1面です。
八角形8~1面.jpg
時計と反対に回ります。第2面、
八角形9~2面.jpg
第3面、どれも同じに見えるって?
八角形10~3面.jpg
振り返ってみます。基礎部分に石垣、石積みが現れてるのが見えます。
八角形30戻る.jpg
この写真の左手上に住宅があって駐車場にも接しているのですが、部屋の窓から見下ろせる筈です。家人の方は毎朝毎日この八角形を部屋から見てる訳ですな。
余計なお世話、詮索ですが、何を思って家を購入されたんでしょうね。古墳が見えるから?八角形が見えるから?
そのうち見慣れて飽きて今は何とも思ってないかもしれない。
第4面、この辺りから基礎部分が石積みになっていた。緩い傾斜面にあるので二段構造の墳丘になっているようだ。
八角形11~4面.jpg
八角形13曲がり角.jpg
第5面です。扉があります。イージス艦の入口か。中に指令室でもあるかのようだ。
八角形14~5面1入口がある.jpg+
入る前に第+6面、この先は入れない。土地所有者と敷地の境界のせいかもしれない。猪首を伸ばして7面8面あるのを確認しました。
八角形15~6面.jpg
八角形16入口扉.jpg
第5面に戻って石室ドアへ。ドアノブには8時から17時まで開錠、見学可で、吉岡町教育委員会の誰かが朝夕開錠施錠しに来ているのでしょう。鍵の管理も含めて公務員の仕事か。
八角形17ドアノブ.jpg
では入ってみます。こんな感じです。
八角形18中はこんな感じ.jpg
洞窟をモチーフしたBARかと思ったりする。
八角形19石室解説1.jpg
中に掲示してある説明パネル。
八角形20土層について.jpg
八角形22石室解説2.jpg
八角形23解説1.jpg
八角形24解説2.jpg
八角形25解説3.jpg
横穴式室というらしい。旧い時代に盗掘され石材も持ち出され、内部は荒らされて崩壊していたそうです。出土遺物は残っていなかったとか。でも八角形という珍しい形なのでそこだけでも価値があるのか、石室を除いて外観形状等が復元されているわけですよ。
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冒険もので、入っちゃいけないところに入り込んで、しばらくしたら突然ドアがバタンと閉まって中から出られなくなる、そんなシチュエーションを想像したら背筋が寒くなったよ。
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八角形29石垣向こうには入れない.jpg
無事に出てきました。やれやれ。
私は学術的な詳細より、こういう人工物で自然や地形と一体化しているものの形状や外見に惹かれるだけで、城郭なんかの「土で構成されたもの」に通じると思って眺めているだけなのだ。
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函館の五稜郭のように大規模な建造物になると、ドローンでも飛ばして天空から全体を見て撮影しないと本当の形状はわからないが、このクラスは何とかわかります。
柵にはよじ登らない方がよろしい。丸太ですが純粋な木ではありません。
なるべく高く、天に手を伸ばして撮ってみたが、これが限界だった。
復元されたオクタゴンです。
八角形32なるべく上から2.jpg
社宅は高崎市内にしろと言ったのに、吉岡町を選んだ社員がいて、
「あの辺りは何もないぞ」
何もないなんてことはないのですが。吉岡や榛東は人口増えてますからね。
「何があるんですか?」
「古墳がたくさんある」
絶句してました。そんな長閑なところなのかと。知らない土地へ赴く不安さが出ていた。
そしたら傍らにいた後輩が、
「昔の人たちが護ってくれますよ」
「・・・」
その子はまだ吉岡町内にいます。来春には交代、引き上げる予定らしい。
では最後に現地にあったパンフを掲載しますね。
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そして公園になった [隠れ郷土史]

竹が榛名山から吹き付ける強風で揺られている。
竹と竹がぶつかってカチャカチャと鳴っている。
鎧の直垂が太刀とぶつかり合う音のようだ。
竹矢来の音カチャカチャ.jpg
上州は何処もそうですがこの辺り一帯も風が強い。
渋川市内から旧三国街道をレンタカーで走ってたら、走行する前方左に生えていた竹が強風に吹き倒されて道路に倒れてきたことがある。
竹は根は浅いのです。私は倒れた竹の上をバキバキ踏み潰しながら走り去った。倒れてきた竹の幹や枝葉でレンタカーのボディを傷つけまいとヒヤヒヤしたものです。後ろのくるまも急ブレーキ踏んでましたね。
この竹林は吉岡町にある(あった?)桃井城、現在は城山公園に壊変され避難場所を併せた公園になっている。
2017年3月に初訪した際は重機が稼働して、上州の風に土塊や砂塵が舞い上がっていたが、現在はすっかりキレイになった。パーキングやWCも完備されている。
https://funayama-shika-3.blog.ss-blog.jp/2019-04-12
https://funayama-shika-3.blog.ss-blog.jp/2018-09-13
https://funayama-shika-3.blog.ss-blog.jp/2017-03-16
壊変されたな1.jpg
くるまを停めて、城山へ上がっていく。
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公園敷地内に女子高生が20人以上いた。誰もマスクなんかしていない。仲のいいグループ同士で走ったり、階段を駆け上がったり、芝生の上に座って景色を眺めている。
健康的な若さに溢れている!
休校が続いて若いエネルギーを発散させたくてしょうがないのだろう。
私なんぞは階段を一歩一歩、ゆっくりゆっくりと踏みしめるように上っているのに。
女子高生たちは上下スーツでひとり歩く私とすれ違っても知らん顔、不動産業者とでも思っているのだろうか。目を合わせないし訝しむでもない。私は限られた時間内で確認したいことがあるので、目標地点である最高地を目指している。
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階段を上がって主郭へ。
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ああ、やはりね。公園化される前に無造作に立っていた解説板が戻されていたのです。
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頼り無げに立っているこの解説板は造成工事中は外されていた。榛名山から吹きすさぶ強風にバタバタ煽られて、今にも倒れるか吹き飛ばされそうだったのを覚えている。
これは初めて来た3年前、造成工事中の主郭、解説板です。
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2年前の夏に草ぼうぼうだった主郭、解説板はどっかへいっちゃってた。腰の高さまで草が伸びてましたからね。
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一帯はキレイに均されて解説板も戻ってきた。こういうのがあるのと無いのとでは満足度が違ってくるのですよ。
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高所から赤城山方面を見ます。城山の岡は榛名山の東斜面の扇状地にあって、私が立っている最高所は247m、麓の駐車場からは比高差は40mもないです。
だがここから榛名山麓までは高地が無いので、兵が駐屯できる塞を構えるとしたらここしかないように思えます。
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主郭から第2郭を見ます。三ケ月形の塁線の起伏が見えます。
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こうなる前は地権者の耕地、畑地になっていた。起伏部分は平らに均され、塁も削られていたが、公園になる3年前の2郭はグルット三日月形をした土塁が自然に残っていた。
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2年前、草ぼうぼうの頃、
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土塁?2.jpg
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ガサガサに荒かった土塁は公園化に伴い嵩上げされたか。丸味を帯びて前より膨れ上がった感がある。
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土塁上に上がってみる。
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塁線上を歩いてみる。大蛇の背を歩いているようだ。
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これが夏場になるとまた草ぼうぼうになるだろうな。
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この塁線上にキレイな塀や白壁が建ち並んでいたとは考えにくい。おそらく先の尖った丸木、柵を立ち並べた程度でしょう。
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土塁の先に男性が歩いている。おそらく私と同じ嗜好をお持ちなのでしょうか。
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男性はこっちを振りむいてニコッと笑った。私はマスクしてるので軽く一礼だけした。相手の目はこう言っているように見えた。
「アナタも私と同じ趣味をお持ちなんですね?」
「お閑なんですね」
「この地に誰がいたかご存じですか?」
知ってますよ何となく。
土塁の先まで来た。男性は土塁先端から降りたところです。
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振り返ったところ。やはり大蛇の背みたいだ。
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私も下りた。勢い付いて駆け下りた。
こんなことして歩いているダークスーツのオジさんは女子高生からどう見えるのだろうかね。
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もとは畑地だったそうです。地権者が固定資産税に耐えかねて売り払ったか寄付したか。このように公園化されましたが、主郭の南東に浄水場があって、その南にはまだ自然のままの郭があるのです。そこには裏寂れた社がある。そこも城域の筈だ。まだ自然のままの形状が残存しているかも知れない。
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この城にいた人です。桃井直常といって太平記に端役で出てきます。確か脚本は今年の麒麟がくる(こないんじゃないかな)の池端俊策さん、
演じたのは高橋悦史さん(故人)鬼平犯科帳の筆頭与力、佐嶋忠介役でご存じの方いるでしょう。
直常は大きく成功したとも言い難い人ですが、3か国ほど守護になっています。足利兄弟(尊氏、直義)の兄弟喧嘩で弟、直義側に付いたので最後は没落、この地に戻って隠棲したと。
麓にお墓、供養塔があります。
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右に供養塔があって、この視線の先に城丘があります。
かつての城の主(アルジ)は泉下から壊変された城をどう見ているのだろうか。
中世の国人衆の城域は戦火に見舞われた農民たちの避難場所でもあった。世紀を隔てて今は、地域住民たちの災害時避難所を兼ねた公園になっているのです。
2017年春頃、私の公用に渋川方面が加わった過程で「あの丘はもしかしてそういう類じゃないか?」と気になり、検索したらホントにそうだった。自然の丘に重機が稼働し、一時は草ぼうぼう、形状壊変に「何だこれは?」と呆れたりもしたが、4年の歳月を経て完結しました。
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あの寺が噂の現場に・・・ [隠れ郷土史]

ウチは日曜13時~放映されるTBS噂の東京マガジンを録画して観ています。この番組もコロナのせいでロケ自粛、当面は再放送になるらしいが、そうなる前の2020年3月22日に放映された「噂の現場」は「天災?人災?誰の責任か?墓地が壊滅状態」というもので、噂の現場は何と高崎市郊外の寺だった。
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東京マガジンなのに北関東の高崎ネタか。ネタが少なくなったのかな。
過去にも高崎達磨市の分裂開催問題が取り上げられている。群馬県達磨製造協同組合がこれまで開催場所だった少林山達磨寺からの経費負担要求に反発して、高崎駅西口で組合に市が協力して開催され、少林山に出店したのはごく僅かだったというもの。今年はどうだったのか。
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今回は高崎市郊外の吉井町、吉井ICのすぐ南にある多胡という地域にある慈雲山龍源寺。昨年の台風19号で寺の裏斜面が崩れ、土砂が寺の裏手にある墓地に流れ込み、墓石がなぎ倒されて壊滅状態になった。
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だが土砂の中には造園業者が切った木や根が混じっていたのである。
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造園業者は災害直後に一旦は非を認めたが「木屑の撤去はするが、墓の現状回復はしない」と通告してきた。後で弁護士と相談して翻したのだろう。
裏山に廃棄されていた木屑は、被害者側が言うには「造園業者が作業して出したゴミだから産業廃棄物」で、造園業者側が言うには「管理していた一般廃棄物」見解が分かれた。高崎市によれば、建設業は産業廃棄物、造園業は般廃棄物だという。被害者側であるお寺と檀家が困ってしまってます。
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ジャン妻と録画した噂の現場を見ていた。住職は北鎌倉の「こころや」主人に似てたな。私は観てて何処かで見た寺、ご住職だな?と思ったのだ。多胡の辺りは向こう(高崎)に転勤してた頃に何回か行ってます。
画面に映る風景、住職のお顔、声音でピーンときた。思い出した。
「あ、この住職知ってる!」
「???」(ジャン妻)
「向こう(高崎)にいた頃、この寺に行って会ったことがある。お話を伺ったの」
ジャン妻はイヤ~なカオ、怪訝そうなカオをした。そのカオはまたスーツに革靴でヘンな場所に踏み込んだんじゃないでしょうねぇと言っている。
あの頃は公用の傍ら、くるまでいろいろ見て回って現地ネタを収集したものです。この寺のネタは何かというと、
「この辺り一帯の領主の年貢の取り立てが厳しくて、強訴した農民が斬られた場所なんだよ」
ジャン妻は怪訝そうに聞いていたが、このネタは過去Blog、呟きⅠで取り上げています。Ⅰは写真が小さいので改めて取り上げてみます。本文はほぼ当時のままです。
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曹洞宗の寺です。慈雲山龍源寺。
この寺の参道に昭和63年建立の顕彰碑があって、ある農民を讃えている。
その農民は享年24歳。人生これからという時に短い生涯を終えた。
名を白田六右衛門という。若干24歳で、この村の名主だった人です。

島原の乱(寛永14年:1637年)で国内の大規模な戦乱は収束したが、この乱は圧政に反発した農民一揆の側面もあった。
鎮圧後に幕府が一揆を禁止すると、それまでの武器や得物を取っての闘争から、強訴、逃散といった騒動に変化していくのです。
幕府も藩政不行き届きや領内の騒擾を名目にやたらと大名を改易しようとするのですが、農民側からすれば領内の治安が不行き届きなのを江戸表へ訴えるケースが増えた。要求は年貢減免、領主や代官の交代などです。
成功した例もあるが、成功しても訴えた者や首謀者は処刑されるケースが殆どである。

農民が困窮した要因は治世者の悪政もあるが天災もある。水害、干ばつ、害虫、疫病、浅間山のような火山噴火、それらが飢饉に至る。
被害が甚大で全国クラスなのが江戸四大飢饉で、①寛永(寛永19年(1642年)~20年(1643年)、②享保(享保17年(1732年)~、③天明(天明2年(1782年)~7年(1787年)、④天保(天保4年(1833年)~10年(1839年)、この四つだが、そこまで大きくなくても不作による飢饉はあった。

慈雲山龍源寺での話は元禄初期の頃です。元禄というと華美なイメージがあるが、この地(多胡村といいます)一帯は干ばつで農作物が枯れつくして全滅、農民は餓死寸前になったと。
その時、この地の為政者が誰だったのか。吉井藩松平家と天領(門奈氏、川村氏)他が入り混じっていたらしい。
困窮した村々の名主の一人だったのが白田六右衛門、20代で名主です。世襲だったのかも知れない。
名主=庄屋、支配階級の末端と被支配階級(農民)の中間に位置する。辛い立場でもあった。おそらく名主=豪農だったと推察しますが、六右衛門は困窮した村々を見て思うところあり。支配階級に巻かれるか、己を捨てて他人を救うかです。
六右衛門は後者だった。命を捨てることで開けてはいけない扉を開ける。領主から預けられ保管されていた年貢米の殻倉を独断で解放し、その中の殻倉を人々に分け与えた。
村々の人命は救われた。だが六右衛門は捕われの身となる。村人達は必死に助命嘆願をするが許されなかった。元禄24年(1689年)5月4日、この寺、龍源寺の前にあったキュウリ畑で斬られたという。
六右衛門の子孫、白田一族は末長く供養を続けてきたが、六右衛門がキュウリ畑で処刑されてからは、白田一族はキュウリを全く作らない習わしが続いているという。

寺を訪れたのは平成24年(2012年)7月です。田に稲が青々としていた。
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何処に六右衛門さんの碑があるのかわからず境内をウロウロしていたら一台のワゴン車が停まって、中からご住職が出て来られたのです。それが噂の現場に出ていた方です。
ご住職は私より若かった。近隣の農家の女性が青物を届けに来たので、胸元に手を合わせてお礼をしていた。
そしたら私と目と目があった。
この平日に私みたいなのが境内を物色しているのを見て訝しんだらしいのです。私の方に歩み寄って来て、「あの・・・なにか・・・」
寺の参道に、二人の坊主頭が向かい合った。
この手の不審者扱いに私も慣れてきたので、目の力を抜いて丁寧口調で、「この地で亡くなった農民さんの何かを見に来ました」と打ち明けたら、この碑の前に案内していただいたのです。
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碑の前に二人の坊主アタマが並んだ。幾つかお話を伺った。
「処刑された場所、キュウリ畑って何処なんですかね?」
ご住職はこの質問にちょっとだけ驚いたようだったが、黙って指をさした先は、寺の前、私のくるまが停まっている駐車場だったのである。
「今の駐車場のある辺りに畑があったときいております」
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ご住職は本堂か母屋に戻られ、くるまに乗り込もうとした私に再度、声をかけ、寺のパンフと団扇を頂いた。
寺のパンフはお墓か檀家の募集でしょう。しっかり営業されてると思った。
私もつい軽口になり、自分のアタマに手をやって、
「もしかして同業者かと思ったでしょ?」
「いえ、そういうことはございません」といって胸元で手を合わせて見送ってくれた。
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すぐには立ち去らず、その一帯の村の空気を吸い込んだものです。やや湿った田舎風に吹かれながら考えたのは、あたら短い人生をという気持ちです。
六右衛門さんは妻帯してたのか。
言い交わした女性はいなかったのだろうか。
そうやって自らを捨てられるものだろうか。
人命を救った者が罰せられるのなら、法は何の為にあるのかという憤りもあった。

あの頃に撮った寺の裏山です。この辺りが崩れたのだろうか。
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「まさか見に行くんじゃないでしょうねぇ」
「現場を?」
ICからほど近いから行けない距離ではない。気になるけど行ったとして何になる。何もならんよ。8年前に義民のお話を伺った者ですが、噂の現場を見てきましたとでも言うのかい。
ご住職も私のことなんか覚えてないさ。8年前ですよ。でもTVに映ったご住職は若々しいお顔で8年の歳月を感じさせなかった。だがその胸中には惨事による苦悩がある。土砂に押し流されて見つかっていないお骨もあるそうである。檀家さんもやりきれない気持ちだろうね。
ご住職は私と一期一会、時間にして10数分足らずでしたが、私は一度会って喋った人は忘れ難いのだ。
ご住職のご健勝と、早期の事件解決を願ってこの項を終わります。
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箕輪城 [隠れ郷土史]

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今日4月6日は城の日だそうです。
日本城郭協会という財団法人が認定した記念日です。(29日が肉の日と同じようなものか。)
会員なんかになりたくもないけど、日本城郭協会会員になるには入会金3000円、年会費3000円、4月1日~3月31日を年間と定めているので年度途中の入会は月割計算になるそうです。途中退会で払い戻されるかどうかはわからないが。
その協会が定めた日本100名城というのがあって、グンマでは今日取り上げる箕輪城と、太田市にある金山城が認定されています。
何を基準に名城としたのかワカランが、令和2年3月、渋川市の公用の帰途、夕方、後はビジホにINするだけなので、久々に立ち寄ってみた。

汚い幟だな。黒いインクが滲んでいるじゃないか。変えようよ。
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箕輪城は榛名山麓にあります。やや斜めになったスローブ台地ある。現在は駐車場が完備され、大型バスも停車できるようになっていた。
でもまだ城内は至るところを養生中で入れない箇所があった。全て完成するにはまだまだ何年もかかるだろう。
箕輪城は駐車場からの比高さがそんないないので、外から見ただけでは要害堅固には見えないが、自然地形に大規模な普請を加えているのだ。
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駐車場は搦手口側にある。コースに沿って歩いてニの丸へ。
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ニの丸と本丸の間にある箱堀。
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すぐ本丸です。広いです。山城と違って楽チンです。
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何処かの戦国ペアが碑文に見入っている。若い戦国ファン、特に歴女(レキジョ)が増えるのはいいことだ。
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東側の土塁は遺構だが、西側のキレイにカタチ造った土塁は復元ではないかな。
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東側の土塁上を歩いてみる。大蛇の背を歩いているかのようである。
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一旦、さっきの碑まで戻った。さっきの戦国ペアは御前曲輪へ歩いていった。
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そこから西側の土塁上を歩いてみたが、やっぱりこれ復元ですよね。
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ロープが張ってある辺りはまだ養生中なので立ち入り禁止。いったん下ります。
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途中からロープが切れたので再度上を歩いてみる。
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同じ断面形状でキレイにカタチ造っているので、何だかわざとらしい気もする。
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私が土塁上を歩いてるのを他の訪城客から見たら「いいトシしたオヤジが子供みたいに何をやってるんだ?」見えるだろう。
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本丸と御前曲輪の間にある箱堀、往時はもっと深く、エッジが鋭かっただろう。
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御前曲輪は落ち葉だらけなのですぐ引き返し、箱堀から西側の堀へ下りてみることにする。
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既に陽は西に傾きつつある。暗くなる前に急いで歩いた。
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堀底に下りたところ。上から狙い撃ちされそうである。
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こうして歩いてみると土木工事が難儀だったろうなと思う。重機が無かったので、往時は人海戦術だった。
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堀底を歩いて南側へぐるっと廻ります。
そういえば、復元された櫓門は何処にあるんだろうか。平成25年のいつだったか。高崎市のHPにあったのは、
『戦国時代の城門復元で最大級。高崎市教育委員会は、国指定史跡箕輪城の城門を井伊直政が城主をつとめた戦国時代末期の姿に復元する計画を5日に発表した。』
私はこれに反発したのを覚えています。別に井伊直政が嫌いなのではないが、讃えるべきはこの地にいた長野業政ではないのか。
堀底から三の丸へ上がります。私は攻める側で、矢玉をかいくぐって攻め上ったみたいだ。
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天然石を積み上げた石垣は角に丸味があるから河原の石ですね。何でここだけ石垣があるのかな。
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三の丸を出て馬出しへ、土橋の向こうに復元された門があった。門は解説板によると幅5.7m、高さ6.3m、2階建て櫓門です。
自分は白亜の楼閣や天守には全く興味が無く、国宝姫路城ですら行ったことが無い人です。ああいうのは政治の象徴ですからね。むしろこういう泥臭い復元の方がいいです。
国指定史跡での建造物復元は史料や根拠が無いと文化庁の許可が下りないそうですよ。文献が少ない中世の城郭復元は難しいらしい。門の礎石でも残っていればまだいい方だとか。
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箕輪城にいた長野業政という領主は、甲斐の武田晴信に勝てなかったけど負けなかった人です。業政にはわかっているだけでも娘が12人もいて、それら娘さんを周辺の豪族達に嫁がせまくった。
その婿たち12人は、
長女、小幡城主小幡信貞室
次女、国峰城主小幡景定室
三女、忍城主成田室
四女、山名城主木部定朝室
五女、大戸城主大戸左近兵衛室
六女、和田城主和田業繁室
七女、倉賀野城主金井秀景室
八女、羽尾城主羽尾修理亮室
九女、浜川城主・藤井氏(箕輪長野家家老)室
十女、厩橋城主・長野氏室
十一女、板鼻鷹巣城主・依田氏室
十二女、室田鷹留城主・長野業固室
娘婿たち十二城で私が訪城したのは長女、次女、四女、六女(和田城は高崎城の前身)、七女、八女、九城、十女(前橋城のこと)、十一女、十二女、残り2城か。
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業政は上州の国人たちとネットワークを繋いで、信濃路からやって来る甲州軍を再三に渡って迎撃する。
例えば安中市を例にとると、十一女の鷹巣城や十二女の鷹留城の防衛圏内にある安中、後閑、里見、雉ヶ尾、蔵人、辻、礼応寺、秋間といった中塞、小塞同士を繋いで防衛ラインを構成した。
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長野業政は婿たちや国人衆の盟主ではあるが、主君と家臣の関係ではなく、甲斐武田が上州を侵略しに来るときだけ国人衆を糾合していち軍を編成するのです。攻め入るのではなく攻めてきたら迎撃する。でもそれらは連合軍なので決して一枚岩ではなく各将の足並みも揃わないし、甲斐武田から調略の手も伸びただろう。生涯に渡って護りの状勢が続いた。
安中や八幡での野戦では甲州軍に敗れるが、撤退戦の奇襲やここ箕輪の籠城戦で粘って武田晴信に上州制覇を許さなかった。勝てなかったけど負けなかったとはそういうこと。
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業政は亡くなる前に嫡男の業盛(嫡男だが次男らしい。)を枕元に呼び寄せ、残した遺言の中に、
「敵に降伏するな。運が尽きたら討死せよ。それが儂への孝養これに過ぎたるもの無し」
敵とは甲斐武田に決まっている。業政は、自分だから持ちこたえたが業盛では厳しいと思ったのではないか。
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業正が没したのは永禄4年(1561年)だが、その年には既に次女の嫁いだ国峰城が陥落している。
永禄6年(1563年)六女の婿、和田城主の和田業繁が武田に寝返る。
永禄7年(1564年)松井田城と安中城が陥落。
永禄8年(1565年)七女の嫁いだ倉賀野城が陥落。
永禄9年(1566年)安中の防衛ラインが突破され、十一女の嫁いだ鷹巣城と、十二女が嫁いだ鷹留城、この2城と箕輪城が分断されて鷹巣、鷹留の2城が陥落。
両軍主力が9月28日に若田ヶ原という場所で激戦となる。若田ヶ原はJR群馬八幡駅の北、若田町で、現在は八幡霊園がある辺りです。
翌29日に箕輪城は落城、業盛は遺言通り自刃、そこだけ光芒のように登場する若武者だった。
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長野業政は上州から外には攻めに転じていない。上州に攻めて来たのを迎撃、再三打ち負かしただけ。侵略されたから戦っただけです。
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櫓門を後にして、駐車場に戻るところ。
今は長閑な麓一帯も雲霞の如く武田菱の軍兵で埋まっていた。榛名山麓に銃砲や矢唸りが響き、鯨波の如き大喚声が昼夜を問わす挙がっていたに違いない。
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箕輪城はまだ整備中です。長野業政がどれほどの猛将だったかを解説して盛り上げて欲しいものだ。中央政権を簒奪した者や、他国を侵す戦いで版図を広げた者だけが取り上げあっれて英雄と呼ばれるのには抵抗を感じる。他国に攻め入らず、自国を、自分の郷を護る為に戦った長野業政はローカルだけど上州のヒーローなのだ。
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山名水泳場跡 [隠れ郷土史]

出張2日め、申請は全て終わり、予定した時刻より早く済んだ。
後は高崎市内へレンタカーを返却するだけ。吉井町から県道71号線で中山峠を越える最短ルートを選ばずに敢えて迂回した。山名、根古屋の山岳地帯の東をぐるっと回って帰還するルートで、何故か上信電鉄の西山名駅へ。
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無人駅です。駅前にはロータリーというものはなく、ネコの額程度のスペースがあるだけで、くるまを切りかえしもできない。
踏切を渡って、駅の北口(山側)に停車した。
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西山名駅3.jpg

親切な図書館.jpg
その前日のこと。
高崎市の行政は広場の道路の向いにある。
窓口は4階です。5階に図書館があって、アポまで時間がある時は現地の史料を漁ったりします。
受付の女性に、
「上信電鉄100年史は返却されたかなぁ」
「ええっと、上信電鉄の100年史ですか」
こないだ来た時は貸し出し中だったのです。女性は検索した。
「あ、戻ってきてますね」
「棚は何処ですかな?」
「ええっと」
自ら立って案内してくれたのです。分類で「交通」の棚だった。
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だが書籍そのものがみつからない。いや、みつけられないのです。たかだか3尺の書棚スペースだが。
「ありました」
「それは信越線」
「あ、ええっと」
私の目はもう100年史を見つけています。
「これだと思うけど」
「あ、あ、これですね」
この女性は親切だがトロイぞ、な~んて言っちゃぁいけないよね。思っただけ。
「じゃぁ見させていただきます」
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戦時前、戦時中の頁を捲った。
やはり無いなぁ。何処にも。
私が探しているのは、上信電鉄西山名駅~真庭駅間の何処かから本線を離れて、現在の陸上自衛隊関東補給処吉井弾薬支処に戦時中にあった陸軍試射場への軍用貨物列車の引き込み線についてです。私が呟きⅡで取り上げた岩鼻火薬製造所にも関連するという。
https://funayama-shika-2.blog.ss-blog.jp/2014-01-30
だが何処にもその頁、記載は無かった。他の史料もみつからない。転勤が解ける直前の2013年3月、下仁田戦争を調べに下仁田に出向いた際に立ち寄った下仁田町歴史館の書棚には、もっとブ厚い写真集みたいなのがあったんだがなぁ。
無ければ仕方がない。棚に戻そうとして立ち上がりかけたのだが、西山名駅の辺りに意外な記述を見つけたのです。
それはプールのモノクロ写真と解説だった。
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以下は史料からの転用ですが。
西山名駅は昭和5年(1930年)6月に水泳場停留所、あるいは水泳場前駅として開業していた。
水泳場とは今でいうプールのことです。水泳場前駅は夏場シーズンだけの臨時駅で、簡易的なプラットホームだけの仮設駅だったと思います。
ではこの水泳場は何処にあったのか。それを知りたくて西山名駅にやってきたわけですよ。
西山名駅から南へ約300m歩くと鏑川にぶつかります。水泳場は鏑川を堰き止めた自然のプールだというんだな。
人工的な手を加えた自然のプール??
ご存じの如く群馬県は海無県です。高崎市和田町にある城南プールが造られる前からそういう川のプールがあったらしく、山名水泳場開設より遥か前、大正11年(1922年)には烏川の聖石橋上流に烏川水泳場があった。現在の八千代橋運動広場の辺りだろうか。
烏川水泳場は洪水で閉鎖されています。高崎市民は川をせき止めた水泳場で泳ぐのに抵抗が無かったのかも。
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山名駅前、これを駅前通りといっていいのかな、この道を鏑川に向かって歩けばいいのです。
でも私はくるまなんだよな。
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この写真はくるまを停めて撮っています。運転しながらじゃないよ。裏道なのか、細いのにくるまの通行量は少なくないです。
くるまを停める場所がない。いくらコンパクトカーだからといって細い道に無理して入り、うっかり河川敷にハマるのも難儀なので、ハザードランプを点滅させた状態で、墓地のある前にやや広い路肩があったのでそこに置いた。鏑川まで歩いた。
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その先に1.jpg
細い路地があって昔ながらの家々が立ち並んでいる。川に面した家は川のせせらぎの音を聞きながら日々を送っているのですね。
何かが立っている。
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案山子だった。雲一つ無い晴天の下だからいいが、知らないで夜にこの案山子を見たらゾッとするだろう。
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この辺りかな。勝手に想像してみる。
河川の遍歴とともに時代は流れ過ぎている。度重なる増水、護岸工事、川の浚渫工事往時の痕跡は無いようだ。何せ90年前だからね。
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でも地元の人に聞いてみたい。畑で草をむしっていた女性に声をかけてみたら、
「ああ、ちょうどこの辺りにあったんですよ。プールっていうかバチャバチャする水遊び場ね。」
水遊び場と聞こえたが、水浴び場かもしれない。
「駅から歩いて、その小道の辺りに入って、そこの辺りです」
私がここまで歩いてきた路地です。
「私は他から来たんで(嫁いで来た?)よく知らないんですけど」
「もう何も無いですよね?」(私)
「何もないですよ」
改めて川を見る。この辺りにあったに違いない。
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今は水深が浅く見える。当時の鏑川の河川、水は澄んでいたのだろう。
土手を見る。幅広いです。往時は行楽客と露店tがひしめき合っていたのだろうか。
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土手2.jpg
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天然の河川を堰き止めた人工水泳場の跡がこれです。造ったのは上信電鉄の第10代社長、山田昌吉という人。もとは地元銀行の高崎支店の支配役で、経営難に陥った上信電鉄(当時は上野鉄道)を救った人といっていい。
この人が社長に就任して大正13年(1924年)に電化に踏み切り軌間を拡張、河川の橋梁も全部架け替えた。軌間を広げたことで旧国鉄線との接続も可能になった。
山田社長は沿線の観光振興による旅客数を向上させようと目論む。山名水泳場の開設はその一環だった。
データによると、深さは最深で二丈、一丈は約3mだから6mで、他大部分は泳ぐのに適度な深さとある。プール幅は半丁、一丁は109mだから約50m、長さは二丁だから約210m、300人か400人は収容可能な天然プールだった。飛び込み台もあったというから驚く。
水泳場だからもちろん脱衣所があり、水難防止や対策の為の見張り所や保護所があり、河川の箇所によっては危険標識があった。
当時は週休2日ではないのでイベントは日曜日に企画された。夏場のシーズンには臨時電車を増発、伊勢崎スイカ1000個を流すスイカ流し大会、競泳大会、往時の人気映画俳優や女優が訪れるイベントが開催されて活況を呈した。
史料で見た俳優さんや女優さんのお名前は、鈴木伝明、田中絹代、御子柴初子、松竹女優たくさん、知らない人ばかりだな。
小舟が5隻、河原には土俵が2カ所、休憩場には麦湯、電車発車20分前には予告の鐘が鳴った。20分で着替えて電車に間に合うかギリギリ微妙なところである。
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昭和13年(1938年)12月27日、戦時に伴い自粛の煽りを受けて水泳場は閉鎖する。閉鎖後は大陸での戦傷兵や傷病兵を慰問する施設になり、水泳場前駅は駅名が入野駅と変わった。そしてここからほど近い山裾に出来た陸軍試射場(陸上自衛隊関東補給処吉井弾薬支処)へ砲弾を運ぶ貨物駅を兼ねるようになったという。
昭和61年(1986年)12月20日、かつての水泳場前駅は入野駅を経て、現在の西山名駅になった。
吉井町が高崎市に編入されるのは、平成21年(2009年)6月1日のことである。
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去り際に、さきほどの女性が声をかけてくれた。
「南八幡の公民館に詳しい冊子がありますよ」
それには上信電鉄が群馬県知事に提出した河川占用許可願の図が掲載されているそうです。
長閑な時代だった。今だったら河川を管理する国土交通省が絶対にOK出さないだろう。
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富士浅間大社異聞 [隠れ郷土史]

私らジャン夫婦の初詣は20年近く静岡県富士宮市の富士浅間大社と決めております。
何でわざわざ地元の神社でなく富士宮市まで出向くのか?
そのきっかけは今となっては覚えていません。船山温泉に行く前に紀尾井さんを知ってからだから、その道すがら立ち寄ったのだと思いますが。
御利益はありました。頭上を覆っていた暗雲が無くなったのです。「今のイヤな現状を変えたい」そう祈祷したらそれが叶ったのです。何組かと一緒に祈祷を受けたのですが他の方々は「裁判に勝ちたい」「商売を成功させたい」「金運を・・・」そんなのばっかりでした。神様もタイヘンなんだなと思ったですよ。
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場所が場所なのでさすがに元旦に初詣という訳にはいかない。早くて1月半ばかそれ移行で遅い時は2月か3月になったりしますね。
何をお願いするか。今は家内安全健康だけです。商売繁盛とか何かに打ち勝つとか「我に勝利を与えたまえ」のようなギラギラした類の願い事は祈願したことがないです。私は起業者じゃないし、会社でも売り上げや利益、営業成績や点数に関わる仕事してませんから。
何故か富士宮市内で開催された懇親会に出向く前に、ホテルにインしてからテクテク歩いて初詣に行ったのは、前から気になっていたこ、探しているものがあってですね。
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家内健康安全のお参りを済ませ、社殿の右、東側にある湧玉池に下りたところ。
水源は富士山からの伏流水です。毎日約30万Lも湧き出ているそうです。
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この時は新型肺炎云々が騒がれる前だったので、境内にも池の周囲にも東洋系の外国人観光客がいた。
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私はある碑を探しています。その碑と並んでいる解説版には、マトモな観光客がまず見向きもしない内容が記載されているのです。
あれかな?
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違った。湧玉池の近くにあるとあったが。
あれかもしれないな。
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あったあった。湧玉池から流れる水が川になった辺りにそれはあった。
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駿州赤心隊、富士亦八郎重信、
この人は富士氏四十四代目で、富士氏としては浅間大社の最後の宮司さんです。
「東征軍に参加、駿州赤心隊を率いて幕軍と戦う」とありますね。新政府軍について旧幕軍と交戦したのだろうか。
西南戦争に従軍した後は、現靖国神社の前身、東京招魂社の社司となっています。ということは富士浅間大社に帰ることはなかったのですよ。帰れなかったらしいのだ。
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富士氏についてですが、浅間大社の敷地内にある湧玉池から東の先にやや小高い一帯がある。そこには中世の頃に大宮城という城塞があり、地元の国人である富士氏が大宮司と地元領主を兼ねて統治していた。
https://funayama-shika-3.blog.ss-blog.jp/2015-06-10
前にUpしましたが、富士氏は今川家の被官で、甲州武田軍の駿河侵攻を迎撃しています。その時の城主は富士兵部少輔信忠という人で浅間大社の宮司も兼ねていた。
甲州軍は永禄11年(1568年)12月、永禄12年(1569年)2月、同年6月、しつこく攻め寄せたが、富士信忠は初回と2回は撃退に成功しています。3回めに開城した。今川氏真に余力が無く見捨てられたといっていい。
富士信忠は武田氏に帰属する。武田勝頼の代になって息子の信通が宮司に復権したが、武装は解除されて神職だけに専念することになった。

家康以降の徳川家も浅間大社を庇護する。駿河国だから当然だよね。朱印地(寺領?)を安堵、社殿造営、多額の寄進、富士山頂への散銭取得権等を認めた。登山道の役銭ですよ。それで甲斐側と争いも起こしている。
富士信忠の大宮城開城から富士氏は神職のみの執り行うことで、富士大宮司支配の地として富士山麓周辺の地から認識される。宮司職は祭祀を司る為に駿河国富士郡内各地へ赴いていた。

だが明治になって富士氏は宮司ではなくなった。それまで富士氏が代々継承されていたのだが、明治3年以降、宮司は内務省(昭和22年に廃止)から直接任命される官選となった。
官選によって選ばれた初代宮司は宍野半(ナカバ)という人だがこの人は薩摩の出身だというではないか。これを最初に知った時、私は時代を謳歌する薩長藩閥政府が旧徳川幕府の息のかかった富士氏を宮司から放逐しやがったなと思い込んだのですが。事実は異なるらしい。
前述の碑や解説板にある通り、東征軍に参加、駿州赤心隊を率いて幕軍と戦う、これがネックになっているのです。書かれていない事柄もある。
この碑文は読めない。判読できないな。
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観光客、参拝客は誰もこの碑、解説に興味を示さないですね。皆、素通り。碑の反対側、池から流れる川に視線がいっています。

富士重本、通称は亦八郎、文政9年(1826年)生まれ。僅かな解説にあるとおり富士氏の当主(四十四代目)、徳川幕府お膝元の駿河、富士浅間大社宮司の系譜なのに東征軍に一隊を率いて従軍し、上野戦争、東北戦争、函館戦争に参加。細かい従軍戦歴はわかりませんが、戦後は新政府に出仕して兵部省や陸軍省に勤務しています。
会津にも攻め込んだのかね。
戦後、富士には帰らなかった。いや、帰れなかったのです。その理由は?
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新政府樹立後、旧徳川家はどうなったか。
15代徳川慶喜に代わって田安亀之助(徳川家達)という人に徳川宗家を継承させ、駿河、遠江、三河、計70万石を与えて静岡藩が立藩される。
3国にもともとあった沼津藩、田中藩、小島藩、掛川藩、浜松藩、相良藩、横須賀藩の7藩は上総、安房に転封されています。引っ越しのドタバタの後ですぐに版籍奉還になるのですが。
旧幕府領が700万石だったのが僅か1/10の70万石へ転落です。そこへ多くの旧幕臣がドドドッと移住してきた。静岡藩の職制は江戸幕府の役職をそのまま踏襲、政務が執られ、職に就いて俸給を得た者は少なく大多数が無禄の者だった。失業武士が溢れかえった。
それら旧幕臣の扶助の為に藩財政はスタート時点から悪化する。ここで来年の大河の主人公、渋沢栄一が登場するのだが。
移住してきた旧幕臣は新政府に対しても富士氏に対して穏やかではなかった。困窮した旧幕臣、失業武士の不満、怒りの矛先が明治新政府側に付いた富士氏にも向けられる。旧幕臣から見れば東征軍に従軍して旧幕軍と戦い、終戦後に新政府方についた富士亦八郎は敵方に当るので、あろことか亦八郎がいた実家が焼き討ちに遭い、たいして宝物も無いのに略奪を受けたそうです。
さすがに浅間大社はその被害に遭わなかったと思うが。
なので亦八郎は故郷に帰ることが叶わなかった。富士家は宮司の継続が困難となり神職から退いた。

だが、富士亦八郎が率いた駿州赤心隊の他にも東征軍に従軍した諸隊が幾つかあったのです。
遠州報国隊、何と!おんな領主・井伊直虎がいた井伊谷、龍潭寺のすぐ北隣にあり、そこの宮司が率いた諸隊です。
伊豆伊吹隊、これは三嶋大社の神官他が中心になって結成され、新政府軍の箱根路の案内役を務めたという。戦闘に参加したかどうかは微妙です。
名前が似て紛らわしいが駿東赤心隊、よくわからないが亦八郎の隊とは別らしい。
これらの諸隊を草莽諸隊といって、国学に共鳴した神社の神主、神官たちが中心になり、門人たちが従軍、参戦した。国学の流れの中に古道という流れがあり、古道は儒学に対する抵抗思想の体系で、復古思想から尊王思想に発展していったので、尊王や王政復古を謳う新政府に沿ったものだった。
だがそれら諸隊は国学に共鳴しただけではなく、他にも地元の有力国人の系譜に連なる者や、帰納した郷士が長い歳月で特権を否定され、農民並の扱いしか受けられなかったことへの不満、茶を扱う株の特権を認めて欲しい商人が軍資金を提供したとか、様々な利権も絡んでいるようである。
その中で富士亦八郎は意外にも国学に否定派で、むしろ言論の自由を謳っていたフシがある。その時代では開明思想だったといっていい。
徳川宗家のお膝元である駿河国からそういう諸隊が決起して新政府軍についたのは意外なようだが、様々な事情があったのでしょう。
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碑や解説には富士亦八郎を讃えている感はなく、当たり障りない最低限のことしか記載されていません。でも記載されない事柄の方が遥かに多いのです。
浅間大社の参拝客や観光客はまずご存じないでしょうね。境内の片隅にあって目立たないし。大きくアピールする内容でもないし、別に知らなくても日常には不自由しないし。
来年の大河で富士亦八郎が端役でも登場するかどうかはわからない。
私は何でこの人のことを知ったのか。覚えてないんですよ。
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ふたつ山砦 [隠れ郷土史]

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初秋の頃、この日の静岡日帰り出張は新横浜7時45分発のこだま、静岡駅で8時56分発の東海道線島田行(僅か3両編成だった)、藤枝着は9時15分、そして行政までタクシーで。
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都内の平時シフトは9時~18時勤務ですが、それを地方出張に当てはめて藤枝に9時きっかりに来るのは厳しい。かといって前泊するほどでもないし。
「そういう場合ってスタートは何時から勤務時間にするんですか?」(現地の姐御リーダー、A子)
鋭いツッコミだな~。
「自分で決めるしかないね。小田原とか。熱海とか」
こういう質問を受けたのは、静岡や群馬の社員が東京で研修を受ける場合、移動時間はどのタイミングから勤務時間になるのかということ。
「上京する場合は新幹線に乗った時間だろうね」
「退勤時間は?」
「その逆かな。最寄り駅に着いた時間でいい」
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前へ進むのに一旦戻るルートが嫌いな私は、新横浜に戻らず真っすぐ西に向かって小田原から乗車するのを好むのですが、今回はそうしなかった。朝メシを食べた松屋でアンちゃんがひとり勤務で時間がかかったからですよ。
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どうも松屋さんのタッチパネル券売機は苦手だよ。
またこんなオカシなことになってさ。
またもこんなことに.jpg
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静岡県藤枝市にある行政です。
駅から私を乗せてきたタクシーが去っていくところ。
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幸い申請は無事に終了して時間に余裕ができたので、タクシーを呼ばないで徒歩で駅まで戻ることにした。

さて、カテゴリに繋がる歴ネタですが。その前に。
私がタクシーを見送ったこの行政ですが、1階のWCをお借りしたことがあります。それも10回や20回どころじゃない。もっとです。
届け出事項があってその際に借りるのですが、お腹の調子がイマイチな時に、ここから東にある「まぁるい縄張り」田中城近くでランチしたことがある。
https://funayama-shika-3.blog.ss-blog.jp/2017-05-29
https://funayama-shika-3.blog.ss-blog.jp/2017-09-05-1
この時のランチは藤枝で有名な朝ラーメン、それも温かいラーメンと冷やしラーメン(冷やし中華ではない)をセットで食べた。冷えたら当然お腹の調子が更に悪くなり、この行政のWCをお借りしたものです。
過去記事の田中城散策他は私の体調管理不行届でドジった旅紀行でもあったのですが、その田中城を徳川軍が攻囲した時の陣城、砦がこの行政の南にあるのを知った。
ただ、行政から直線では行けない。東海道線をアンダーパスする必要がある。
カインズやベイシアをグルッと廻って、踏切を渡ってそっち方面へ向かいます。
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家康の藤枝方面への侵攻は天正3(1575年)年8月頃からだが、武田方の最大拠点、私がお腹を壊したまぁるい縄張りの平城、田中城攻めは天正6年から数回に及んだ。平城なのにすぐには落とせなかったらしい。
家康が野戦が得意というのは家康ファンが言ってるだけだと思うが、平城なのに田中城攻めに難儀したのは、天正7年(1579年)に嫡子、信康が自刃したのもあって、メンタル的に参ってたのではないかな。
田中城が落ちたのは天正10年(1582年)です。史料には、このとき砦(とりで)が築かれた「二つ山」があったと。
あの二つの山かな。
二つの山.jpg
どちらに行こうか。2か所廻るのはキツいしな。
検索したら、東海道本線のすぐ南側にある岩城神社の祀られている比高30mほどの山だというからあれかな。
(鳥観図の第一人者、余湖先生のサイトによる。)
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砦への参道.jpg
岩城神社はここから参道が伸びていた。
比高30mほどの丘が、家康がここから東にあるまぁるい縄張り、田中城を攻めた時の陣城のひとつです。
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この参道は岩城神社の西側であり、陣城はこの右上にある。人工的な縄張りが崩れたのか、単に自然地形なのかわからない。散策して雰囲気のみ味わった。
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神社5左に空堀跡?.jpg
神社6石段.jpg
登ったら岩城神社があった。境内は薄暗くて無人です。誰かが手入れしている感もない。
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社殿の裏は雑木林で人口的に手を加えた形跡がなかった。
境内の東には10mほどの石段があり、そこを登ったところが最高所だった。
神社9本郭へ.jpg
郭と思われます。西側には低い土塁も。
本郭2土塁痕.jpg
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そこから見下ろしたところ。二の郭、三の郭と段々になっていた。この辺りはいい雰囲気です。
でもこれだけで規模の大きなものではない。あくまで物見の場所で大軍は麓に駐屯させていたのだろう。
私は史料そのものは見てないが「駿河二山ニ陣取候」とあるそうです。この二山とは二つの山に陣を取ったということ。陣所はこの岩城神社の山ともうひとつに置かれていた。
もうひとつはあの山だろうか。
本郭5あの山もそうかな.jpg
各方面を調べてみたら鳥観図の第一人者である余湖先生のサイトに、
「岩城神社(八幡山)は、かつて西側に藤五郎山、東に池田山があり、広大な陣城であったが、藤五郎山と池田山は現在では削平されて失われているという」
コメ増産が叫ばれた時代があって、均されて田んぼになったに違いない。
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ではまぁるい田中城を攻囲する本陣として、そっち方面を望んでみますが、駅方面を望むが木々で遮られて見えないです。定宿ルートイン藤枝も見えない。
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太極拳をしているオバさんがいた。
散歩、散策中のおじいさん。
黒いスーツ姿で革靴は私だけである。
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家康はこの陣城にいた時は嫡男信康や築山御前のことで参っていたと思う。殆ど信長の命で誅したようなものだからね。
自刃の悲報はこの陣城か砦か、田中城の前戦で受けた筈だ。
荒れた家康は、田中城を落とした後も焼津の用宗城で相当やらかしたようです。
https://funayama-shika-3.blog.ss-blog.jp/2016-02-11
「三河に勃興し遠州に勢力を拡大した徳川勢と度重なる攻防戦を繰り返し、なかでも天正七年九月の戦は最も残虐であった。それは織田信長に今川と結び謀反の疑いをかけられた家康が、今川方の血をひく正室築山御前を自らの手の者に殺させ、また長子信康は二俣城中で自刃して果てた。我が妻子の無念を思う家康のやるところなきうっ憤の吐け場となり激闘壮絶を極め、武田方の城将向井伊賀守正重、甥の兵庫、叔父伊兵衛政綱、長男政勝ら悉く悲惨な討死を遂げた。」
天正七年九月の戦は最も残虐であった・・・

岩城神社の境内には田中城攻囲戦の陣城、砦だった記載は皆無だった。陣城や付城は戦時中の軍事施設なので、戦争が終われば放置される。政庁や象徴ではないからかもしれない。
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さぁ戻ろう。藤枝駅まで歩いた。これが結構な距離で足がくたびれてきた。東海道線に沿って直線的に歩くだけなのだが、藤枝駅が見えてるのにそこまでたどり着かないような錯覚に陥った。
砦の地図.jpg
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この後、自分は清水区へ11:30に駆け込んでいます。前にUpしたラーメン屋でチャーハンがデカい店、その先向こうにあるのが私が出向いた清水区役所。
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その先で見たものがこれ。
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何なんだろうねこのネーミングは。入る気にならないよ。
清水駅からここまで往復歩いたのです。その歩いた疲れと朝早かったのが重なり、眠気をもよおしてきた。
次の行政窓口、富士宮市に向かおうと富士市方面の電車に乗ったのですが、その電車はワイドビュー富士川という特急だったのですよ。(続く)
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内藤ステーション 旧前橋駅跡 [隠れ郷土史]

JR前橋駅前を東西に走る県道109号線を石倉前橋停車場線といいます。
この県道は東西1.6kmしかない。ここより東で合流するる国道50号線「中川小学校前」までなら2kmぐらいあるかもしれないが、短い県道です。
前橋駅前を過ぎて、利根川を渡って(利根橋)石倉町一丁目までの短い県道ですが、この表示、停車場線というのに目がいった。
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停車場とは駅に昇格する前のことだろうか。現在の前橋駅のことか。
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調べてみたら、今いる前橋市表町から西の利根川を渡った石倉町に最初の前橋駅があったというんだな。
初めて上野から高崎まで鉄道が開通した先、前橋まで延長しようとしたが、利根川を架橋するのが困難で石倉町に駅を設置したそうです。最初は利根川を渡っていなかったのだ。渡る手前です。
内藤ステーションといいます。前橋ステーションでもいい。

11時から15時までの時間帯は、高崎方面の電車が1時間に2本しかない。新前橋駅まで行けば上越線や吾妻線の分だけ本数が増えるので、澄んだ青空の下、内藤ステーション経由で新前橋駅まで歩いてみたんですよ。
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利根川を渡るとこ。左手には両毛線の利根川橋梁が並行している。
この利根川橋梁は川に沿って吹く強風、赤城おろしか榛名おろしが強いと電車は速度を落としたり、運休したりすることがある。
前に新前橋で足止めくってタクシーで前橋けやき通りまで行ったことがあるが、私が歩いているのはその時の道だ。
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右手の上流側を見ると群馬県庁が見えます。県庁所在地なのに1時間に2本しかないんですよ。
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橋を渡って下りていくと、そこに旧利根川橋の橋台跡があった。新旧の橋台が並んでいる。
対岸にもある筈だが草葉が生い茂って見えない。
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河原に旧利根川橋の橋脚の台が見えます。楕円形の白い部分です。
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河から県道に戻って上流を見たところ。県庁が目立つ。
この県庁と高崎市の市役所が高さを競い合っているように思うのは私だけじゃなかろうて。
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現在の若い方は気にしてないと思うが、前橋に県庁を置いたことで高崎市と対立構造になったことは過去にサラッと述べたけど、前橋市としてはそれ以外にも屈託があって。
上毛かるたでいう『県都前橋生糸(イト)の市(マチ)』です。こう謳われるのに世界遺産登録に関われなかったのです。
調べないとわからないが、群馬の生糸産業は世界遺産になった富岡製糸場より先に前橋で始まったのですよ。
富岡製糸場が操業開始したのが明治5年(1875年)だが、その2年前、明治3年(1873年)に「日本で最初に機械製糸工場」が前橋市で操業を開始しています。
最初は住吉町1丁目で操業スタート、次に岩神町(県庁の北側)へ移転した。「藩営前橋製糸所」という。藩営とは官営のことです。
明治5年の廃藩置県後は県営になり、その後は私営の大渡製糸所として明治31年(1898年)まで操業した。
生糸織物を東京まで搬送したが、利根川河川運輸で倉賀野を経てまる3日かかったという。これは鉄道が必要だと相成り、初代前橋市長の下村善太郎という人や、前橋の豪商、生糸商人たちが「製糸織物産業の発展には鉄道敷設が必要」と働きかける。
明治17年(1884年)国有化される前の日本鉄道(日本最初の私鉄)によって上野~高崎間が開通、8月には前橋まで延長されたが、前述のように利根川架橋が困難だった為、最初の前橋駅は現在の前橋駅ではなく、利根川を渡らず、私がこうして歩いている先、現在の石倉町にあったのです。
旧日本鉄道(旧国鉄)の前橋駅といっていい。
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この辺りの筈だが.jpg
この辺りの筈だが。
あったあった、両毛線の高架橋の袂、石倉アンダーパスの歩道脇にある。内藤分ステーションとある。
内藤とは、箕輪城からこの地を治めた武田家の内藤昌豊(長篠で戦死)に因む地名らしいです。
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第67台内閣総理大臣、福田赳夫の揮毫でしょうか。
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内藤ステーション跡から利根川方面を望む.jpg

前橋ステーション跡1.jpg
道を渡った北側にもうひとつ解説版とモニュメントがあった。
こちらは高崎出身の福田赳夫の揮毫ではなく、近年になって同町在住の有志の方が自宅敷地内に私費で設置したもの。こちらは前橋ステーションとある。
前橋ステーション跡2.jpg
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位置関係がこれ。
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それまでは利根川の水運で3日、更に横浜港を経由して海外へ輸出していたのだが、鉄道の開通によって4時間20分ほどに短縮された。1日3往復、乗降客数も多く、明治18年(1876年)年間69147人、明治21年(1879年)217260人という。
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前橋ステーション跡6モニュメント.jpg
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だがこの駅の存続年数は短かった。僅か5年です。
明治21年(1888年)には両毛鉄道が小山~足利間を開業、翌明治22年(1889年)11月20日には小山~現在の前橋駅間が開業しています。となると利根川を挟んで2つの前橋駅があったことになり、私がこうして歩いてきた距離だけ離れていたのですが。
同年12月26日、ついに利根川に待望の鉄道橋が架かり、日本鉄道が前橋駅(内藤分ステーション、日本鉄道)が前橋駅(両毛鉄道)が接続、延長された。利根川を渡って県庁側にある前橋駅に乗り入れが可能になったので、旧前橋駅の内藤分ステーションは廃止された。
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大正10年(1921年)7月1日、当時は上越南線といった上越線が渋川まで開業し、両毛線との分岐駅として新前橋駅が開業するのですが、新前橋駅と旧前橋駅は700mほどしか離れていません。内藤ステーションは復活しなかったのです。
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石倉町から新前橋駅まで延々と歩きます。
何しろ1時間に2本しかないので、私が歩いている間、両毛線経由の高崎方面の電車は来なかった。その代わりに、上越線や吾妻線から来た高崎方面の電車音を聞いた。
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この新前橋駅、県庁を持ってかれた高崎市がそれを根に持って?上越線を高崎駅から伸ばす際に前橋を通らずそのまま北上して渋川に至る路線案を主張した為に前橋議会が反対し、利根川よりこっち(高崎)側の前橋市内域に両毛線との分岐駅として設けた駅だという説がある。
私はそれを居酒屋や、出入りしている年配の営業マンから聞いた。
後年、高崎市は新幹線の駅の誘致に成功しているが、高速を出す為の線形を考えたらそれは当然だろうね。
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伊達兵の爪痕 [隠れ郷土史]

リンクしているあかべぇさんが会津祭りの克明なレポをUpされています。
私も祭りの前日は若松市内に泊ったのですが、翌日の祭り当日、お祭りや人混みが苦手なので早々に湯野上に立ち去りました。
司会者か進行役を担った軍奉行やMCを見たら、最初に名前を呼ばれた殿様は会津鶴ヶ城の前身である東黒川舘を建設した蘆品直盛公、会津守護職時代の黎明期に国主だった人からスタートするのですが、その次に会津を侵略した伊達政宗公が登場したのに今更ながら驚いた。
あかべぇさんのレポには、
「時は戦国時代、奥羽の覇権争いに勝利し、蘆名氏にかわり会津の地を治めたのは、独眼竜の異名をとった伊達政宗公でありました。本日、伊達政宗公に扮しておりますのは・・・」
蒲生氏郷公、上杉景勝公、加藤嘉明公、そして会津藩祖である保科正之公、一気に幕末にワープして、会津戦争の主要メンバーが紹介されます。
でも、氏郷公や景勝公はともかく、政宗公は会津の侵略者だろうが。
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磐梯町に慧日寺という寺があります。恵日寺ともいう。
読みは同じですが、慧日寺の「跡」なのです。明治の廃仏毀釈跡に再興されたのが恵日寺で、その前は慧日寺だった。
そこへ行くまでの車中で、
「また山城じゃないでしょうねぇ」
「寺だよ」
のやり取りがあり、
「足元は濡れる?」
わからない。行ったことないんだから。再建されてるから足元はしっかりしている筈だ。
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大同2年(807年)徳一という僧が開いた。どんな僧かは検索してみてください。
他、勝常寺、円蔵寺を建立して会津盆地に仏教文化の祖といっていい。
平安時代に創建され、明治の廃仏毀釈で廃寺になったが、明治37年(1904年)に復興された。
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勝常寺は行ってません。円蔵寺なら。
https://funayama-shika-3.blog.ss-blog.jp/2018-12-20

徳一が死去(入滅か?)されたのは承和9年(842年)です。こんな昔の頃が最盛期で、寺僧300人、僧兵が数千人、寺領は18万石、子院3800と伝わるから中堅クラスの大名並みである。
源平争乱の頃、寺の衆徒頭が兵を引き連れて平家側の城氏(越後)側に付き、木曾義仲の軍と信州で戦った為に一旦は勢力が衰えたそうですが、中世に入ると会津守護、蘆名氏の庇護もあって、幾つもの伽藍と門前町が連なったという。
だが会津に北方から侵略者がやって来る。裏磐梯の檜原から食指を伸ばしてきた伊達氏です。蘆品氏の衰退と家中分裂に付け込み、猪苗代経由で侵攻、天正17年(1589年)磐梯山麓の摺上原で会戦になり、勝利した伊達軍がこの寺にやってきて兵火に巻き込んだ。要は放火されたのですよ。
伊達軍の兵火、放火だけでなく、この寺、長い年月の間にやたらと火災に見舞われています。
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中門2.jpg
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復元された中門を通ると、目の前に金堂があります。これも復元です。金堂内と本尊薬師如来坐像は撮影禁止ですが、そこにあった金堂の焼失と復興の変遷はというと。
まず大同2年(807年)に造立され、承久3年(1221年)~の何処かで火災に遭い、観応元年(1350年)に再興。
応永25年(1418年)に火災に遭い、左手と薬壺のみ焼け残り、永享7年(1435年)頃までに再興。
天正17年(1589年)伊達政宗の会津新興の最終決戦である摺上原合戦直後、慧日寺に伊達軍が押し寄せ、寺は兵火に罹って焼失していますが、この金堂のみ焼失を免れた。
次にこれは同一年かもそれないが、寛永2年(1625年)と寛永3年(1626年)に火災、左手と薬壺のみ焼け残ったという。
明暦年間(1655年~1658年)会津藩祖、保科正之公により復興。
万治元年(1658年)本尊焼失、復興とあります。
明治2年(1869年)の廃仏毀釈によって廃寺に。
明治5年(1872年)6月、また近くの小屋から出火、薬師堂と鐘楼が延焼、仏頭のみ焼失を免れたが、明治12年(1879年)3月 またまた能満寺虚空蔵堂火災の折に仏頭焼失。
何だか長い歳月で火事が多くて踏んだり蹴ったりの感があるが、平成27年から復元制作が始まり、いろんな部位をその道のプロに同時進行で委ね、現在のお姿に蘇った。
その制作過程のVTRを観ました。NHKドキュメンタリーのようでオモシロかったね。

城の跡なら何となくわかるのですが、寺の跡はよくわからないですね。
講堂跡。
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講堂跡3石段遺構.jpg
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食堂跡。
「食堂(ショクドウ)だって」(ジャン妻)
よく読みなさい。ショクドウではなくジキドウです。
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仏堂跡。
仏堂跡1階段遺構.jpg
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跡、跡、跡、跡だらけです。
創建した徳一の廟は、慧日寺エリアから東側のここから出て一般の墓地の中にあるのですが、そこから出たらもう入れないことになっている。これは受付を通らないで敷地内に入るのを抑制しているのかもしれないが、一旦出たらまた受付に廻って入場料を支払わなければならないのかな。
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徳一廟1.jpg
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その他の建造物たち。薬師堂、仁王門、
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薬師堂3.jpg
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仁王門2.jpg
徳一廟は一般墓地にあるから仕方がないですが、この薬師堂、仁王門、そして磐梯神社を何で慧日寺見学エリア内に指定しないのだろう。
仁王門の解説版の前に停車しているのは業者のくるまです。ジャマだな。
仁王門3解説前に停めるな.jpg
伊達軍は摺上原で勝利した後、磐梯町その他でロクなことをしていません。
会津史に詳しい学者さんのサイトから。
『新編会津風土記には、大伽藍を誇った恵日寺は兵火にかかり、衆徒が皆逃げ、寺の検校(盲目で最高位の者)歓喜院玄弘の懸命な伊達方への説得で金堂だけは残したという。
冬木沢の八葉寺は、寺僧が富田美作の弟宥傳であったことから、葦名氏の恩に答え、寺と一体となっていた権現山館に立て籠もり抵抗しています。そのため、寺ごと火をかけられたのです。
勝常寺(湯川村)の徳一坐像は、眉間にある傷が伊達勢の乱入で付けられたものといわれています。』
八葉寺は行きましたね。
https://funayama-shika-3.blog.ss-blog.jp/2017-06-08-1
どの寺も僧兵を抱え、蘆名氏の庇護を受けていたから抵抗したんでしょうね。でも雑兵が坐像の眉間に切りつけたってか。
罰当たりなことをしよるな。
政宗公の指示かね。
気が立っていた配下の誰かが暴走したんだろうけど、上の者の責任だよ。
私は政宗公は好きでも嫌いでもないが、何でこんな暴挙をやらかした伊達政宗公を何で会津祭りに出すのだろうか。
資料館へ下る坂をよぎったヘビ君。
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資料館は境内の拝観料金に含まれるから行きましたが、ヒマそうにしてた係員さんから、「裏がクーポンになっております」と言われたのですが、もう1回来いって?一度来れば充分ですよ。
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この写真は薬師堂の裏に流れていた小川です。
磐梯町は水の郷でもあるのですが、資料館には名水百選に選定されている磐梯西山麓湧水群の龍ヶ沢湧水が流れていた。
そこへ何人かが、大量のペットボトルを持って汲んで持ち帰ってたたけどいいのかなぁ。
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イベント2.jpg
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パンフ3.jpgパンフ4.jpg
伊達政宗の会津支配は長くはないです。
摺上原合戦後、蘆名義広が逃げた後の黒川城(会津若松)に入城したのが天正17年6月11日。
政宗が若松市本町の小館で実母に毒殺されかけ、危うく一命を取り留めたのが翌18年4月5日。
相州小田原城を囲む秀吉への謁見にギリギリ間に合って首が繋がったのが同年6月5日。
太閤秀吉が背炙り峠を越えて会津に入ったのが8月9日。
政宗の会津支配は僅か1年足らずで終わる。その間に政宗公の名誉の為に言うと、慧日寺を焼いてしまった同年、伊達氏より常世、三橋、竹屋の内、百貫文を慧日寺に寄付されたともあるが、焼け石に水だろう。
https://i2sato.net/garan/enichi.html
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喜連川の風 [隠れ郷土史]

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つづら折りの坂を登っている途中で気づいた。
変だな。これホントに城塞跡か?
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私也に山城や丘城の散策に多少慣れているので、舗装されている坂道、人工で均した法面が不自然なのです。
「オカシイ、何かヘンだ」
違和感を抱えたまま歩いた。途中にジャン妻を休ませて私だけその先を見に行ったら、
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その先は鉄柵で封じられていたのです。その向こうは草ぼうぼうのように見えた。
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坂を下ってジャン妻に報告。
「引き返そう。行き止まりになっていた」
「へんね。グーグルマップを見ると」
確かにこの山が喜連川城(大蔵ヶ崎城)と表示されているのだが。
白いつづら折りの道を無駄に歩いてしまった。
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この辺り一帯は、公園化するのか、緊急避難場所にする途中で工事放棄されたかのような印象を受けた。
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今いる場所は、栃木県さくら市、喜連川というところです。
この地に来たきっかけはこの本です。
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「オモシロいけど軽いね」(ジャン妻)
確かに軽い。軽くてあまり記憶に残らないのだ。主人公が丸投げの家老から無理難題を押し付けられて奔走してばかりいる。読んでてイライラする箇所もある。
舞台は喜連川藩ですが、そこは藩だけど1万石の半分しかない5000石です。5000石なら家臣も200人に足らないだろう。
そんな小さい領主の居城にしては大き過ぎるのだ。しかも地形が漠として掴めないし、何よりこの中途半端な工事は何なんだ?
「戻ろう」
ここまで来たつづら折の坂を戻った。
「案内板は何でないのかな?」(ジャン妻)
グーグルマップには表示されるが、そういうものが無いのである。上り口が違うのだろうか。
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形状が分かりにくいのには理由がありました。この山には喜連川氏が入る前に塩谷氏という名族がいたのですが、平成23年(2011年)3月11日の大震災で城内に700mにも及ぶデカい亀裂が生じ、9月22日の台風15号で大規模な土砂崩れが発生して土砂1万m3が流出、麓の民家を巻き込む被害が起きたそうです。その後補強工事がされたが、現在は山上は立ち入りできないといっていい。遺構も崩壊しただろう。
下野新聞から転載です。
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でも私らが読んだ文庫本の世界はこの丘にいた中世の塩谷氏ではないですが、後年幕藩体制が落ち着いてからの喜連川藩です。喜連川藩主はこの地を統治するのに、こんな丘城ではなく陣屋規模の政庁にいたと思う。おそらくその陣屋、政庁は丘の麓、平地にあったのではないかと考え直した。
喜連川藩の名残を探すことにした。まず麓の細い道を歩いたら垣根があった。寒竹囲いというそうです。
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説明版にはこうある。
『この寒竹囲いとは、喜連川公方第六代城主茂氏公が、藩士の宅地を囲むのに板塀などでは製作保繕が大変なので、笹の密植するのを利用して、これを生垣として推奨しました。
この生垣を鼈甲垣ともいいます。』
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この説明で初めて喜連川という名前を見た。
喜連川公方6代城主茂氏公とあります。
「茂氏の治世のもと、喜連川藩は一度も盗賊が現れず、夜も戸締りの必要なし」そうまで謳われだというが、喜連川公方とは如何に?
確かに公方様の系譜ではあるが、徳川幕藩体制下でそう呼んでいいのかな。
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用水路が流れていた。ドブ川じゃないです。キレイな水です。
水路は民家の入り口を堀のように巡って悠々流れていた。各家々の敷地に入る為、堀を渡る橋が設けられている。
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説明板から、
『御用掘(ごようほり)
喜連川藩十代藩主、喜連川熙氏(ひろうじ)は領民思いの名君として知られ、藩の財政建て直しや領民の暮らしや教育に熱心に取り組み、鍛冶ケ沢の開墾や藩校「翰林館」などを開きました。
特に飢饉や大火から領民を守るため町中どこでも用水が使えるよう生活用水の確保に気を配り、一八四ニ年(天保十三年)、町を挟む両河川(内川・荒川)から町内に水を引き入れる用水堀を開削し生活用水、灌漑用水・防火用水として利用したほか、数十町歩の新田を開拓するなど藩財政にも潤いをもたらしました。
御用堀には内川筋の西河原堰から取水し殿町・本町を貫流するものと、荒川筋野辺山堰から取水し西町・下町を貫流するもの、そして横町・本町・日野町を貫流するものとがあります。
この御用堀は通称、横町堀と呼ばれ、町民の生活用水に使われておりますが、平成二年度誇れるまちづくり事業で一部修景工事を施工し、鯉を放流し、やすらぎの散歩道として整備したものです。
平成三年三月 さくら市・誇れるまちづくり委員会』
喜連川熙氏公が文庫本の時代の藩主でした。
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なるほど堀に面して休憩場も設けられている。
デカい鯉が泳いでいて、堀から鯉が逃げ出さないように柵で仕切られていた。
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「これはゴミを取り除く機械みたいね」(ジャン妻)
御用堀4ゴミを除く機械1.jpg
御用堀5ゴミを除く機械2.jpg
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その先に喜連川神社があった。城下散策中に説明版が欲しい時は、近隣の神社仏閣を見れば庇護した領主や創建した由来がわかる時があります。
中世の豪族は一族兄弟の誰かを仏門に関わらせる場合があるからね。これは神社だけど。
でも薄暗い境内にあったのはこれだけ。
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神社の境内から東を見下ろしてみたら、アヤしい建物があった。
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もしかして喜連川藩の陣屋はあれか?
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役場の敷地内の門、イコールこの地に陣屋があったのを証明するものでした。
でも喜連川藩、喜連川家そのものについては全く触れてないので、独自に調べたものを書き連ねます。喜連川家は足利尊氏の次男、足利基氏(鎌倉公方)が祖です。室町時代から中世の関東は、鎌倉公方の流れで古河公方、それに叛旗を翻して独立した小弓公方、それらに結城氏、千葉氏、真里谷氏、安房里見氏、そして伊豆や相州から小田原北条氏が侵攻して来るし、関東管領家他も絡んで騒乱ばっかり。その過程は大変ヤヤコシイので割愛しますが。
さきほど私が「変だな?」と思って登城を途中で断念した丘は蔵ヶ崎城(倉ヶ崎城とも)喜連川城という城塞が確かにあってそこには塩谷氏という名族がいた。古河公方に叛旗を起こした小弓公方の当主である足利義明の次女がその塩谷氏に嫁いでいたのです。
その女性は天正18年(1590年)8月、小田原北条氏を滅亡させた太閤秀吉の側室になったそうです。月桂院といいます。たくさんいた秀吉の側室たちのなかで、最も家格が高かった女性がこれ。

イヤらしい想像をすれば、おそらく月桂院は閨で秀吉に実家である小弓公方系の足利家の再興、救済を直訴嘆願したんじゃないかなと。月桂院の弟に足利国朝という人がいたのと、最後の古河公方だった足利義氏の娘、足利氏姫(ウジヒメ)というおんな大名?がいて、弟の国朝と娶合わすことで鎌倉公方系の足利家が喜連川家として復活したのが天正19年(1591年)のこと。
でも知行は少ない。喜連川で3500石だけです。

足利氏姫、いい名前ですね。氏姫の母は小田原北条氏康の娘だそうです。氏康の外孫ですね。氏姫も古河公方直系として相応の知行を持っていたようだが、その殆どを秀吉に召し上げられています。
氏姫本人は、足利家を復興させる為とはいえ、無理に夫にさせられた足利国朝が自分の実家である古河公方家に叛旗を翻した小弓公方系なのがオモシロくなかったらしく、婚姻を受け入れたものの生涯ここ喜連川には来なかったそうです。古河公方直系の意地を見せて古河で暮らした。月桂院に対して「余計なことを」と含んだかも知れない。
これがドラマ仕立てなら月桂院自ら氏姫を説得する場面が描かれるだろう。名門足利家を残す為に秀吉に身を委ねた月桂院が「謀叛人の系譜に我が身を・・・」意地を張る氏姫をどう説得したのか、双方一掬の涙無きを得ない気もする。
でも2人ともなかなか気骨のある女性とみた。

だけど喜連川で夫と共に暮らさなければ後継ぎもできない。夫である国朝が死去すると、その弟の頼氏と再婚、さすがに一子、義親を産んだが、この義親も母に倣って喜連川に入らず古河にいたという。この辺りが史料によって、喜連川藩主代々が一代ずれたりする要因にもなっているようだ。
頼氏は関ケ原には参戦しなかったが、参戦したらしたで足利の紋が関ケ原に翻るわけで何かと目立っただろう。参戦しない代わり戦勝祝賀の使節を送ったので4500石に加増されている。たった1000石の加増、僅か1000石の加増でしかない。

再婚して生まれた義親の嫡男、尊信という人が幕命で喜連川藩を継ぎ、ここでようやく藩主として喜連川に住むようになる。でも山の上にあったらしい喜連川城(蔵ヶ崎城)ではなく、麓の役場のあるこの辺りにいた。
尊信、尊の字がつきましたね。ところがこの尊信の代に、僅か4500石の中から微禄を食む200人前後の家臣団が2派に分かれていがみあって騒動が起きています。おそらく根底には家臣団の中にも古河公方系と小弓公方系に分かれ、根深い何かがあったのではないか。
私らが読んだ文庫本では藩主は喜連川煕氏の時代です。なかなか話のわかる名君、品のある公方様、でも苦労を知らない、そのように描かれていて読んでる分には心地よいが。
数としては200人足らずの家臣団なんだから、ひとりひとりの顔が見えていないとね。

喜連川藩の知行地は領内16村しかない。石高格だと5000石近い大身旗本だが、表高家でもあり、後年には諸侯の扱いになっている。
家格は10万石、江戸城では大広間に入れる国主格、大名格だが参勤交代は免除、賦役も免除、無位無官だが佐馬頭や佐兵衛督を名乗って良い、御所様、公方様と名乗って構わない特異な存在だった。
正式に官位を与えないのはもとの祖が足利幕府に行きつくからであり、大邦を与えないのは、勢力や影響力拡大を恐れたのだろう。
徳川氏が清和源氏の新田氏の流れ、子孫というのがそもそも疑わしいのに、幕府のある江戸からそう遠くない喜連川に足利家の本当の系譜を置いておくことで「足利家を大事にしていますよ」という政治的配慮である。「何もしなくていいからそこにいればいい」なのだろう。所用も無いのに江戸城に登城され、控えの間で他の大名たちに先祖自慢でもされたら幕閣が困るのではないか。
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だけど何処にも藩、陣屋の詳しい解説が無いのだ。
菩提寺に行けばあるのかも知れないが、時間が迫っている。
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歩いてくるまを停めた場所まで戻るところ。
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いい風情です。家の前に水路が流れる音、風景っていいですね。
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喜連川氏は幕末まで存続し、維新後は足利姓に復して華族になっている。
それと現代、喜連川というとJR通勤電車の中釣り広告を見た人も多いでしょう。
例えばこんな広告。(別に私はこの系列の回し者ではない。)
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でも住むとしたらくるまは必須です。施設からはこれだけ離れていますから。
喜連川庁舎3.9km
街の駅3.3km
JR氏家駅12.6km
喜連川小学校3.8km
喜連川中学校3.1km
喜連川児童センター3.8km
市立わくわく保育園3.8km
喜連川図書館3.9km
喜連川郵便局3.9km
市営露天風呂3.5km
道の駅きつれがわ4.6km
シーパーオオタニ4.4km
ホームセンターコメリ4.5km

各家々に温泉が引かれ、東京まで通うアクセスがいいと謳っていますが、それだけじゃぁなぁ。
JR宇都宮線、JR東北新幹線を乗り継ぐのって大変だと思うけど。
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若獅子神社にあるもの [隠れ郷土史]

富士宮市内に入ったら、助手席にいるジャン妻が訝し気な表情になった。
また何処かへ連れて行かれるのかと。この人(私のこと)の趣味には付き合いきれないとカオに出ている。
市の郊外から北へ、償還満期となり無料開放された139号線(現在も自動車専用道路らしい)の坂道を快走、白糸の滝の最寄ICでもある上井出ICで下りて右へ。
曇り空、あまり明るくない風景の中を走り、これを目印に滑り込んだ。
これが目印.jpg
門跡か?1.jpg
駐車場一画に停めたが、
「行ってらっしゃい」
「付き合え」
「アタシはくるまの中にいる」
「見せたいものがあるのだ」
会津の七下り観音の時もそうだった。坂道はヤダとか、足場が悪くぬかるんでるからヤダとか言うんです。でもここは近代に開かれた神社の境内だよ。足場は整備されています。
不承不承降り立った。
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この辺り一帯の地図を見ます。構内図とある。
とある神社だけ単独で存在するのかと思ってきたのですが、陸軍少年戦車兵学校跡地だという。広大な敷地跡の一画にいます。
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ガス発生室とは何だ?
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門柱があった。
こういう門柱や境界を示す杭、そういうのも近代の遺構といっていい。
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今日のネタはあまり私のカテゴリに無い近代の戦争遺構です。
この陸軍少年戦車学校跡地は千葉県にあった千葉陸軍戦車兵学校内にあった少年戦車兵学校が昭和17年(1942年)にこの地に移転してきたものだそうです。
坪数約30万坪、敷地内に校舎、集会所、軍需工場、車庫、弾薬庫、実験室等があった。実弾演習場は朝霧高原一帯で行われた。
昭和20年(1945年)8月、終戦とともに全員が休暇になり、10月に米軍へ引き渡されて廃校になった。解散したのだと思う。
生徒は第1期生から7期生まで
第1期生150名
第2期生230名
第3期生500名
第4期生600名
第5期生900名
第6期生700名
第7期生550名
他、幹部候補生525名、
現在、跡地周辺はこんな感じ、家々も散見され、自家菜園なのか私有地なのかよくわからない。
兵学校跡地3.jpg
兵学校跡地4.jpg
兵学校跡地5.jpg

兵学校跡の碑1.jpg
碑がありました。この碑の左向こうに赤錆びた何かが鎮座しているのが見えます。
兵学校跡の碑2.jpg
「何あれ?」
何だ?いつもは私の散策につまらなそうについてくるジャン妻の目がアヤしく光ったぞ。それを見せたかったのだがここは神社です。まずお参りをしましょう。
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若獅子神社といいます。
陸軍少年戦車兵の教官や生徒600有余名を祭神として祀ってある。
この神社は近年のもので、昭和40年創建だそうです。HPその他から由来を転記します。
『若獅子神社は、先の大東亜戦争において若獅子の名のもとに勇戦奮闘悠久の大義に殉じた陸軍少年戦車兵の教官・生徒六百有余の御霊を御祭神として永久祭祀の途を拓くため昭和59年10月神社を創建しました。
今、英霊は、この地に還り守護神として我が国の平和と弥栄を希い、氏子崇敬者の平和と繁栄をひたすらお守りしておられます。特に御祭神は、交通安全・学業成就・産業新興の神様として特別の御神徳をそなえておられます。
昭和40年12月、学校跡のこの地に戦没同窓生の慰霊・顕彰のため、若獅子の塔を建立したのを起源とし、以来毎年慰霊祭を執り行い、英霊の奉慰・奉顕に務め、建塔20年を期に富士山本宮浅間大社・靖国神社の御教導により、永久平和への祈りをこめ神社造営を発起顕彰会々員729名の奉賛によって若獅子神社が創建されました。
若き情熱に燃え、純真一途に国難に赴き、勇猛果敢な活躍を遂げた少年戦車兵の愛称であった「若獅子」を神社の称号といたしました。』

『美しい我が国の象徴、千古に仰ぐ霊峰富士の麓、この地こそ日華事変・大東亜戦争を通じ若獅子の名のもとに活躍した陸軍少年戦車兵揺藍の地であり、又その魂のふるさとである。
日本陸軍はノモンハン事変後、近代戦の中核である戦車隊の拡充強化を図るため、昭和14年12月千葉陸軍戦車学校に生徒隊を設け、少年戦車兵を教育した。
爾来戦局の熾烈なるに伴い、昭和17年8月この地に陸軍少年戦車兵学校を移し、本格的な養成が行われた。
想えば7年の短い歴史の中に四千四百余の紅顔の少年が若き情熱に燃え、朝夕富士を仰ぎ、心身を錬え学業を修め、戦車を駆使してひたすら猛訓練に励み、国軍の中堅幹部として勇躍この地を巣立っていった。
そして大陸の曠野に、南海の島々に、或いは北辺の草原に勇戦奮斗し、赫々たる武勲を誇ったのであるが、六百余の友は祖国の平和と繁栄を念じつつ莞爾として悠々の大義に殉じたのである。
戦火おさまって20年、いま秋風蕭場たるこの地に立ちて、往時を偲び亡き友を追慕するとき、万感胸に溢るるを禁じ得ないのである。
その御霊を慰め、殉国の至誠と輝ける偉勲を永く後世に伝え、併せて真の平和を祈念し、われら同窓生相はかり、なお数多くの御賛同と御支援により、ここに若獅子の塔を建立する。
昭和40年12月1日 陸軍少年戦車兵学校同窓生一同』
神社2.jpg
年配のご夫婦?が境内を掃いておった。
この神社を管理する関係者の方でしょうかね。
神社3.jpg
そしてサイパンから故国に帰還した戦車を見ます。
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帰還戦車2.jpg

帰還戦車4横から.jpg
帰還戦車5無限軌道1.jpg
帰還戦車6無限軌道2.jpg
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戦車は満身赤錆、無数の弾痕に抉られている。貫通した痕も?
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帰還戦車9弾痕2.jpg
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主軸も割れて砕け、無限軌道は外れ、見るからに痛々しい限りだが、見慣れて来ると神々しさを感じた。
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戦車の性能が記されている。
全長5.55m
全幅2.33m
全高2.23m
重量15t
懸架方式 独立懸架、及び、シーソー式連動懸架とあったが、何のことかよくわからない。
速度38km/h
行動距離210km
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私に向いている主砲は97式57mm砲
赤錆びて動かないと分かっていても、銃口がこっちを向いているとギョッとする。凄みがある。
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副武装7.7mm機銃×2
装甲25mm
エンジン4ストロークV型12気筒
空冷ディーゼル
170馬力
乗員4名
九七式戦車解説.jpg
この戦車はサイパンで港湾工事の際に地中に埋まっていて発見され、生存者の方の多大な尽力の結果、祖国へ帰還を果たした。
発掘時に戦車内部から軍刀二振りとご遺骨が回収され、その後の鑑定調査で身元が判明、ご遺族に返還された。戦車内にいたのはもちろん少年兵です。幾つだったのだろう。
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見ての通りです。これだけ凄みがあると私なんかの稚拙な文体力では表現しきれない。戦車がものを言うとしたら「お前はこの俺を見てどう思うのだ。どう書くのだ。表現できるなら書いてみろ」挑まれてるような気がしたよ。
仲間の戦車がもう1輌あるそうです。これも帰還生の尽力で現在は靖国神社の遊就館に修復展示されているとか。
戦争遺構というものは近代のものなので、中世の遺構と違ってその筋や関係者が記した解説の方が遥かにリアリティがあり、戦争を知らない世代の私などの追従や文筆を許さないものがある。この戦車の由来も転記します。
帰還戦車由来1.jpg
『かつての大戦において陸戦の華、少年戦車兵とともに活躍した機甲部隊の主力に九七式中戦車(チハ車)がありました。
この戦車は、もっとも熾烈をきわめた玉砕の島サイパンにて四十余命の少年戦車兵とともに、勇戦奮闘、祖国の礎となり、戦後30年土中深く無縁をかこっていましたが、このたび一有志の悲願がかない、この母なる地に還り、安置したのであります。
無数の弾痕は戦争の激しさを訴え、満身の赤錆は戦いの空しさを語り、平和の尊さを教えています。ここに若獅子の御霊とともに永く平和の道標として顕彰されんことを希うものであります。
昭和50年(1975)10月吉日』
帰還戦車由来2.jpg
第7期生は昭和20年3月入学して8月に終戦を迎えて復員していますが、それより前の卒業生たちは戦地に出ています。
在学年数は2年制だったが、戦況が悪化すると繰り上げ卒業して戦地に向かった。それだけ戦況が逼迫して、戦闘員数が不足してきたのだろう。
もちろん犠牲も大きく、第5期生は11ヵ月で繰り上げ卒業され、270名がフィリピン戦、沖縄戦に臨む為昭和19年11月に門司港を出港したが、五島列島沖、済州島沖で撃沈され多くが船と運命を共にした。
ルソン島では昭和20年4月に「戦車特攻」まで行われたという。
酷いものだ。あたら紅顔の少年兵を。
帰還戦車20振り返る.jpg
滞在時間にしては15分程度、ジャン妻が興味津々に見ているのが意外だった。神社内には史料が収められているそうですが博物館ではありません。兵学校の遺構としては、この他にも後世になってから酪農施設や学校校舎等に転用された遺構がまだまだあるらしいです。
私らが敷地を出た後に千葉ナンバーのくるまが1台(運転席に男性、助手席に女性)が敷地内に入ってきましたね。
私らがくるまに戻る途中、さっき登場した敷地内を清掃していたご夫婦が私のくるまのナンバーを見たのか、
「遠いところからご苦労さまです」
深々と頭を下げられちゃったんですよ。
「アナタ右翼と間違われたんじゃないの?」
「???」
私は右派、左派、どちらでもないですよ。
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真田伊賀守の暴政 [隠れ郷土史]

嬬恋村から東吾妻まで戻ってきたら、車窓右手にこんな看板が。
見た最初は旅館か料理屋の看板かと思ったのですが、よく見ると、
何か禍々しいものが2.jpg
池廼薬師堂水牢??
水牢??
何か禍々しいものが1.jpg
池廼はいけのやと読みます。35号線県道、渋川東吾妻線、新巻交差点を山に分け入った先にあります。
何の為のものかすぐにわかりましたよ。水牢とは拷問の一種でしょう。そういうのを作るのは昔の治世者の誰かで大概は暴君と決まっているよね。
雨でジメジメした山間の一画にそれはあった。
水牢1.jpg
水牢の解説.jpg
湿気と光量不足で写真がボケてますが。
『池の薬師水牢の跡
薬師堂の山瑞の軟石を掘った古池跡が、真田伊賀守による苛政を物語る「水牢」の跡と伝えられている。
水牢とは6間(約10.8m)四方を掘り下げ深さ2尺(約60cm)ほど水をため、周囲に塀をめぐらし木戸を立てた牢屋。
当時の沼田藩主の重税は苛烈を極め旧暦12月の年貢上納に際して、刑罰として年貢未納の農家の妻子を4、5人ずつ縄で縛って水牢に投獄し、寒中の水の中に立たせたと伝えられている。
投獄された家の者は見るに堪えず、一族から金子(きんす)を集め、またある者は田畑を処分して年貢を済ませ妻子を救い出したと伝えられる。
この水牢は天和元年(1681年)8月11日、山崩れによって埋没したが、その一部は現在まで歴史の証言者としてその姿を今に伝えています。』

こんなものを作らせた暴君がいたらしい。真田伊賀守信利、沼田藩五代藩主、あの真田信之の直系です。苛政を敷いて領民に重税を課し未納者をこれに放り込んで虐めたの。
触ってみた。冷たい水です。飲めるかもしれない。
これが水牢である.jpg
見るからに池ですが、後で掘り起こして修復したのか。おの水の中に旧暦12月、寒い時期に。低体温症で命を落とすでしょう。
滑った太鼓橋.jpg
池に架かっている太鼓橋、これ、雨に革靴だと滑ります。転倒して尻餅つきました。アタマを討たなかったが、後で見たら左手首に少し痣が。
服の後処理も大変で、冷たい水で拭いて、後でホテルの部屋で洗ったもの。その後クリーニングに出して何とかなりましたが。
転んだのは領民に祟られたかと思った。伊賀守め。
水牢の絵.jpg
真田伊賀守信利が暴君になったのには理由(わけ)があります。
でも本人のエゴでもあり嫉妬だな。
一応、流れを検証してみる。

真田昌幸の長男、真田信之、ご存じですよね。
昌幸は主家武田家が滅ぶ前から信濃路から吾妻郡へ侵攻して、最終的には小田原北条氏と接する沼田まで進出します。主家を転々と変えながら真田家単独での勢力を維持する為にいろんなあざとい手を使ったようですが。
その嫡男信之(信幸→信之)は本多忠勝の娘で家康の養女として嫁いだ小松姫と婚姻したので、徳川氏の与力大名の位置づけだが、真田昌幸と次男、信繁は独立大名で豊家の家臣、真田家は上田城の昌幸と沼田城の信之の2家体制になる。

関ケ原戦後、真田昌幸と信繁は紀州九度山に流刑になっても上田の所領は東軍についた長男、信之に継承された。信之は沼田領と上田領併せて9万5000石を知行することになる。
問題はその後である。

元和2年(1616年)真田信之は沼田から上田に移り、沼田領3万石は長男の信吉に任せた。問題の伊賀守信利はこの信吉の子なのですが。
元和8年(1622年)真田信之は松代藩13万石へ加増転封となったが、沼田領は引き続き信吉の所領として残された。
上田藩→松代藩の系譜が本藩だから、真田昌幸があれだけ執着した沼田藩は支藩の位置づけになった感がある。

寛永11年(1643年)沼田藩を預かる真田信吉が死去、ここからがややこしい。(信之はまだ生きています。)
信吉の長男、熊之助という人が沼田藩三代藩主として相続したのですが、僅か4歳なので叔父の信政(信之の次男)が後見人になります。
信政という人は、父信之の松代藩転封の際に松代領内で1万7000石を分知され、小さいながらも大名に列していた。松代藩から沼田藩に出向?して後見したのだろうか。
ところが熊之助は寛永15年(1638年)11月6日に7歳で夭折、嗣子がいるわけないのでその跡は後見人だった叔父、信政がそのまま継いだ。松代藩内で貰っていた1万7000石を弟に譲って沼田藩3万石を継承したのが寛永16年(1639年)で、ここで暴君・伊賀守信利が登場する。信利は夭折した熊之助の異母弟なのです。沼田領3万石のうち5000石が信利に与えられる。
ここで最初に含んだかもしれない。自分が沼田藩正統の継承者なのに僅か5000石の分知だけかよと。

真田信之はまだ生きています。この人は当時では珍しく長生きした人ですが、なかなか隠居しなかった人(隠居が許されなかった?)で、明暦2年(1656年)にようやく隠居した。信政は沼田藩を継承してから17年経ってようやく松代藩の家督をゴッソリ相続した
でもわずか2年で死去しています。臨終前に父、信之の長命を恨んだかもしれない。
問題の暴君・真田伊賀守信利はこのタイミングで沼田藩主になる。信政が松代藩に戻ってそこの藩主に収まったからです。でもあっち(松代)は13万石、こっち(沼田)は3万石、4分の1かよと思ったのは想像に難くない。
水牢3.jpg
信政の子供たちもいろいろあって後継者候補から外され、六男の幸道が松代藩を継ぐのですが、これに真田伊賀守信利は遠く離れた沼田藩からブツクサ異議を申したてている。信吉系の次男である自分が相続に相応しいと。そうだろうか?ちょっと無理があるような気がするが。でもますます信利の胸中に、松代藩へのライバル意識、格差意識が強くなる。

要は松代藩、沼田藩、この2家体制が「噂の現場」の元凶なのですが、この伊賀守信利のエゴをモロに喰らったのが沼田藩の領民たち。水牢はその副産物といっていい。
伊賀守信利は松代藩に対抗して領内の検地を断行し、公称3万石の小藩のクセに5倍近い石高14万4000石という予算を弾き出して幕府に報告した。牛丼でいうメガ盛りだが、牛丼は実際に盛ってあるからいい。14万4000石は全くの虚構である。
無い袖なのに公の石高をカサ上げした以上、相応の家格にしなくてはならない。例えば参勤交代の人数とか、江戸藩邸の改装とか。
現在、ツマんない公園になっている沼田城には五層の天守閣があったといいます。それも人民の膏血を搾り取ったものから築いたといっていい。あの時代、江戸城以外に関東にそんな高層天守閣がある城って他にあっただろうか。

そして重税に苦しんだ領民の代表者が江戸幕閣に直訴、上毛カルタにある「天下の義人茂左衛門」がこれですが、それは伊賀守の意趣とは別に時の幕閣が松代、沼田、両真田家の財政に目をつけて困窮させようといろいろお手伝い(普請)を命じたせいでもある。延宝8年(1680年)、伊賀守信利は江戸両国橋改修の為の木材調達を命ぜられたが、台風で利根川、片品川が氾濫して用材が流出、翌天和元年(1681年)10月の納入期日に間に合わなかった。
この一件と前述の上毛カルタ「天下の義人茂左衛門」が訴えたので同年11月、沼田藩は取り潰される。伊賀守は改易された。理由は材木の納期遅滞と治世不良です。伊賀守信利は山形藩奥平家の預かりになり、奥平家が宇都宮に転封になってからそこで死去した。
沼田藩取り潰しの挿話は元禄繚乱第一話で取り上げられた。伊賀守を演じたのは草薙良一さん。
徳川綱吉の苛烈さと、伊豆守の嫡男信音が播州赤穂藩に預けられたから取り上げられたのだろう。
丘の上から見下ろす1.jpg
伊賀守信利が1656年~1680年まで24年も治世したからには、その間に何かいいこともしたかもしれないが、こういう水牢なんて禍々しいものを見てしまうと暴君としか思えない。やらなきゃいいことをやらかしたから恨まれたのだ。
水牢2.jpg
往時の年貢は個人で納めるのではなく、その村、あるいは組の連帯責任で納めさせた筈。未納だった農民を水牢に放り込む前に、村長(ムラオサ)が責任を取らされるのではないかな。
水牢跡は東吾妻に9ヶ所あるそうです。そんなにあるのか。知られているのはここ池廼薬師堂の水牢と、中之条にある「桃瀬の水牢」だそうです。

で、伊賀守がいた沼田城へ。
沼田城は公園化されていて旧形態がどのようだったかわからなくなっていた。
下山で美しい蕎麦を喰らってから県道を南下してナビに従ってきたら、六連銭の赤い幟がパタパタはためいていて、そこにある広大な公園がそうだったのである。
六文銭の幟1.jpg
公園一帯の案内板表題には沼田公園(城跡)城をカッコ書きで示してあり、沼田城を買い取った元藩士久米民之助像、歌碑、寿楽園碑、生方たつゑ歌碑、旧生方家住宅、記念資料館、武道場、体育館、天狗堂、村上鬼城句碑、真田昌幸の謀略で註された沼田平八郎首石、御殿桜、鐘楼、金子刀句碑、沼田の歌歌碑、英霊殿、テニスコート、野球場、遊園地、ゲートボール場といった壊変後に作られたものばかりで、城の縄張りや遺構を示す案内は殆ど無いといっていい。
ぺったんこで低い土塁のようなもの??
ぺったんこの土塁跡1.jpg
ぺったんこの土塁跡2.jpg
ぺったんこの土塁跡3.jpg
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これなんかまだいい方です。
まぁまぁの土塁跡.jpg
本丸堀、幅10m、長さ20m分ほどで、これの脇にもテニスコートやグランドができている。
本丸堀跡1.jpg
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要の本丸にしたってこの程度です。それでいて往時の全体図を大雑把に掲示してあり、他は花壇、広場、木々、花壇、ミニ動物園、退屈このうえない。
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天守跡は見つからなかった。あくまで推定だそうである。例の伊賀守が造った五層の天守なので、それを写真に収めて完結したかったのだが。
無駄に歩いて汗だくになったが、沼田城といえば必ず載っている西櫓台石垣がこれ。
西櫓台石垣2.jpg
西櫓台石垣3.jpg
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こっちの方が往時に近いような。
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発掘して修復した感がアリアリだが、こっちの方が見て安心したりする。
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捨曲輪とあるが、捨てる曲輪にしては広いな。敵を誘い込んで捨てて、周囲が反撃、殲滅できる縄張りになっていたのかどうか。
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小田原北条氏と豊家が手切れになった名胡桃城方面を望む。目と鼻の先です。
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捨曲輪には平八石というのがあって、真田昌幸から「お前を必ず城主にしてやるからな」と騙されて討ち取られた沼田平八景義の首実検の石だが、首は胴体のある場所までピューッと飛んでいった??

ボヤけて輪郭がわからないので、沼田城を見に来た城者は必然的にアイフォン、スマホで自分が今いる位置を確認しながら、沼田城本丸跡(Googleマップだと2か所表示される)、西櫓台跡石垣、大手門沓石、捨曲輪跡、真田信之と小松姫の石像、天守跡推定地、それらを探し回るしかないのです。
実際、公園内でアイフォンで位置を確認しながら首を傾げている人が2人か3人いて、ぐるぐる回って歩き回っていたら何回も再会する始末である。そのカオに、表情に「よっくわかんない城跡ねぇ」と如実に出ているのだ。
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有名だが、退屈極まりない城跡だが、かろうじて、この辺りは堂々と沼田城を掲げている。(沼田市観光協会、案内所の辺り)
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開設版に真田伊賀守が改易され、城は幕府の命によって破却された旨が記載してあるぞ。
だが伊豆守が何をやらかして改易になったかは書いてなかった。
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領地を没収され.jpg
朽ちかけた三の丸土塁は選挙ポスターの土台になっているし。
三の丸土塁2.jpg
くるまはこのMAPでいうところの沼田公園桜まつり側のパーキングに停めましたが、そこから歩くと、ホントにここは沼田城なのか?疑念にかられ、延々と莫大な距離を歩かないと見れません。
道がややこしいですが、公園の中央を突き抜けている道に沿って、観光協会側のパーキングに停めた方が散策効率がいいです。
沼田城.jpg
六文銭の幟2.jpg
沼田市が「真田の里」を謳うのもいいし、真田丸に便乗してか、関連する史跡の整備が進められたのも頷ける。でもその陰には目立たないけどああいう水牢とか、石高のカサ上げとか、詳しく書きませんでしたが上毛カルタ「天下の義人茂左衛門」とか、施政者が領民を苦しめた時代があったのです。それでも沼田城には真田六連銭の幟がパタパタはためいているのに違和感を覚えてしまった。
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羽根尾城 羽尾氏の末路 [隠れ郷土史]

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鎌原城で述べた吾妻三国志、鎌原氏、羽尾氏、斎藤氏の中で羽尾氏のその後です。羽尾氏の羽根尾城に取りついたところです。
羽尾駅の少し先、406号線の道路沿いに「羽根尾城、海野長門守墓」案内する標柱があったのですが、そこからの道が狭くて断念、北側の西吾妻福祉病院からアクセスしてきたところ。
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406号線から草津温泉に向かう292号線に入ってしばらくすると、西吾妻病院入り口の大看板が見えます。その下に申し訳なさそうに羽根尾城への案内矢印がある。
病院は高台にある。羽尾城より高所にある。坂を登って病院内の敷地に入り、申し訳ないけど駐車場に停めさせていただいた。
南端に調剤薬局があって次の案内板は薬局の右手を歩いてすぐ先にある。
薬局の裏手にある山城ともいえる。
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そこから農道、作業道で、軽自動車なら入れそうだが。
やばいぞ。雨脚がやや強まってきたか。
いや、そうではないな。木々の葉っぱに雨が当たる音と、風が吹いて葉っぱから葉っぱに伝う雨雫の音が重なっているんだ。
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羽根尾城の案内表示は農道か作業道の途中に複数個所あるので、それに従って歩いて行けば迷わないのですが。
自分に迷いが生じた。雨が降っている。傘はあるが濡れる。ただでさえ訪城には向いていない青々した梅雨の時期なので、足元が滑る。
いざとなれば引き返すべきだな。
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堀切があった。その前に若干駐車スペースがある。
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軽か小型車ならこの場所までアクセスできるのがわかった。でもくるまで来なくてよかった。雨と木々で薄暗く、小型車切り返す際に脱輪でもしたらタイヘン。
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まだ矢印がある。弱そうなラバーの階段を上がったらそこは鉄塔が立っていて、そこからの矢印の先は草で埋もれているた。
ジャン妻のカオが浮かんだ。
「引き返しなさいっ!!」
撤退しました。そういう決断も必要です。
鉄塔を見上げる.jpg
矢印5だが・・・.jpg
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下山するとこ.jpg
弱々しい階段だな.jpg
途中で引き返す勇気を出して撤退したので、後日、余湖先生の鳥観図を見ると、
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小さい也にも吾妻の三雄、羽尾氏の本拠、羽根尾城に期待したのですが本拠に見えない。小さいです。小さ過ぎて烽火台か物見、監視場程度の小城だった。

城主と伝わる人で、羽尾幸全(ユキマサ)という人。
鎌原城で登場、万座温泉で湯治中に本拠を奪われたそそっかしい羽尾道雲とはどういう関係なのかわからない。
羽尾氏は滋野一族、海野氏の末裔なので、真田氏が自称するのと同族だったといっていい。だいたい真田幸隆が武田信虎&村上義清連合軍に敗れて小県郡を追われ、昔の同族の誼を頼って羽尾幸全の許に落ちてきた説があるのだ。いきなり箕輪城の長野業政まで頼れないと思う。誰かが中継ぎした筈だ。
でもドラマだとその辺は省略、割愛されても本筋に影響は無いじゃないですか。だから地方の(失礼)小豪族が登場しないのだ。
でもそうだとすると、真田幸隆は一緒に落ちてきた海野棟綱と袂を分かって武田家臣になる。後年、恩あった羽尾氏を追い落としたことになるのだ。

羽尾氏は吾妻川対岸の鎌原氏と境界を巡って小さい争いを継続していた。これを書いてて気がついたのですが、岩櫃の斎藤氏はともかく、真田氏も羽尾氏も鎌原氏ももとは同じ滋野一族、海野氏の子孫だというのだよ。
真田幸隆は武田信玄の意向もあって、鎌原幸重を庇護、吾妻郡攻略の尖兵となるのですが、かつて落ち延びて世話になった羽尾幸全が岩櫃の斎藤憲広側に付いたと知りどう思ったか。
羽尾、斎藤が鎌原城を攻め、鎌原幸重はいったんは信濃小県郡にへ逃れ、後日、真田幸隆の支援を得て鎌原城を奪回したのは述べた。真田幸隆は鎌原城の先、羽尾氏の領域にも侵攻する。この小さい羽根尾城、その先にある長野原城、吾妻川沿いの反武田の要衝を奪っていく。
幸隆は世話になった羽尾幸全を調略しなかったのだろうか。そうなる前に、長野原城に入れた真田幸隆の弟、常田隆永が、旧領を奪回しようと逆襲してきた斎藤憲広の軍に敗れ、長野原城が落城した際に討死にしている。
常田隆永(トキタ タカナガ)は橋本じゅんさんが演じていたな。
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真田は岩櫃城へ本気で攻めかかり、羽尾幸全の舎弟、海野幸光、輝幸の兄弟を内応させ、岩櫃城を手中に収めた。
まだその先がある。真田幸隆は沼田まで視野に入れている。内応した海野幸光、輝幸の兄弟は、真田幸隆と昌幸、2代に従って吾妻郡侵攻に合力している。
「豆を煎るには豆殻を持ってすべし」である。

長篠で武田軍が大敗したのが天正3年(1575年)、上の兄2人も戦死したので、武藤家に養子にいっていた喜平治、昌幸が真田本家を継ぐのだが。
武田家が滅ぶ天正10年(1582年)の前々年、1580年に昌幸は沼田城を手中に収める。羽尾の生き残り海野幸光は岩櫃城代、弟の海野輝幸は沼田城代に。
後日譚がある。通町のBAR、マスターに、沼田に行かれるならあの生蕎麦屋さんに是非とススメられたのでナビを頼りにやってきたのですが、途中の上発知材木町線という街道沿いにこんなものが。
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判読し難いですが、海野輝幸、幸貞の墓とある。
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解説板に書いてあるとおりです。真田家中に海野兄弟を妬む者がいて「海野は北条と通ずる」の讒言を信じた真田昌幸が、弟の真田信伊に命じて先ず幸光を急襲して討ち、輝幸は真田勢に追撃され、嫡男幸貞と刺し違えて自刃した。
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鎌原村、資料館の前にあった鎌原城、
ついでに寄った羽根尾城、
斎藤氏がいた岩櫃城は前に行ったし、
マトモな観光客はまず行かない点と点を繋いできましたが、羽根尾城、羽尾氏からの系譜である海野兄弟はここで終わった。
羽尾を妬んで讒言した者は誰か。滅んで得した者がいる筈だ。
斎藤氏はもういない。残る一族といえば?

私は昌幸は讒言を信じたというよりは、粛清か将来の禍根を断つ為、敢えてその讒言に乗ったと思っています。
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天明3年7月8日(旧暦) [隠れ郷土史]

自分が思うに、興味が無いのに中学高校で日本の歴史なんぞを学ぶのって意味あるのかなと。
学ぶのなら近代史からでいいと思うのだ。
むしろ、数学、英語、工学、商業過程とか。そういうのを学んだ方がいいと思った。
歴史や古文は趣味の世界でいい。好きなら覚えられるのだから。
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鎌原城で靴裏が泥だらけになったので、その辺りの濡れた草で靴裏を拭いてから妻恋村資料館に入った。
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館内は天明3年(1783年)の浅間山噴火で発生した吾妻土石流による鎌原村の埋没と、そこから出土したもの、そういう世界でした。
私は出土品ってあまり興味ないのね。そこで何が起こったのかを知るだけでいい。
受付、事務室に職員さんが3人か4人いて暇そう(失礼)に見えた。人件費多くね?って。
「2階でビデオ上映されているのでご覧になってくださいね~」
ビデオ観ました。都会にいたらまず知り得ない内容だった。
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日本史に興味が無くても、江戸時代の天明の大飢饉という災害を何となく覚えている方はいるでしょう。
それは飢餓民衆が喰うものなくて餓死者の人肉まで喰らった凄まじいイメージが残っているからだと思う。
この飢饉の説明の中では必ずといっていいほど浅間山が噴火したと記されている。浅間山の噴火のせいで火山灰が降灰して農作物が全滅したとか、火山ガスのせいで太陽の照りが少なくなり、農作物が少なくなったとか、そういうイメージを抱きがちだが。
実際はそう単純に浅間山の噴火だけが天明の飢饉の直接的な原因とは言い切れない。同年のの岩木山(青森県弘前市)が噴火、アイスランドのラキ、グリムスヴォント、並んだ2つの火山が長期噴火、火山ガスが成層圏まで達して粉塵が地球の北半分を覆った為ともいう。
浅間山が噴火ししたから天明の大飢饉に突入したというのではなく、浅間山の噴火は起こっていた飢饉に拍車をかけ事態を更に悪化させたのである。

天明年間、農作物が不作になり、東北では餓死者の肉を喰らい、疫病が流行り、農民が農村から逃げだして江戸や地方城下町に流れて治安が悪化、米価が高騰して江戸や大阪では米屋の打ち壊しに発展、米経済に依存していた幕府の屋台骨が揺らいでいく。時の老中、田沼意次が打ち出した商業主義改革の中に、温暖な地域で成長するイネを寒冷地に作付けしたので、上手く育たなかった失敗があったとも。

では天明3年、浅間山が噴火した時に現地で何が起きたのか。
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史料を基にかいつまんで述べます。私が今いる鎌原村は浅間山火口から北12kmにある。大噴火した日は旧暦で7月8日、噴火して押し寄せた土石流が時速100km(どうやって弾き出したのかこの数値?)で押し寄せて村全体が壊滅する。吾妻土石流といいます。
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土石流は吾妻川に流れ込み、その辺りで吾妻川を堰き止めて天然ダムになってから決壊、下流に大洪水を起こし、吾妻川沿いの村々を押し流し、その被害は利根川沿いから江戸川、銚子、江戸湾まで及んだのだがこの項では鎌原村の記載に留めます。村全体は5m~6mの土砂で埋まり、唯一この観音堂だけが残った。
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たまたま村外にいた者と観音堂に上って助かった者で生存者僅か93人、犠牲者は477人、477人の中には石段を駆け上がってくる途中で間に合わずに犠牲になった2名が含まれる。
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現在の鎌原観音堂には赤い太鼓橋が架かっていて、僅か15段の石段を登るだけで観音堂の前へ行けるが、登る前に太鼓橋の前で立ち止ってみる。
後年の発掘調査で石段は50段あった。現在現れている石段は下から数えて35~50段目なので、往時の入り口は35段下にあった。
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埋まっている11段目で前述の2名の遺体が発見された。折り重なっていた。足腰弱い母を背負って逃げた女性、母と娘と伝わる。
太鼓橋下を除いてみる。
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あと少しだったのに。
助かったかも知れないのに。
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石段を登ってみた。往時の階段なのでひとつひとつが小さいです。
観音堂の右隣に会館があって座敷の上にテーブルが置いてあり、爺さん2人婆さん2人がお茶を囲んで談笑しておった。集会場を兼ねているらしい。
観音堂周辺には廃れた売店跡が幾軒もあった。土産物を売る観光地にはなり損ねた感がある。
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鎌原村は火山灰で壊滅したので東洋のポンペイ、群馬のポンペイなどと呼ばれる。郷土資料館には当時の様子や絵図、発掘された出土品が展示してある。(撮影禁止です。)
がだがポンペイと決定的に違うのは、現在のポンペイは遺跡で居住者はいないそうだが、鎌原村は生存者が避難先で新生活を始めたのではなく、生き残った93人の住民が鎌原村にまた戻ってきて村を再建したことです。
その再建の仕方が凄い!!
観音堂石段見下ろす.jpg
でかける前にジャン母がこんなことを言っていた。
「また群馬に行くの?ホントに群馬でも会津でも山梨でも同じとこばかり行くのね。」
いいじゃねぇかよ。
「どこに行くの?」
嬬恋村へこれこれこういうのを見に行くと言ったら、
「お母さんが生まれる前だから明治の頃かしら。(実際はもっともっと前)栃木県のどっかで火山が噴火して、村が埋まって、そこの生き残った住民同士で夫婦をやり直したって聞いたわ」
栃木県と大きく勘違いしているが実はそれが鎌原村です。生き残った住民同士で血縁を築きなおしたといふのだ。
現地の史料にもビデオの紹介にもあったが、生存者たちが前途を悲観して離散しかかったところへ近隣村の有力者たち、大笹村の黒岩、千俣村の千川、大戸村の加部、3名の名主たちが世話役になり、廃墟になった鎌原村にまず2棟の小屋を設け、生存者を仮に住まわせた。
往時は武士階級は当然だが農民たちにも家筋や氏素性に拘り挨拶等でも差別があったのだが、前述の3名の名主たちは鎌原村の生存者93名に対して、「これだけの大災厄に見舞われても生き残ったのだから、互いに新しい一族、家族である」と諭し、農民内での身分、格差、血筋を取り払って互いに親族の宣誓をさせた。要は婚姻、養子縁組をして新たに纏めたのです。
夫を亡くした妻と妻を亡くした夫で再縁させる。
子を亡くした老人に親を亡くした子を養子にする。
大災害の数か月後の10月24日には早くも7組、12月23日には3組の祝言をあげているというから凄い。
幕府は10月に普請を開始している。田畑29町歩の再開発と、4287間(7800m)の道路普請、草津村からの普請従事、幕府の負担金850両、被災しなかった田畑4町5反や、その後の再開発田畑は93名に均等配分された。
幕閣の救済が早かったのは鎌原村は天領だったからではないだろうか。そこらの貧乏大名ではそうはいかないだろう。

現在の鎌原村です。住宅は天明の大噴火の頃から5m~6m高い筈。浅間山から押し出された土石の上に建っています。
現在の鎌原村1.jpg
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天明三年浅間やけ碑.jpg
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ウチの群馬の社員たちはこのネタを知らない子ばかりだった。
幾人か聞いてみたのですが「??」だった。
加えて地震や災害への緊迫度が薄い。群馬では地震が起きないと思っている。確かに少ないが。
雷銀座で大雨降って水位が上がっても川が氾濫した話はあまり聞かない。
もうすぐ各支店に配布した備蓄品、非常用食料の賞味期限切れが迫っている。これで2回めです。それらは廃棄稟議を上げて認可されたうえで、自家消費されていいことになっているのだが。
「東京と同じに考えられて配布されても。群馬って災害無いですよ」(笑ふ女)
「群馬は地震はないが、浅間山が噴火したらどーするっ」
「それっていつ噴火するんですか?ぶふふっ(笑)」
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このネタのタイミングで噴火??
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鎌原城 [隠れ郷土史]

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2014年、呟きⅡ後半で、上州岩櫃城の辺りをほっつき歩いたことがあります。
https://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-12-22
https://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-12-23
https://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-12-24
https://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-12-25
https://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-12-26
このどれかの本文中で、
『斎藤憲広が同じ吾妻郡内の豪族である羽根尾氏と鎌原氏の領地争いに介入したことで、両家の仲介に入っていた真田氏、武田氏の介入を招き、すったもんだの末に真田氏に攻められ、永禄6年(1563年)には家臣の内応もあって落城、憲行は越後に逃走した。斎藤氏の勢力は駆逐された。』
この中に登場する鎌原氏、カンバラと読みます。
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この作業路へ.jpg
鎌原城は嬬恋村強度資料館の向かいに案内表示があって、薄暗い作業路を谷戸に下りてまた上がって行きます。更に案内表示があって、矢印に従ってターンするのですが、
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泥だらけの路2.jpg
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舗装されているのに泥だらけの細い農道でした。連日の雨で畑から泥水が溢れて道そのものが川になった感がある。流れの痕があるのです。
下りて写真撮ったら数歩歩くだけで靴裏が泥だらけに。
そこから先は農道が延々続きます。嬬恋名物のキャベツ畑、そしてトウモロコシ畑を見ながら。
来た道を振り返る.jpg
追手口に駐車場があった。そこから本丸へは歩いてくださいとある。
追手口1.jpg
停める.jpg
駐車場にある解説板。
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辺り一帯広大な畑になっている。ほぼ平坦な地形ですね。
では二の丸、本丸を目指して歩きます。
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本丸へ2.jpg
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三の丸2.jpg
二の丸と三の丸を区切る箱型の堀切があった。
後世キレイで見やすい形に法面を直したのかもしれない。
堀切1.jpg
堀切2.jpg
堀切3.jpg
堀切4.jpg
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本丸が見えてきた。鉄塔が立っている。
歩いて気付いたのですが、三の丸からゆるい坂を下っている。三の丸の方が高い感がする。
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本丸の解説板他、振り返って二の丸、三の丸を遠望すると、やっぱり向こうの方が高い気がする。
城域内で本郭が最も高所にあるという定石に立つと妙な違和感を感じた。
三の丸遠望.jpg
領土拡張に貪欲な甲斐の武田晴信は、豊穣な上州も席捲せんと信州小県郡の真田幸隆に命じて上州に調略を伸ばすのですが、それ以前の吾妻郡は嬬恋の鎌原氏、羽根尾の羽尾氏、岩櫃の斎藤氏、他、国人たちが跋扈しており、狭い領土を奪われまいと小競り合いを繰り返していた。
大雑把に言って3人いた
鎌原氏、鎌原幸重、真田家の一族ともいう。
羽尾氏、羽尾道雲、もとは滋野一族の出らしい。
斎藤氏、斎藤憲広、
羽根尾の領主、羽尾道雲は吾妻川を挟んで境界を接しているので仲が悪い。岩櫃の斉藤憲広と組んで鎌原氏と争っていた。
鎌原父子は真田幸綱に仲介を依頼して武田信玄の騎下になったのが永禄3年(1560年)のこと。信玄は後ろ盾を受け入れる代わりに、羽尾と斎藤を討って吾妻郡から沼田方面に向けて進出しようとする。
それまで羽尾と組んで鎌原の追い落としを狙っていた斎藤憲広は、鎌原の背後に強国、甲斐武田氏が付いたのに危機感を募らせた。羽尾道雲他と連動して鎌原城に押し寄せたのだが。
実は私が立っている平場からは木々に隠れて見えないのですが、城域の北側は吾妻川に垂直の断崖になっていて、正面からだと相当な難攻だという。ここにいてもそう見えないだけです。
だけど隣村からいつ攻めてくるかわからない日常にいたわけで、毎日毎日緊張感に囚われておちおち寛げないですよね。気が抜けない。
一旦、その場しのぎの和睦になるが、信玄は真田、重臣格の甘利他に斎藤の岩櫃城を攻撃させ、一旦は斎藤氏は甲斐軍に下ったともいう。
真田は信玄の威光を傘に検知を行い、鎌原、羽尾、斎藤、3家の領地割(検知)を新たに定めたが、領土境界の定め方が羽尾にとって不利、鎌原に有利な内容だった。わざと揉めさせたのかもしれない。いずれ真田を先頭に総力を挙げて岩櫃、名胡桃、沼田あたりまで抜こうと目論んでいたからだろう。

羽尾は含んだ。斎藤も心から服していない。永禄5年(1562年)、斎藤憲広は羽尾道雲他、鎌原一族の内応者も含めて再び鎌原城に押し寄せる。
この時、鎌原幸重は信州佐久郡へ退去したそうです。信玄は小県郡に替地を与えたそうだが、その地に長く留まることなく鎌原へ還ろうとする。同年に羽尾道雲が何を思ったか、万座の湯に湯治に出かけたので、真田幸隆はその隙を窺って鎌原か羽根尾の館に攻め込んだ。内通者がいたに違いない。
羽尾道雲は同年9月にも羽根尾を奪還せんとしたが敗れ、鎌原幸重は武田、真田両氏の庇護のもと、鎌原城に帰還できたのである。

残る岩櫃の斎藤憲広は上杉を後盾にしようとする。永禄6年から真田、斎藤両軍の戦いが始まる。真田は岩櫃城に調略の手を伸ばして陥落させ、吾妻郡の反武田勢力は一掃された。
鎌原幸重は岩櫃城代にもなった。

信玄が死んだ後、長篠の戦いで、真田信綱、弟昌輝、鎌原幸重の嫡男重澄も戦死しているが、鎌原氏は沼田真田家の重臣として仕える。後でUPする暴君、真田伊賀守が改易になってからは、松代藩の真田氏に出仕する者と、嬬恋村大笹の関守として存続したという。
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吾妻三国志ともいえる鎌原、羽尾、斎藤、彼らはまず映像の世界では描かれないし登場しないと思う。
上州で甲斐武田に対して描かれるのはいいとこ箕輪城の長野業政ぐらい。
真田が先導して、吾妻衆を屈服させたナレーションだけで終わってしまうだろう。
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本丸へ歩いて気付いたこと。
くるまでここまで来れます。
ただし、農道なので、農耕者がいないことや、農耕者のくるまが止まってないことが条件です。
鎌原城は寄り道です。本命見学場所の目の前に案内板があったので立ち寄りましたが、今回のメインは・・・
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天明3年7月8日(旧暦)・・・!!
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伊勢崎市曲輪町 [隠れ郷土史]

私が1回か2回、コメントを書き込んださるBlogで、伊勢崎駅から徒歩数分のところにある日本酒BARを見つけて気になっていた。
そのBARの番地が伊勢崎市曲輪町(クルワチョウ)だったのです。
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クルワ?
曲輪?
郭とも言います。
遊郭?伊勢崎に遊郭が?
そういうのがあってもおかしくなさそうなのでいつか調べてみたい。伊勢崎の曲輪町は城の内外を堀、石垣、土塁、石塁などで区画した域の名称が町名になったのです。

曲輪、郭の意味を簡単に。
主郭が総司令部で城主や城代が詰めます。それ以外の曲輪には、兵糧や武器を備蓄する蔵や守備する兵たちの屯所とかが設けられる。

荒れた時代は軍事施設なので、立て籠もって防御する側が敵を撃退するのに有利になる様に曲輪が配置されるわけです。
主郭を囲む輪郭式や円郭式、主郭と二郭を並列にする連郭式、それを別曲輪が取り巻く並郭式、山城に設け易い階郭式とかがあります。

防御を強化する為に帯曲輪、腰曲輪、捨曲輪(捨てて主郭から攻撃できる)それらは弱い部分を強化したり物見の為に設けられる出丸や、射撃陣地になったりする。城門を強化する為に設けられる馬出とかもそう。
捨て曲輪になる場合もある。わざとそこに誘い込んで殲滅するのです。
総構、総曲輪は城下町を囲んだものです。

自分で書いて思ったのですが、曲輪と郭の字が混在していますね。

平穏な時代は政治庁舎としての位置づけになる。伊勢崎の曲輪町は伊勢崎藩2万石の陣屋があったそうです。
その前、荒れた時代は赤石城という要害があった。
赤石が何で伊勢崎になったのか?

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伊勢崎駅前は開発途中で、ロータリーを抜けてすぐに武家門通りとあった。
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通りの名は後から命名したとしか思えないですが。そこに武家門がある。
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あるにはあるのですが。門の前がゴミ出し場になっているぞ。カラスとかが生ごみを喰い荒らしに来ないのかな。
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寺の境内から。
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解説板には「伊勢崎藩初代藩主である稲垣長茂の屋敷門であった」とあります。
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稲垣氏の前、中世の頃の伊勢崎陣屋は赤石城と呼ばれた。赤石城は伊勢崎陣屋の前身なのですが、ここからほど近くの那波氏の旗下で赤石氏が築いたというのです。
赤石城は以前は前橋市内にあったのですが、赤石氏がこの地に移ってから同じ名前にしたらしい。伊勢崎は前は赤石だったのです。
何で赤石が伊勢崎になったのかは最後に述べます。騒乱の時代に在城した城主・城代・城将は、赤石、那並、由良、荻田、林といった地侍たちが入れ替わった。

関東一円が徳川家康の所領となってから武家門の解説にある初代藩主、稲垣長茂という人がやってくる。
稲垣氏は家康の家臣である牧野氏について転戦する。なので牧野氏の寄力で、家康の家臣のまた家臣という位置づけだから最初は直臣ではなかったようです。転戦の過程でここ上州大胡城(行ったことあるよ)の守備を任されるまでになった。

家康が関東に移ると牧野氏を離れて直参になる。家康は家臣に高禄を与えない人だが、稲垣も3000石で大名以下だった。ここ伊勢崎藩で大名になって諸侯に列したのが慶長5年(1600年)だから関ヶ原の軍功でしょうか。それでもたった10000石ですよ。家康公がケチだってのはホントなんですね。でも関八州って広い感がしますが、家康の直臣たち全部に禄を振る舞ったら、意外と一人辺りの知行地は少ないらしい。
長男の重綱という人が藩主を継いだのですが、元和2年(1616年)大坂の陣の戦功で越後に2万石で移封され、前橋藩主だった酒井氏の支藩のような位置づけで酒井氏が代々治めて幕末まで続いた。
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現在は遺構は無いようです。一帯は市立北小学校と、隣の図書館のある場所らしい。
らしい、というのは遺構が無いからです。
武家門通り4.jpg
その先へ歩きます。
やはり市街地なので区画整理されて門以外に遺構はないようだ。「遺構が無ければ寺や神社を見ろ」と言いますが、伊勢崎藩主誰々の墓というものがあるぐらい。
陣屋があったとハッキリ書いてあるものは先ほどの門と、学校の側にあるこの案内版ぐらい。
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「伊勢崎藩陣屋内・・・」
「赤石学校・・・」
近世の伊勢崎、旧時代の赤石、ハッキリ書いてあります。
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広瀬川1.jpg広瀬川2.jpg広瀬川3.jpg
JR両毛線が伊勢崎駅に入る前に広瀬川を渡ります。延々歩いて西に折れ、広瀬川を渡ってみた。
渡って対岸から陣屋、城域を眺めるとこんな感じ。
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茶色の建物が陣屋のあった辺りです。広瀬川に臨んでいるのでなるほど平城とはいえ要害である。
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この建物と隣接する小学校が陣屋跡です。さっきの解説板のある小学校の西側です。学校そのものを撮影するのは止めた。
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城郭鳥瞰図の第一人者、余湖氏のHPから。
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これはその筋で有名な先生の描いたもの。
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陣屋とはいえこの縄張りを見るとさながら城郭じゃないですか。平城といっていい。外郭の城塁が、折れながら取り巻いているし。
戻ってきました。
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では何故赤石が伊勢崎になったのだろうか?
藩祖の稲垣氏は三河の地侍の出だが、家系を遡ると伊勢国の出だそうで、だからこの地に来たからには伊勢崎にした?
じゃないらしい。興味深い話を拾ってきました。
赤石城の時代、越相同盟(長尾景虎、北条氏康)が破棄され、改めて甲相同盟(武田信玄、北条氏政)が締結されてから、越後長尾氏の上州での支配力が劣勢になった頃の話ですが。
天正元年(1576年)、赤石城は北条方の由良氏の勢力圏で西の拠点だった。越後長尾勢の赤石城攻囲戦でこんな事件が起きている。
「今夜伊勢前へ神のかけより火矢を射、力丸安芸屋敷、安俣方屋敷射付候。番衆見合消候へ共、大風と云、一所ならず候間、悉く焼け候。是非無き次第に候。去りながら各火にも取り合わず、役所堅固に用心し候間、別条の儀無く候。先ず以てご安心候・・・」
これは当時の伊勢崎一帯を支配していた由良成繁という人が、重臣藤生紀伊守に充てた書簡(由良文書)でその内容は、攻囲していた越後勢の何者かが火矢を射かけ、折からの強風で火が城内に燃え広がり城が丸焼けになってしまったと。
でも火災だけで、城は落ちず敵に占拠されなかったので大事に至らずというもの。
神のかけとは、城内にあった神宮の崖か、神宮側の崖を指していると思われます。そこには既にこの時代、伊勢宮に繋がる社があったらしいのだ。

もうひとつある。寛政年間に伊勢崎藩家老が記した「伊勢崎風土記」には、
「古昔は赤石城と云えり。永禄中より元亀に至るまで数々火し(シバシバ焼けし)かば、以為(おもえらく)地名火気に応ぜりと、是に於て伊勢大神宮を城中に建て、之を祀りて伊勢崎と号せり・・・」
度々出火があったようです。その原因が地名だと。赤石なんて地名では、赤は燃える火を思い起こさせるから火災が頻発するのである、なので伊勢宮を城内に移して赤石を伊勢崎に変えたと。
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赤だと燃える火を連想されるからアブないとは。そこだけだと微笑ましくもある。昔の人はそれだけ真剣だったのだろうね。
でも前述の由良氏の書簡ではその時代で既に「伊勢前」伊勢崎ではなく伊勢前です。
他、筆まめで沢山ある小田原北条氏関連の書簡には、伊勢前、伊勢先、伊勢崎といろいろ混合されているそうです。読みはいずれもイセザキですが、自分は現地の人の口から「イッサキ」と発音されたのを聞いたことが何回かあります。タクシーの運ちゃんが「イッサキエキ?」って言ったの。
伊勢崎になってから陣屋が火災に遭ったという話は発見できなかったが、年がら年中強い風が吹き付ける地だから、火の許に警戒する厳しいお触れが出てたのでしょう。

この日の歩測計は27000歩に達しました。
椿町の椿食堂で「群馬でそんなに歩く人はいません」と言われた。呆れられるだけで自慢話にもならなかったのです。
冒頭に出た日本酒BARには結局は行っていません。伊勢崎で飲んで帰るのはちと距離が厳しいようだ。
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サムライマラソンの真実 [隠れ郷土史]

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今年も安政遠足が無事に開催されたそうです。
遠足はえんそくではないです。とおあしと読みます。
今年で第45回、昭和50年(1975年)から毎年第2日曜日に開催されます。
スタートは私が平成24年に小学生に坊さん呼ばわりされた安中小学校。関所・坂本宿コースのゴールは碓氷峠の森公園くつろぎの郷、峠コースゴールは熊野神社であります。熊野神社までの高低差は1050mだったかな。

毎年走っている方がいます。高崎の酒場放浪記で知られる旅人の惑星ショウ氏は酒豪であり、スーパーアスリートでもあらせられる。
昨年は峠コース28kmを2時間35分15秒で走破され、総合順位12位というスバラしい記録であった。
今年は・・・
不本意な記録だったらしい。私なんかから見れば凄いけど。
沿道には氏が通い詰めている酒場の店主やママ、その関係者が応援にかけつけるというが、
「あっという間に走り去っちゃいました」
そう私に言ったのは群馬八幡の託児酒場のママです。
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「走ってみたら如何ですか?」(現地のママ社員)
「冗談じゃねぇ。俺を殺す気かっつーの」
「ですよねぇ」
だったらススメんなよ。私はスポーツ嫌いで身体に悪いと思ってるぐらいだからね。アキレス腱でも切ったらタイヘンだ。私に冗談ですすめた女性社員も私がスポーツ嫌いなのを知っていて、話の興味の対象は、どんな仮装が似合うかな?ですよ。いつの頃からか参加者が仮装して走るのでも知られる大会です。

安中市や松井田に公用があるので、コースを途中まで走ったことは数えきれないぐらいあるよ。
くるまでね!!
市や主催者側のHPを見たらスタートしてすぐ、旧中山道を走っているみたいですね。中山道、原市の杉並木がこれです。左手にルートイン安中が見えます。
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この旧道はくるまで走り難くなった。減速させる為にラバーのポールが車道に出っ張ってるのがわかりますか?
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そのポールは左、右、左、右、適当な間隔で交互に出っ張ってニョキニョキ設けられている。対向車が来たらポールがある側がポールの前で停車してやり過ごさなきゃならない。
私が転勤してた平成24年はこんなポールはなくてスイスイ走れたんですがね。ウチのある女性社員がスピード出し過ぎるからだという社内都市伝説があるが、本人は否定した。
「アタシですかぁ?アタシは高崎市民ですよぉ」
そう言ってムクレたのは聖なる酔っ払いオンナ32歳だが、軽井沢の帰りに渋滞を避けようとこの旧道を走ってたら、前を走るトラックがラバーポールに接触して踏み倒したが、すぐポールが「ニョキッと立ち上がりました。あのポールはくるまで接触してもボディに傷つかないですね」
「前のトラックじゃなくて、アナタの運転で踏みつけたんじゃないのかい?」
「違いますっ」
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各方面から転載ですが。この杉並木、江戸時代中頃には峠に向かって右側に213本、左側に131本、合計341本の杉の木があったそうです。
昭和8年(1933年)には国指定天然記念物にも指定されたのに、くるま社会になり排ガスや寄生虫などで多くの杉の木が枯れ、現在は数本しか残っていない。国指定も解除されてしまった。若い杉の木を植樹するたって長い年月がかかるだろう。
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右手の給水タンクに走る侍のマンガが描いてある。このマンガ、安中駅にもあるし、市内のところどころで見かけますね。
二本差しで峠まで走ったのか。重たそうだ。
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幟もはためいている。「映画サムライマラソンゆかりの地」
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帰りは戦って何だ??

映画は見てません。多分見ないと思う。
でも原作の書籍は読みました。これです。
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土橋章宏さん「超高速参勤交代」同じく「リターンズ」「引っ越し大名」を書いた人だけに、まぁオモシロかったですよ。
文庫本に帯巻いて写メしたの。
「へぇ。これが映画になるとはねぇ」(聖なる酔っ払いオンナ今年32歳?)
でも酔っ払いオンナは高崎市民だった。安中市民じゃなかった。
「これって安中でロケしたんですかね。そういう話は聞いてないなぁ」
思い出した。前にASLIで山県県鶴岡市内にある時代劇のオープンセットを持つ日本映画他、プロデュース企業の方とお会いした事がある。そこじゃないかな。
http://s-sedic.jp/

群馬八幡の託児酒場でも見せたの。旅人の惑星さんの話題になって「今年もどんだけ走るんですかね~」のような会話になって、そこで取り出したのだ。
「本読んだんですか?」(託児酒場のママ)
「まだ読んでない」
軽そうなのですぐ読み切れるだろうとナメてかかり、半年も放置しておいて危うく捨てるとこだった。
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今日のテーマは大会そのものよりもこのしょーもない映画と言ったら失礼だが、実際のところ予告編を観ただけでガッカリしたのだ。ガッカリを通り過ぎて呆れちゃったというか。
それは後述するとして、まずこの安政遠足の時代背景ですが、自分とこの藩士を熊野権現まで走らせた殿様は板倉勝明という人。
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この殿様は転封3回めで安中藩にやって来た。幕閣では寺社奉行、若年寄、将軍の側用人(9代家重か10代家冶だと思います)西の丸老中格まで務めた。
この勝明公が安中藩士の鍛錬の為に安中城から碓氷峠の熊野権現まで徒競走させたのが日本国内でのマラソンの発祥だといいます。(神戸も発祥地だというが。)
勝明公は幕閣に携わっていたので、それまで鎖国で泰平だった日本の沿岸に諸外国の脅威が迫ってきて、江戸幕閣が危機感を持ち、狼狽したのを目の当たりにした。そして考えたのが「だったらウチの藩士たちを緊急時に備えよう。藩士の鍛錬をさせよう。足腰を鍛えさせよう」
???
藩士たちにしてみれば唐突で「ウチの殿様、何を考えてるんだ?」ってなるじゃないですか。
原作の勝明公はこのイベントを利用して藩内を蠢く隠密を焙り出したりしてます。
幟2.jpg
他サイトからも転載します。安政遠足だから安政2年(1855年)5月19日~6月29日に開催された。
この日付だとおよそ1ヶ月以上の期間が設けられているでしょう。近代の競技のように参加者全員が1日の競技で一斉に「ヨーイドン」でスタートしたのではないです。走らされたのは50歳以下の家臣で、1ヶ月に渡って1班から16班に分けて街道を走ったという。おそらく組頭の組下か、奉行の下役、与力と同心とか、寄子同士で走ったのではないだろうか。
途中で下りて振り返ったところ。
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バイパスに合流したところ。くるまだと楽だね。
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公用の都合でここで引き返しました。目指す熊野権現はまだまだずっと先です。
完走した藩士は96人、単純計算だと1班につき6人ですが、足軽や下士と違って上士や高禄の家臣はひとりで走らなかったと思う。必ずお供の者(家士や家人)が随従した筈だ。
なのでこういうスターティングはありえない。
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こんな集団で走ったらそれこそ大規模な軍事演習と見なされ幕閣から睨まれる。だから小集団に分割して走らせたのだろ。
だけど安中城の背後にある高い山は何だい?ロケ地のロケーションとはいえずいぶん高い山だな。
安中市と高崎市に編入された里見や榛名の境界には安中アルプスがあって数々の峠道がありますが、ここまで高い山はないぞ。

明け六つ(午前6時)の太鼓を合図に安中城をスタートした藩士たちは、中山道をひたすら走り、原市、郷原、五科、松井田関所、ゴールの碓氷峠の熊野権現までの坂道7里(約29km)あまりを3時間~4時間かけて走った。あるいは途中で歩いて完走した。
何故かわからないが、完走者96人の中で、2人が2度走っている記載があるそうです。作者の土橋章宏氏もこれを取り上げて笑える創作に盛り込んでいます。ゴールで完走者に札を渡す熊野権現の神官が、木戸が閉じた松井田宿で女狐の進める酒とイロにヤラれ、2人の初回ゴールインに間に合わなかったというオチだった。だから記録できないのでもう1回走りなさいと再走させられるハメになったのです。
5編の短編で一話完結でもあり、5編でひとつの長編ともいえる。登場人物は被っています。

遠足は速度を競う競技ではなく家臣の鍛錬ですが、サボったり、ズルしたり(馬とか籠とか)は厳罰でしょう。松井田には関所もあるので、そこは関所役人が厳重に見張った。
熊野権現には班毎に初穂料(お金?)が奉納され、完走者には餅、切干大根、上州ならではのキュウリ、お茶といった昼食が与えられ、小休止した後に安中城に帰還した。
その他の藩でこういうことをやった藩は無いと思いますね。
毎年開催したかはわからないです。
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映画では帰途に戦になったってか?
板倉勝明公が藩主を鍛えるために山道を走らせたのが何故か幕府への反逆とみなされ、藩士不在の城に藩の取り潰しを狙う刺客が送り込まれた?
それを知った者が阻止する為に行動を起こす。そういうSTORYらしいがこれが原因で戦になった事実なんかありませんよ。安中藩が幕末に兵を出した領内の軍事行動は、碓氷峠を越えようとした偽官軍(官軍という呼び名は嫌い)赤報隊の捕縛と、小栗上野介を捕縛に倉渕方面へ向かった時です。
原作にもラストで斬り合いはあったけど。映画のこれじゃぁ中世の野武士(野伏・ノブセリ)じゃないか。
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映画の監督は外人さんです。外人さんが監督する日本時代劇って所詮はこの程度の考証なんだね。
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原作は軽いけど涙と笑いで面白かったですよ。原作そのまんまの脚本や演出だと映画化にするのは難しいかも知れないが、かつての金曜時代劇(現在なら土曜時代劇)のレベルはクリアしていたと思います。むしろ原作のとおりに映像化すれば良かったのにな。
実際は「安政2年に遠足が行われた」これだけが真実です。
安中城内にある碑です。
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余談ですが、安中遠足から54年後の明治42年(1909年)3月21日、兵庫県神戸市の湊川から、大阪の西成大橋まで約32キロのマラソン大競走が行われています。
日本でマラソンという名称を使ったのはこの大会が初めてと言われている。私は10何年か前に関西担当だった時期があるので、神戸市役所敷地内でその碑を見たことがあります。
でも私は安中が最初だよと言いたいですね。
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佐野にあるもの [隠れ郷土史]

2015年の冬にUpしたこの記事ですが。
https://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-02-20
上信電鉄の佐野わたし駅、佐野と謳ってるのはこの辺りの地名が佐野で、昔は烏川を渡る渡し船があったらしいこと、鎌倉時代に一族に所領を横領されて貧しい暮らしをしていた御家人、佐野源左衛門常世の家に諸国を巡礼していた鎌倉幕府第七代執権・西明寺北条時頼が一夜の宿を乞うたお話でした。
この時は新駅の紹介と「鉢の木」の舞台候補地のひとつがここ上州佐野というのはホントかなぁ?と疑問符を呈した程度にとどめましたが、最近この佐野源左衛門常世の屋敷跡というか、常世を祀った社があるのを知ったのです。
新幹線が高崎駅に向かって減速する辺り、車窓から上信電鉄の烏川鉄橋と、それに並ぶ人道橋が見えます。そこに至る手前に木々の下に神社と解説板があるのが一瞬目に入った。
私は標柱や解説板を目ざとく見つけるとすぐさま駆け寄ってイワレを見るクセがあります。でも走り寄って見たら町内会の掲示板やゴミ出し場の注意書きだったり、山林保護や不法投棄厳禁の表示だったりしてガッカリすることの方が多いけど。
新幹線の車窓から一瞬見える社の境内がそれではないかと思い込んでしまった。

佐野わたし駅を出て、踏切を渡り、
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坂を上ります。新幹線の車窓から見えたので高架に沿って上がります。
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裏道になっているのか意外とくるまの走行数があり、人道橋を渡ってくる高校生や、新興住宅地でマンションもあるので、地元住民が歩いてたりします。
それっぽい境内、公園、木々が見えてきた。
車窓から見えたのはあの辺りかなと。当たりをつけて行ったのですが。
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全然違ってました。
佐野の字も無いです。祀ってあったのは平安時代末期から鎌倉時代の歌人、藤原定家(テイカ)でした。最終官位は正二位権中納言、京極中納言とも。新古今和歌集他、幾つか書を残した人ですよ。
治承4年(1180年)から嘉禎(カテイ)元年(1235年)56年間も日記を書いた人でもある。(明月記)
歌人にはあまり興味が無いのですが、この藤原定家という人は歌人とは別にいろいろと癖のある難しい人物だったようです。宮中で喧嘩するわ、上役に逆らうわ、同僚の歌を否定したりとかも。
その藤原定家を祀る神社が何でここにあるかというと、定家が東国行脚の折に、ここ佐野松原に草庵を結びしばらく住んだと。村人に所持していた観音菩薩を授けて京へ帰った。
村人達は定家が住まわっていた草庵を堂として観音像を安置して信仰したと。
藤原定家がこの地で読んだ歌「駒とめて 袖うち払ふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ」
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古墳1.jpg
あ、境内に古墳があるぞ。
古墳は佐野村第32号古墳というそうです。さして高くない。
32号墳というからにはこの地に最低でも31個あったということか。
古墳2.jpg
古墳3.jpg
では佐野源左衛門常世の屋敷跡は何処にあるのかな。境内にこの辺りのMAPがあったので見たら、新幹線高架と反対側にあるらしい。
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そしたらまた古墳があったのです。
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古墳13.jpg
漆山古墳といいます。この辺り一帯にかつて佐野古墳群が80基ほどあったそうで、その中で最も大きい前方後円墳だそうです。
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墳丘の長さは70mだったのだが、前方部が削られて61m、赤さ7.5m、
先端が削られています。
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振り返るとデカい土の塊にしか見えないね。
古墳17崩れてる2.jpg
凝灰岩を積み上げた長さ8メートルの横穴式石室があるけど侵入禁止です。
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古墳14.jpg
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誰が葬られたのか。大和王朝の直轄地である佐野屯倉(サノノミヤケ)の管理者、施政者だった豪族が葬られていたと考えらるとか。
上野三碑の2つ「山上碑」「金井沢碑」を建てた一族の祖先だともいうが、その2碑(私は山上碑しか見てませんが)は悠々流れる大河、烏川の向こう側の山中にあるのでちょっと距離があるのだが。
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「佐野村27号墳」ともいうこの古墳石室からは人骨9体が出土したとありました。そういうのは掘り出したその後はどうするのだろうね。
他、大刀、金銅製馬具、鉄鏃、金環、工具類などが出土。
漆山古墳の後円部上部から石室への侵入を試みた盗掘溝が発見されたそうです。不届き者がいて掘ったものの、石室まで届かず途中で断念した形跡があるとか。何を盗もうとしたのだろうか。
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何処かのオジさんが見学に来てた。
会話は交わしていません。まだ佐野源左衛門常世さんの屋敷跡に行かなきゃ。それは古墳から高架に沿って歩いた先にあった。常世神社とある。
常世1.jpg
佐野源左衛門常世遺跡と彫ってある。
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常世2.jpg
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解説板には、
『謡曲「鉢木」と常世神社
一族の不正のために領地を横領され、窮迫の生活をしていた武人佐野源佐衛門常世が、大雪の日に宿を頼んだ修行者(実は鎌倉幕府執権北条時頼)のために、秘蔵の盆栽”鉢の木”を焚いてもてなしたのが縁で、表彰されたという謡曲「鉢木」の物語は有名で、戦前は学校の教材になっていました。
これは出家して、最明寺と名乗った時頼の廻国伝説に基づいてつくられたものであるが、常世神社は、常世が佐野の領地を横領せられてのち、住み着いた所といわれる「常世屋敷跡」で、墓は別に栃木県佐野市葛生町の成願寺境内にあります。』
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御堂の扉を開くと「鉢木の絵」があるそうですが、開けませんでした。
見学料と思って僅かばかりの小銭を落としました。
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雪の夜、佐野源左衛門常世という貧しい御家人の家に諸国を遍歴している旅僧が一夜の宿を求めた。常世は旅僧が難渋されるだろうと家の中に招き入れる。
囲炉裏にくべる薪が無くなったので、大事に育てて来た盆栽、松、梅、桜の鉢の木を切って囲炉裏にくべたというあれです。
これは駅のマンガ。
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旅僧は家の中を見廻し、貧しい暮らしぶりなので、何か訳がありそうだと思い聞いてみたら、
「一族に所領を押領されかくの如き身相成り申し候。だが落ちぶれたりとはいえども幕府に一大事あらば千切れた具足を着け、錆びたりとも薙刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り鎌倉殿に馳せ参じる所存」
実は旅僧の正体は鎌倉幕府第七代執権・西明寺北条時頼なのだが、この時は身の上を明かさず、翌朝旅立っていく。
雪解けの春に鎌倉から動員令が発令され、駆け付けた御家人衆の中に佐野源左衛門もいた。大勢いる御家人どもの中から佐野は召し出される。上席で迎えたのはあの雪の夜に泊めた旅僧だった。
佐野は旅僧の正体が執権だたのを知って驚愕するが、時頼はあの夜の佐野の言葉に偽り無きことを賞し、問注所を通して佐野庄の一件も調査済みで、横領された佐野庄三十余郷を佐野に返し与え、あの夜に薪にされた三鉢の盆栽、梅・桜・松にちなんで、加賀国梅田庄、越中国桜井庄、上野国松井田庄の三つの庄園を与えたという。
2001年のドラマでは渡辺謙さん演ずる時頼が佐野の家を訪れている。
常世は宇崎竜童さんが静かに静かに演じていた。大根でもなかったが殆ど、素のままだったような。
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常世が一族に横領された領地はここ佐野ではなく、下野国(栃木県)の佐野ではないかな。その地を横領されてから、ここ上野国、佐野に住みついたのだろうか。
オカシイことがある。佐野氏は宝治合戦で三浦方に付いて一旦は零落するのですよ。後年の関東の名族佐野氏は、東北自動車道の岩舟JCTで北関東自動車道に入って最初の長大トンネル上にある唐沢山城、そこにいて、佐野信吉という人は、関ヶ原で東軍に付いた。関ヶ原戦後の諸侯配置一覧に本領安堵下野佐野3.9(万石)とある。
だが慶長19年(1614年)、佐野信吉は唐沢山城から江戸の火事を発見しって早馬で江戸に駆け参じたら、無断出府並びに「お前は江戸を見下ろせる山城に住んでるのか」と難癖を付けられて改易されます。
江戸からそう遠くない関東近郊に外様がいるのは目障りだったのだろう。
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屋敷跡を公道から見たところ。
屋敷跡とありましたが、ホントにあったとしても貧乏御家人だから、庵程度のものであっただろう。堀や土居で囲まれた館跡とは思えない。
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佐野わたし駅に戻ります。
駅周辺の風景ですが、駅前にはまだ農地、更地があって、それを越えて新興住宅地、マンションが建っている。
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キタ4.jpg
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高崎方面の電車がきた。ゼブラ模様の群馬サファリパーク号です。
この日は何処でも飲まずに帰ったんじゃなかったかなぁ。
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桃井城・ビフォーアフター [隠れ郷土史]

たいして遺構が残ってないのに、たまたま通りかかって『あ、あの地形はもしかして・・・』と思って立ち寄ったらビンゴだった吉岡町の桃井城その後です。
こないだ見たらこうなっていました。
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城塞は半島形で陽当たりが良く、風光明美なところや街道を睨む場所に築かれるので、宅地や学校、施設になりやすいのですが。
もうすっかり自然の丘陵地でなくなり、緩傾斜に均され芝が植生された桃井城です。
桃2登城口は何処だ?.jpg

桃3呼ばれて振り返る.jpg
東側の整備途中の駐車場に停めて、緩い坂を登りかけたら背後から声がかかった。
「あのぉ~すみませぇ~ん・・・」
なんだよ?と振り向いたら吉岡町の職員が私を呼んでいる。彼らは作業を終えて引き上げたいのだが、私のくるまが駐車場内に停車しているので出して欲しいらしい。
「バリケードをしなきゃならないんですけどぉ~」
「自分がやっておきましょうか」
「お願いできますかぁ~」
桃4大分壊変されたな.jpg
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坂を登って途中から階段を登る。芝が養生中で、まだ踏み入ってはいけないようです。
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本郭を見上げる。
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本郭には数人の作業員がいて、地べたに座った状態で一服していた。私を胡乱な侵入者という目で見ることもなく自分たちの話題に没頭していた。
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前回はこうでしたから。草ぼうぼうで。
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昨年9月、吉岡町役場にあの跡地を今後どうするのか聞いたら、来年3月(今年)を目処に完成させ、その暁には桃井城跡の解説板も設置されると言っていたが。まだ工事未完のようだね。
二の郭には北から東にかけて土塁が辛うじて残っているが・・・
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桃15土塁が見えるが嵩上げしてないか?1.jpg
何だかキレイな曲線を描いているな。前はこんな感じでした。
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アスファルトの遊歩道に沿って土塁が続いていた。道路を整備した際に土を盛って固めてそれに芝を植えたようだが、前に見たのより嵩上げされてる感がするね。
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桃17土塁1.jpg
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桃20土塁4.jpg
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渋川市郊外の吉岡町や榛東村は人口が増えているそうです。この辺りに嫁いだウチの子(社員)がいて30代前で家を建てたからね。
それも注文住宅ですよ。建売じゃない。
昨年になってそういう子がもうひとりいてやはりこっち方面に引っ越すというんです。「家でも建てるのか?」って冗談で聞いたら「建てます」っていうからさ。
でも浮かぬ顔をしている。
「2世帯なんですよ」
「向こう(旦那)のご両親?」
「そうです。自分の実家(甘楽郡だったかな)とかなり離れてしまうんで」
「そりゃ遠いな」
そう言って来たのはhttps://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-03-18に登場したNという女性です。あの頃は小娘で「相手がいませんっ」と絶叫されたものですが、この子に限らずあの頃独身だった小娘たちは殆ど嫁ぎました。そんでもって家を買うなら、建てるなら、吉岡町や榛東村に選択肢が行くそうです。
彼女たちが桃井城を知るまいて。この公園整備は、家々が増えて人口が増えて、インフラや道路を整備して、防災拠点としての避難施設も置かなくてはならないというまちづくり構想の一環で、南下城山防災公園といいます。歴史性や優れた眺望を活かしつつ、防災機能も有する公園としての整備を図るというもので、その防災公園の場所に桃井城跡が選ばれ、南下城山防災公園整備事業というそうですが、総事業費は7億円以上を見込んでいる。
吉岡町が示した公園化計画を再度述べます。
「広場北側には現在ある雑木林を生かした自然エリアとする」
活かしてないぞ。
「前方後円墳跡も避難広場の1つとする予定」
あ、そう。どれよ?
「広場や雑木林エリア以外の大部分は敷芝される」
はい。芝生が養生中でした。お花見にいいかもね。
「東部、中央部、西部とそれぞれ高低差があるため、東部と中央部間で約50m、中央部と西部で約20mの階段を設置する」
それも施工されてました。
「平常時には桃井城址や古墳などを散策する歴史性を有した公園となる」
有してないです。というか、そういうのがわかる表示が無いじゃないかぁ!!
私は何が何でも「遺構を残す派」ではないです。現状維持イコール自然のままイコール、空堀がゴミ捨て場になったりするよりは公園整備した方がいいと思っています。ただ、そこに何があったかを示すものが無いと。前はこういうものがあったんだからさ。
そこにかつてあった標柱や解説板は撤去されたままなのだ。
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解説板2.jpg
解説板3.jpg
その先の北側、晴れてれば榛名山が望める一帯もまだ工事中でした。
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二の郭から東側に下りれば何となく城壁であったことが分かります。
桃23土塁下へ降りてみる.jpg
桃24それ也の傾斜1.jpg
その先でまた養生中の芝生の斜面に出て、
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振りむとさっきの土塁の先端が。大蛇のような土塁です。
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吉岡町にこれ以上は求むまいて。さて、くるまを渋川駅前のレンタカーに返さなきゃならない刻限になってきた。くるまを駐車場から出して、さっき職員さんから依頼された通りにちゃんとバリケードもしました。
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乗り込もうとしたら上空にヘリの音がする。
見上げたら自衛隊のヘリが2機飛んでいた。
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ヘリの音で浜田省吾さんの「A NEW STYLE WAR」を誘発されたよ。イントロにヘリや戦場の音がするあれです。
『愛は時に あまりに脆く
自由はシステムに組み込まれ
正義はバランスで計られ Its‘A NEW STYLE WAR・・・』
私の頭上を旋回してるかのようなヘリは向きを変えて南へ去っていった。
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この道をそのまま下っていくと桃井直常夫妻の墓、供養塔があります。そこで振り返ると直線上に桃井城が見えるのです。
桃井直常はNHK大河「太平記」で高橋悦史さん(故人)が演じていた。
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大室城 [隠れ郷土史]

朝と日中は晴れてたのですが、午後になって東毛を廻ってたらいつの間にか鉛色の雲空になったのだ。
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伊勢崎市内から前橋市に向かう途中でナビに城マークが表示されたので、誘われるようにくるまを滑らせたら、神社、社務所、地元公民館が混在していた。
平城でよかった。
広い駐車場の片隅に停めた。そこは二の曲輪だという。平城で城域に停められるのは楽チンである。
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神社の境内になっている本郭は20m×50mほど。標柱だけで解説板が無いぞ。
誰がいてどういう勢力の圏内だったのだろうか。
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あまり時間が無いので早足に散策する。一旦くるまで入って来た道を引き返し、道路になっている虎口?堀切を見たところ。
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そのまま右手(南方向)に歩いて神社のある正面本曲輪の西側下にある土塁と横堀。
土塁1.jpg
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城域にある道路は堀底に敷かれる場合が多いが、ここは堀の外側にある土塁の外に生活道路を通しているた。もしかしたら二重堀だったのかも知れない
堀と土塁の西側は普通に住宅地になっている。
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城内に戻って振り返ると、右手にあるのが本曲輪の北に配置された小曲輪。20m四方の小さい曲輪。
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本曲輪北の馬出し1.jpg
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水音がする。この小曲輪の東側の切崖下から水が湧き出ていたのです。
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湧き出た水は公民館のある広くて四角い第二曲輪を廻っていた。湧き出し口は少ない水量だったが、二の曲輪を廻る方に歩いたら結構な水量を蓄えていたのです。
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水源は何処だろう。
他の河川から水を引いているようにも見えないし。赤城山麓に湧き出る自然の水だろうか。
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二の曲輪を曲がるコーナーの部分。
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城内を突っ切り、橋を渡って東側に出たところ。高崎城ほどではないがいい水堀です。
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堀脇に案内板、解説があったぞ。
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往時の城域はもっと南北に長かったらしいな。他はこのような記載が。
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『大室城は東神沢川と西神沢川の合流地点を自然要害として築造された平城です。
本丸は北寄りに造られ、その北には櫓台や北曲輪があります。本丸の東には水濠に囲まれた二の丸、北東部に列郭式の形跡も見受けられ、南側には南曲輪の地名が残っています。
大室城の築城年代は明らかではないが、室町時代中頃(十五世紀後半期)に勢力を増した白井城主(現渋川市白井)長尾氏の支城となりました・・・(途中省略)・・・天正十三年(1585年)、大室城代の牧弾正に叛意ありと知った長尾政景は、小田原から鷹狩りにことよせ大室城に立ち寄り、弾正父子を誅したという言い伝えがあります・・・』
長尾政景?
上田坂戸荘の長尾家で、長尾景虎の従兄弟?
いやいやいや、そんなことない同名異人でしょう。
この政景という人の政の字は小田原の北条氏政から貰った一字だそうです。おそらく幼少時に小田原に人質に出されていたのでしょう。
後年それを逆手にとって大室城を掌握しようとした北条氏政派の長尾家臣団と、越後長尾派だった兄の長尾輝景という人の家臣団に大室城内が二分され、その渦中で城代の牧弾正粛清事件が起きたらしい。
でもこの兄弟は後年に和解したのか、先に上杉景勝に仕えていた兄の輝景に実子が無かったのか、後から景勝に仕えた弟の政景を後継者としたとも。

輝景、政景兄弟の父を憲景というそうです。憲の字はあの関東管領上杉憲政から貰ったのだろう。
父輝景は上杉憲政から一字を貰い、兄輝景は長尾景虎(輝虎)から一字を貰い、弟政景は北条氏政から一字を貰った。
そこまで気を遣わなきゃならないのかね。一時を貰ったのか押し付けられたのか。そのようにして大室城の長尾一家は生き残る為に関東管領家、越後長尾家、小田原北条家、その時の状況に応じて就くしかなかったのである。家臣団たちも。
政景は後年に名を景広と改めた。小田原北条氏が滅んだ後のことである。景勝の景だけ残したんだな。
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地元のご隠居とスレ違った。
軽く会釈だけした。ご隠居は手に鋸を持っていた。
堀脇の道路にせり出した枯木をギコギコ切っていた。バサバサバキバキ音を立てて倒れて来た朽木はこの地を護れず去った大室・長尾家のようでもある。
水堀を渡って振り返ったところ.jpg
二の曲輪1公民館.jpg
二の曲輪に戻ったところ。
こうして見ると広い。60m×80mぐらいか。
公民館が目立つ。平屋だけど大きい。ウチの町内会館よりぜんぜん大きい。この広い二の曲輪で夏場に納涼祭でも開催されるのだろうか。
私も2年前から地元町内会のイベントに関わっていて、家にそれ関係の婆さんが来訪して「アナタ委員やってよ」と勧誘されたことがある。固辞したけど。
最近は地元のイベントに参加していません。公務も私事も多忙なのもありますが、もとからいる連中で和気藹々と運営しているのが私のような新参者とイマイチ距離感が感じられるようになった。それでいて人が足りないと「お手伝いお願いします」と連絡が来るのですが、その時点でもう所用が入ってるんですよね。
でも自分があと数年後に会社を引退して、空いた時間を地元イベントに充てるのなら公民館に顔を出す回数が増えるかもしれない。この地のように公民館が中世の城域にあったらそこにいるだけで気分がいいし、日がな一日をそこでボーッとして過ごせるかもしれない。
時折、敷地内を掃除しながら。残された時間を数えるように。ああジジくせぇ。
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二の曲輪から本曲輪を遠望する.jpg
時間にして15分か20分の寒々しい散策ではあった。誰もいないし。公民館にも人影は無かったし。全体に小規模だけにすぐ終わった。雰囲気もいいです。
それにしてもあの水濠の水の源流は何処なのだろうか。
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三日月堀と大熊朝秀 [隠れ郷土史]

あの天守は往時のものなだろうか。それとも模擬かな。
模擬天守か?.jpg
実は展望台なのだが、あれに登る時間は無さそうだ。
見たいものだけ見よう。三重堀を目指そう。
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三重堀?.jpg
途中にある寺の境内にあった解説板。
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大熊備前守??
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そうだったのか。ここにあの人がいたんだ。
越後から亡命した人です。

今年は今川義元公生誕500年記念だそうですが、桶狭間の戦いで首級を取られた義元公の後を継いだ氏真の代になってから甲駿相の三国同盟を反故にした甲斐の武田信玄は、三河の松平元康と大井川を挟んで武田が東、松平が西を領有せんと約定して駿河に攻め込んだ。
だがそんな約定を信玄が守る訳がない。氏真を敗走させた勢いを維持して永禄11年(1568年)12月、武田軍は大井川を越えて「山崎の砦」を手中に納める。この砦が小山城の前身だという。
武田軍が甲斐に引き上げた後一旦は松平家の手中に落ちるが、元亀二年(1571年)武田軍は奪い返して大改築した。
信玄はここ、小山城に据え置いた城将は、大熊備前守朝秀(長秀)・・・。
あの大熊さんがねぇ。
こんな急な階段を上るのはイヤだ.jpg
こんな急な階段を上るのかよ。
気が萎えかけたが、右手に緩い坂、階段があった。
坂を上る.jpg
あの階段を上らなくてよかった。見下ろしてもこんなですよ。転がり落ちそうだ。
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公園内に入ってすぐ、模擬天守の脇にある堀ですが、狭くて浅いです。
堀1.jpg
堀2.jpg

公園内に入る.jpg
復元堀1.jpg
この三日月堀は復元です。法面が崩壊しないようにネットのようなものが被さっていた。
解説板には「三日月型をしていたので三日月堀と呼ばれる」とありますが、そんなん誰が見てもわかりますよね。私が見たいのはこの「如何にも復元しました」の三日月堀ではないです。もっと凄いのが後で出てきます。
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復元堀3.jpg
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これも如何にも復元したという感じの土塁です。工事現場の残土にしか見えないけど。
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復元土塁1.jpg
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堀というか、水を抜いた池のような。浅い堀です。なくてもいいような。
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浅い堀2.jpg

この辺りはそれっぽくなってきました。
土橋.jpg
堀11.jpg
堀12.jpg
堀13.jpg

三重堀1.jpg
その先の西側は茶畑の台地に繋がるのですが。そこに三重の三日月堀があってこれが最大の見どころです。さっきのように復元でなく土そのもので緩くない。他にあまり例がないそうです。
2本でも3本でも真っ直ぐに断ち切らず、わざわざ曲げています。
三重堀2.jpg
三重堀3.jpg
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三重堀12.jpg
三重堀13.jpg

勘助井戸.jpg

ここ小山城の城将だった大熊朝秀は越後の人ですが、最初から長尾景虎の家臣ではなくもとは越後守護・上杉氏の被官を努めていた。
最後の越後守護だった上杉定実という人が死没、男子がいなかったので長尾景虎が実質的に越後国主になるのですが、定実は越後国内の叛乱を鎮圧した実績のある景虎と兄晴景の争いも調停して景虎を守護代理に擁立したので、おそらく大熊氏はそのまま景虎の家臣にスライドしたと思われます。
ただ、越後の者だが、長尾家の譜代ではなかった。

越後統治がイヤになった長尾景虎が春日山城を出奔した事件がありましたよね。大熊朝秀はこの景虎出奔と家臣団に懇願されて守護に復権する騒動の要因、そこで必ず登場する人ですよ。
あの出奔事件は、弘治2年(1556年)に、現在の魚沼郡にいた上野と下平という2人の国人の領地境界の争いが発端で、この調停に譜代長尾家中の本庄実乃(栃尾城主で景虎の幼少期の補佐役)ともと上杉家中の大熊朝秀が関わり、本庄が上野、大熊が下平に付いたことで家中の諍いが深刻になったというもの。本庄対大熊重臣同士の構図になってしまった。拡大して景虎の譜代家臣団と旧上杉家家臣団の争いにまで広がったかもしれない。
そこで甲斐の武田信玄が大熊に内通の手を伸ばすのです。のせられた朝秀は信玄と内通し反乱を起こすが計画が稚拙で失敗した。この騒動の原因である領地争いの片方、上野家成に敗れ、居城(箕冠城、現在の上越市板倉区、妙高の東です。)を捨てて越中に逃れた。
さすがに信玄も自分が持ちかけて内通させたのだから、後日大熊朝秀を正式に武田家中に受け入れています。でも直接の家臣ではなく赤備えの飯富三郎兵衛昌景、後の山県昌景の寄力にした。越後では城主だったのが信玄の家臣の家来に格下げしたのである。
でも大熊朝秀は腐らなかったらしい。永禄4年(1561年)の川中島では昌景の配下として越後軍と戦うのですが、昭和63年(1988年)の大河では信玄の本陣にいて、後半、戦場へ押し出していた。(演:勝野洋さん)
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平成19年(2007年)の大河では、守護代上杉家のもと家臣である大熊朝秀本人が領地の争いの張本人のように描かれ、対する譜代の長尾家直臣たち(直江、本庄、柿崎)から「もう無い上杉家にいつまでこだわっているんだ。関東管領ですら今は長尾家の庇護のもとにある。大熊殿とて長尾家の家臣に取りたてて貰った身ではないか」と現実を突き付けられていた。(演:大橋五郎さん)
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大熊朝秀は永禄9年(1566年)に飯富改め山県昌景の組下に属して、我が第二の故郷上州にも来ています。信玄に勝てないまでも負けなかった上州一揆衆の盟主、長野業政が死去したので、後を継いだ長野業盛が守る箕輪城攻撃に加わった。
朝秀は箕輪城を単身よじ登って城兵を斬り倒し、内側から大手口を開けて武田軍を城内に導き、後年に新陰流の祖となる上泉伊勢守信綱と切り結んだ。この功で朝秀は足軽大将に抜擢して騎馬30騎、足軽75人を預かる身になり、武田譜代家中の娘と縁組み、受領名・備前守を名乗るようになる。

武田軍の駿河侵攻に朝秀は従軍し、元亀二年(1571年)の遠州攻めで小山城をの城将に任ぜられた。
だがその後、勝頼の代になった武田家での朝秀の動向はよくわからない。天正10年(1582年)に高天神城と諏訪原城が相次いで陥落、大熊朝秀の嫡男である長秀という人が三日月堀の小山城に敗兵を収容したが、小山城単独での抗戦を諦め、城内の食糧を分配して甲斐府中に撤退した。天正10年(1582年)武田氏が滅ぶ前に小山城は落ちたのです。
大熊朝秀、長秀とも、武田家を離反した記録は無いようである。
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城西側に掘られたトンネル(県道230号線)は備前守隧道といいます。
3層5階の模擬天守には登っていません。どうも犬山城を模擬したらしい。400年前には無かった形状だと思いますよ。
模擬天守4.jpg
戦国史上で最も失敗して挽回した男で有名な仙石権兵衛秀久(センゴク)や、関ヶ原で西軍について改易後、大名として旧領に復帰した立花宗茂には及ばないが。大熊朝秀は越後出奔以来15年の歳月を経て城将クラスに返り咲いた人です。
武田24将クラスには及びませんが。
長秀とは別の子の系譜が信州松代藩、真田家家臣に高録で仕えてそのまま続いたようです。
(大熊靭負という人がいて、寛永14年に千弐百石の知行高とある。)
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長浜城 [隠れ郷土史]

階段がある.jpg
長浜城の駐車場から城域へ楽に登れるように階段が作ってあった。足場も良さそうです。
でもジャン妻は訪城、登城に難色を示した。
「アナタひとりで行ってくれば?」
こんな日陰の寂しい駐車場にひとり残していくわけにはいかないよ。
「付き合えよ」
「・・・」
いきなり足腰に負担をかけるのではなく、まず駐車場のWCの隣にたくさんある解説板を見せて興味を持たせます。
解説がたくさん.jpg
城域にはたくさん掲示物があって全って写真に収めたのですが、載せると膨大になるので周知されている内容、例えば北条五代系図とか、長浜城の位置、周辺地形や道路、略歴は割愛します。
縄張り、遺構図も省略、この鳥瞰図を見れば充分です。
鳥瞰図.jpg
小さい城なのが一目瞭然です。

長浜城は小さいながらも北条水軍の停泊地、根拠地。現代の航空写真で見る長浜城は、ヨットや漁船が北条水軍の船が停泊しているかのように見える。
解説13というか航空写真.jpg
海岸線にせり出した小山で標高40m程度。曲輪(クルワ)が第1~第4と段々の腰曲輪が4つ、見学路も整備されて足場もいい小城なのにジャン妻はまだ見学に渋っている。
ジャン妻は山城嫌いで、過去に向羽黒山城、鴫山城、久川城(3つとも会津)、伊豆では韮山城、狩野城を連続して音を上げ「何かの苦行なのこれ?」
上州安中の後閑城では「付き合ってあげるから後で珈琲おごれ」と言う始末。
ここに来るまでに神池散策で疲れたのかあまり登りたくないみたいだ。後姿にそれが現れているもの。
登りたく無さそうなジャン妻.jpg
だけどこの地に来るなんて早々ない。今日この日訪城しないと次はない。
「何か後でお楽しみがあるならつきあってあげる」
ときたものですよ。
登城口.jpg

階段1.jpg
いざ登城します。階段の途中に三つ鱗の旗、幟があります。
階段2三つ鱗1.jpg
幟の竿はプラスチックだからドラッグストアの店頭に立ててある幟みたいだな。
階段3三つ鱗2.jpg
階段4三つ鱗3.jpg
各曲輪の学術的な解説は割愛します。上がって来た道は堀切道になり、左手にまずは第四曲輪。
堀切1.jpg
標柱.jpg
第四曲輪へ.jpg
小さい曲輪です。10数人ぐらいしか入れないでしょう。
第四曲輪解説.jpg
堀切1を見下ろす1.jpg
そこから見た湾内です。
海が見える1.jpg
海が見える2.jpg
海が見える3.jpg
次に第二曲輪と第四曲輪の間にある虎口(出入り口)と堀切を兼ねた道へ上がります。
第三曲輪へ向かうジャン妻1.jpg
第四曲輪を振り返ったところ。
第三曲輪に向かう途中堀切を振り返る.jpg
第三曲輪に上るジャン妻の後姿。
第三曲輪へ向かうジャン妻2.jpg
虎口と跳ね橋の解説に見入るジャン妻です。ジャン妻は寅年です。虎が虎口にいるぜ。
堀切2で虎口の解説に見入る1.jpg
解説板のある虎口に上がる角っこにアヤしい石垣があった。往時のものかどうか。それにしてはキレイに積んであるように見える。
アヤしい石垣1.jpg

堀切と虎口と跳ね橋の解説.jpg
堀切でもあり小口の断面です。丸い柱は門か櫓の支柱の跡。
堀切2の断面.jpg
広々とした第二曲輪に入ってサッサと見学を終えようとするジャン妻を第三曲輪に呼び戻した。
第三曲輪.jpg
第三曲輪の解説.jpg
ここにもアヤしい石垣がある。往時のものだろうか。
ここにもアヤしい石垣3.jpg
だが水軍の根拠地に石垣まで必要かな。
これから行くいちばん面積が広い第二曲輪には櫓が復元されてるぞ。
第二曲輪を望む.jpg
第二曲輪に入って堀切、虎口を振り返ったところ。
堀切2を振り返る.jpg

第二曲輪2.jpg
第二曲輪1土塁に立つジャン妻.jpg
第二曲輪解説.jpg
第二曲輪遺構配置図.jpg
広々とした第二曲輪、解説板も多く、建物(食糧倉庫か武器庫)があった場所には支柱の位置が表示されている。
もっとも兵が多くいた場所だと思います。それでも数十人ぐらいしか立て籠もれないでしょう。
各曲輪は小さいので、普段居住する長屋は麓にあったと思う。
第二曲輪3.jpg
第二曲輪5.jpg
第二曲輪4.jpg
第二曲輪6掘立柱1.jpg
第二曲輪7掘立柱2.jpg
建物のイメージ図。
掘立柱建物イメージ.jpg
第二曲輪掘立柱解説.jpg

堀解説.jpg
堀写真.jpg
障子で遮られた堀の跡。固めてあるのは法面を損なわせない為のもの。
堀復元.jpg

櫓.jpg
櫓解説.jpg
櫓に上るかい?階段が狭く急です。
「アタシが先に上るから後から付いてきなさいよ」(ジャン妻)
ギシギシ1.jpgギシギシ2.jpg
ギシギシ3.jpgギシギシ4.jpg
階段をギシギシ軋ませて上るジャン妻の後姿。
そのうちバキッていかないだろうな。こっちに落ちてきたらケツが私の頭部に当って首の骨が折れるは必定である。
私も後から櫓に登った。第二曲輪を見下ろしたところ。
櫓から第二曲輪を見下ろす.jpg
櫓から湾を一望1.jpg
内浦湾がよう見えますね。どの曲輪からも見えるのです。
櫓から湾を一望2.jpg
櫓から湾を一望3.jpg
この先に行く腰曲輪が見えます。この木で造った歩道は櫓から伸びているのですが、第一曲輪と腰曲輪にもそのまま通じている。
櫓から腰曲輪を見下ろす.jpg
櫓から第二曲輪を見下ろす.jpg
櫓から湾を一望1.jpg
長浜城が現在の姿かたちになったのは天正7年(1579年)甲州の武田勝頼が沼津に三枚橋城を作って伊豆の北条支配に匕首を突きつけてからです。
北条氏はその前、房相一和(天正5年、1577年)の締結により、これまで長年に渡って喧嘩ばかりしていた安房里見氏と休戦に入った。その協定により東京湾の脅威が静まったことで三浦半島の三崎に停泊して安房を睨んでいた北条水軍主力をここ西伊豆に持って来た。北条水軍提督は北条氏規(ウジノリ・氏政の弟)と言う人で、韮山城主も兼務していたので伊豆に詳しい。
(城主の兼務なんてできるのだろうか。)
対する敵、武田家は武田勝頼の時代になっています。長篠で大敗した勝頼は遠州高天神城への糧秣・武器弾薬補給路として駿河湾を安全確保したいので、武田と北条、水軍同士が制海権を争って対峙することになる。
氏規の配下に梶原備前景宗という船大将がいた。この人は紀州出身で、森林だらけの紀伊国で大きい船を建造する技に長けていた。
ここ伊豆も豊富な森林に恵まれている。ここ長浜の重須港で巨船を建造した。それが後で出てくる安宅船です。
櫓から湾を一望2.jpg
櫓から湾を一望3.jpg
ではこの小さい小さい長浜城の存在意義ですが。
長浜城は奥駿河湾のもっと奥、内浦湾に面しています。西側には長井崎、北側には淡島、風と波が遮られ海面は穏やか。
どの曲輪からも見晴がいい。
水深がすぐ深くなるので船の停泊に適している。
なので長浜城は駿河湾の軍港として最適で、水軍の重要な拠点として設けられたのですが、今の城域の形になる前の頃からこの地には船掛場といって、軍船を繋留する施設が普請されていたようです。
それが天正年間に対武田との駿河湾の制海権を争う基地になった。武田の伊豆最前線はさっき述べた沼津の三枚橋ですが、そこから陸路を南下しようにも韮山城から長浜城に至る防衛ラインに遮られる。
だから駿河湾を船で攻めて来るわけですが、当時の海戦とはどういうものだったかを知る必要があります。
天正年間の海戦は海上で軍船同士がドカンドカン撃ち合って船舶を撃沈させるのは極めて稀で、船を沈めるよりも拿捕、鹵獲するのが主目的です。
敵の軍船が港に逃げ込んだら追いかけて焼き払って壊滅させるのです。陸地や浜辺に追い込み、予めそこに配した陸兵が討ち取るか捕虜にすることもある。
制海権を掌握するには敵船さえ焼けばいいともいえる。港に追い込み、勢い余って上陸してその辺り一帯を焼き払い、火事場泥棒のように乱捕り(略奪)しても、勢いで上陸したのでその地に長く留まる準備はしていない。いずれ陸伝いに敵の援軍が来るので長く留まっているわけにはいかない。
だから長浜城は小さくていいのです。敵は諦めて引き上げるのだから。
小さくていいけれども、敵が上陸してきた場合に備え、コンパクトながらそれ也に防御できる縄張り、曲輪の配置が必要というわけですよ。
櫓を下りる.jpg
櫓をそろりそろりと下ります。上るより下りる方が身が引き締まりますね。
第一曲輪柱は塀の跡.jpg
第一曲輪解説.jpg
第一曲輪へ。そこには建物が無いかわりに塀の跡が見つかったという。城代か指揮官がいた場所ではないかと書いてあった。
何処の曲輪からも内浦湾が見えます。海賊城だからです。
第一曲輪から沼津方面を望む1.jpg
沼津の三枚橋城が見えますとありますが、ジャン妻は疑ってかかった。
「遠いじゃない。どの辺りよ」
現代の開発が進んだ風景だよ。往時は近代的な高層建築物がないから、遠目にも鮮明に見えたのではないかな。
第一曲輪から湾を見る1.jpg
第一曲輪から湾を見る2.jpg

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ちょっと脱線します。長浜城に関係ないネタです。
目の前に浮かぶ島は淡島です。2008年に休止され、撤去されるまでは海上ロープウェーが運行されていた。
淡島ホテルにあるマリンパークとホテルは今でも営業していますが、従業員がいても居住しているわけではないので無人島扱いになっているそうです。
「住民票が無いから?」(ジャン妻)
「だと思うが・・・」
マリンパークの入園料(往復乗船料)は大人・中学生以上1800円、小学生以下が900円だそうです。駐車場料金は別です。
何で淡島を取り上げたか。今は廃止されてない海上ロープウェイに昭和のウルトラQ第2話「ゴローと五郎」の冒頭で巨大猿がブラ下がってたのを御記憶の方いませんか。あのロープゥエイと駅舎が淡島なのですよ。
ウルトラQ.jpg
ウルトラQ3.jpg
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こらエテ公、ブラ下がって懸垂して遊んでるんじゃない。
こんなデカいエテ公がブラ下がったらケーブルが切れちゃうじゃないか。
ウルトラQ7.jpg
ウルトラQ6.jpg
ウルトラQ8.jpg
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このゴロー君は東宝「キングコング対ゴジラ」の使いまわしらしいですね。中に人が入っていた着ぐるみの良き時代。怪獣たちも人間臭かった。
長浜城や北条水軍にぜんぜん関係無いネタですみません。本題に戻ります。
淡島2鷲津山砦.jpg
淡島の向こうにある山上には鷲津山砦という小塞があったというが、そこに登ったサイトを見たら、苦労して登った割には遺構が明確でなく自然そのまま。でも誰も登城したがらない場所へ来れたという倒錯した達成感はあるみたい。
伊豆の中核・韮山城までに小塞や烽火台規模の砦が山の尾根に点在しているらしい。だから沼津三枚橋の武田軍は陸路で長浜まで来るのは至難だと思うのです。

さっきからところどころにあるこれは何だろうねこの石垣は。これは新しそうだぞ。土手の土崩れを防ぐ為のもので往時の石垣ではなさそうだ。
またもアヤしい石垣4.jpg

腰曲輪へ.jpg
腰曲輪へ。もう見学の体力的な山場は越えました。
腰曲輪は段々になっていた。さっき述べたような敵の上陸を許したら、ここで最初に迎撃することになるのかも知れない。
腰曲輪を見下ろす.jpg
腰曲輪へ下りるジャン妻である.jpg
山の斜面を削って平らにして段々にして敵を誘って高所から狙い撃ちする曲輪です。
もっとも私はさっき述べたように、往時の海戦は船を拿捕、鹵獲、穴をあけて沈める、焼き払う、なので、ここまで攻め入って来る前に引き上げていると思いますけどね。
腰曲輪1.jpg
腰曲輪解説.jpg
腰曲輪を見下ろすジャン妻である.jpg
駿河湾では実際に海戦が行われた。天正8年(年)の船戦(フナイクサ)が有名で、北条五代記では武田水軍が長浜めがけて攻め入ろうとしたと。甲陽軍鑑では北条水軍が出撃してきたとあるそうですが、ここは伊豆だから北条五代記から想像します。
駿河湾海戦.jpg
北条・武田両軍は駿河湾海上で衝突、合いまみえて互いに遠くから飛び道具で弓矢(火矢)鉄砲、あれば大筒などを放ったが、北条水軍の安宅船は船のボディが当時としてはブ厚いので、武田水軍は敵わじと引き上げたら後半は追っかけっこになった。
北条水軍は追い打ちに転じたが、安宅船は大きいので船足が遅い。早足で引き上げた武田水軍は逃走過程で北条水軍を引き離した。
こうなるとどっちが勝者かわからない。海上で船が沈んだり炎上しないと戦果がわかり難い。
巨船で小船を圧倒し跳ね返したから北条水軍の勝ちか、当たって逃げて引き離した辺りは武田水軍の逃げ勝ちにも見えるだろう。陸上から遠目に見ればどっちが勝ったかわからないと思う。

重須へ廻る1.jpg
重須へ廻る2.jpg
重須へ廻る3.jpg
腰曲輪から第一曲輪の下まで上がって裏手へ迂回します。
長浜城は別名を「重須の城」というのですが、裏手の重須には北条水軍の巨大船、安宅船が係留されていたという。
それは県道17号に面しています。往路で神池へ行く際も長浜城の前を走っていますが、駐車場があるかどうかがネックになっていた。
県道17号をそれほど飛ばさないで走ると「あ、長浜城だ」とすぐにわかるのですが、城山から下りてくる細い道(これから下る道)が見えて麓に広い場所があって公園のようになっている。でもくるまは侵入できないようになっている。
私はその広場が駐車場ならいいのにと思ったのですが、そこにあったものは何か上から見るとわかります。
巨大なゾウリムシ?1.jpg
巨大なゾウリムシ??
巨大なゾウリムシ?2.jpg
あの大きさが安宅船の船底か甲板らしい。
巨大ゾウリムシの寸法.jpg
竪堀解説.jpg
そこへ降りる前に竪堀跡の解説があったが、竪堀は埋まってしまい草に覆われて判別できませんでした。
これが最後の石垣ですが、これは後世のものでしょうね。
アヤしい石垣5.jpgアヤしい石垣6.jpg

巨大なゾウリムシ?3.jpg
では安宅船に向かって下山します。ジャン妻の脚が急に軽くなったような。
下りる1.jpg下りる2.jpg
下りる3.jpg下りる4.jpg
下りる5.jpg下りる6.jpg
パタパタはためく三つ鱗の幟の脇をサッサと下りていく。もうちょっと歩く速度を落としてくれないかな。
「あしもとに気を付けてね」と言いながら自分だけ下りていった。
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下りて来た道.jpg
重須ガイダンス.jpg
下りたら公園になっていました。解説板がたくさんあって北条水軍と安宅船に関するものでした。なのでここは写真全部載せます。
安宅ガイダンス解説.jpg
安宅船解説1.jpg
安宅船解説2構造.jpg
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安宅船図解2.jpg
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巨大なゾウリムシは安宅船の原寸大で、船底か甲板を模擬していた。
歩いてみた。トントン音がする。
安宅船の船底2.jpg
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駐車場脇の湾側から登り始めたのでそっちを表とするとこの広場は裏手になります。ここで安宅船が10艘も建造され停泊していたという。
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船大将は梶原備前景宗、梶原兵部大輔、清水、富永、山角、松下、山本といった面々だとか。彼らもこの重須浦一体に居住していたと。昨日の神の池を護っていた鈴木もいたかも知れない。
ここまで見てわかるように長浜城は小さいので居住には全く適していません。井戸曲輪のようなものもなかったし。この規模の小山では掘っても井戸水は出ないだろう。
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天正10年(1582年)の武田家滅亡により、駿河湾の緊張状態は静まったが、その後、梶原氏たちはどうなったのだろうか。
太閤秀吉の小田原征伐(天正18年、1590年)には上方からの大軍勢が山中城、韮山城、下田城をターゲットに取り囲み、この小さい長浜城は無視されたに等しい。
梶原氏は上方から来た水軍と当たって敵わず、小田原開城後は高野山に配流された北条氏直に付いていったというから故郷の紀伊に還ったのかも知れない。

では戻りましょう。その前に最後に振り返ります。コンパクトでよくまとまり見学し易かった。
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バスもあります。は1時間に1本か2本で充分かもです。
駐車場に戻る.jpg
県道の歩道を歩いて駐車場に戻ります。
これが目印です。釣り堀、漁業関係者、そして長浜城見学者だけが利用できます。
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釣り堀&見学者駐車場2.jpg
釣り堀&見学者駐車場4.jpg
平日なので私らは泊まらずに帰っています。私らは普段から観光しないで宿へ直行直帰ばかりしてるので、今日みたいな日帰り観光?を全くしないので、何だか今日はいつもより疲れた。
訪城前にジャン妻が言ったひとこと。「何か後でお楽しみがあるならつきあってあげる」
これは私の財布から出して1回飲みに行った・・・と思います。多分。
コメント(2) 

古墳 [隠れ郷土史]

今日から数日は食べ物の記事、写真は無いです。1月4日の記事で新年最初のランチを駅前熱烈中華・日高屋で済ませ、上州前橋へ月イチの大事大事な届出を不備無く受理され、まだ時間があるので他に2箇所のブツ(申請書類)を持参していました。
ひとつは渋川、もうひとつは富岡(上州一ノ宮)です。どちらに向かうかルートを検索してたら、けやき通りのバス亭手前で、渋川行のバスがちょうど私の目の前を走り去ってしまった。
前橋~新前橋で乗り換えればいいのだが、私は例え短い距離でも一旦戻るのがイヤな性分なのです。新前橋まで戻ってそこから北に向かうのがどうもオモシロくない。たいした距離でもないのに。
よし今日はこの後で富岡にしよう。
(東海道新幹線でもそう。静岡へ向かうのに、新横浜まで戻るのがイヤでイヤで、迂遠でも東海道線で西に向かい、小田原か熱海で乗り換えてます。)
ボックス席.jpg
前橋から上州一ノ宮まで1時間半かかった。久々に乗った上信電鉄の車両は新車で何とBOXシートもあったぞ。
上州一ノ宮駅.jpg
一ノ宮駅構内.jpg
一之宮駅に駅職員がひとりいた。駅で下りたのは私以外に3人。この時はまだ初詣の時期だったので、下り宮で有名な一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)へ向かう参拝客がホームから遠望できた。観光バスが1台重たそうに上がっていったね。
下り宮なので、せっかく上がってもまた下らなきゃならないのだけどね。
私は貫前神社まで上がったことはありますが参拝はしていません。こんなものを見に行っただけです。
https://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2017-03-11-2
庁舎1.jpg
近年こっち方面の業務は草の者6号に任せていたのだが、年明けてから家庭の事情で上京、転勤しているので、私自ら久々2年振りに上州一ノ宮の某庁舎に行ったらまだ前の担当官がいてよかった。
その庁舎内、建物に囲まれた中庭にこんな土饅頭があります。平べったいけど。
古墳です。一ノ宮4号墳といふ。
庁舎内1.jpg
庁舎の建設に伴い平成10年~11年にかけて発掘調査が行われ、調査時には墳丘の殆どは削られていてこんな風に平べったくなっていたそうです。
古墳の長さは48m、幅6m~8mの周濠が廻っていた。埋葬施設は無袖型横穴式石室でこっち側から見えない向こう側にある入口の幅は1m、奥行きは12mほどあった。
こうして書くと自分で調べたようですが他からの転筆です。私は考古学に疎く、古墳なんてあまり興味が無かったのですが、リンクしているヒロ旦那の世界でデッカい古墳を見て、そういえば上州は古墳だらけだったなと思い直した。
縄文弥生の世界はさっぱりアタマに入らない。漢字が難し過ぎる。私が在住している神奈川県内には古墳なんて殆ど残ってないですよ。
庁舎内2.jpg
庁舎内3.jpg
窓越に写すと光が反射してしまう。中庭への入り口は普段は施錠されているが、1箇所だけ施錠されてなかったので、中庭に出てみたの。
庁舎内4.jpg
周囲から職員さんが「アイツ何をしてるんだ?勝手に鍵開けて中庭に出たのか?」のような視線を感じたよ。でも別に悪いことしてるわけじゃないぞ。
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こういうのがあるが為に、庁舎のカタチを凹型にせざるを得なかったのか。

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庁舎内にある出土した埋蔵品の数々。お役所ですがちょっとした考古学博物館の側面もある。
展示物2解説.jpg
庁舎が出来る前の発掘現場の様子。中央右にあるこんもりした丘が現在庁舎の中庭、凹に囲われているもの。
展示物3庁舎建設前.jpg
これは線路脇の発掘現場。石が積んである。
展示物4線路脇に.jpg

展示物5初めて見た史跡指定書.jpg
こういうのを初めて見ました。史跡指定証明書かな。営業許可証に似ている。
ウチの業界は6年で許認可更新ですが、史跡も更新するのだろうか。
認定と発行は県ではなく富岡市です。教育委員会?さっきの過去記事で一ノ宮氏の館跡を問い合わせたことがある。
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そして庁舎を出てダダっ広い駐車場の向こう、上信電鉄踏切脇にもこんもりした丘が見えます。
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堂山稲荷古墳(庁舎内は4号古墳で、これは一ノ宮第3号古墳といふ)全長約48m、後円部の径35m、高さ7m~6m、これも全体的に風化してやや崩れた形をしてますが、何となくそれっぽいのがわかる。
これも2度発掘調査が行なわれ、二重の堀を持っていた。堀の内側には葺石が積まれ、盾持人、埴輪、馬、形埴輪、他、埴輪片が出土した。
3号も4号もこの地を納めた首長の墓と考えられている。
以上は転載です。ホント考古学は苦手なので、こういう土盛りに萌えるだけです。
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登ってみたら小さい御堂がある。これが稲荷堂?
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丘一帯は公園化していた。草木が植えられ、埃や落ち葉だらけのベンチも。お墓を足でズカズカ踏んづけていいものなのか。そういいながら自分もしっかり歩いてますが。
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近隣の人家や踏切一旦停止車両から視線を感じた。でも古墳を理解するには数多く訪れて、できたらこうして登ってみて、埋蔵物も見て覚えるしかないそうです。
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一ノ宮駅ホームで30分に1本程度の上り電車を待つところ。
見てくださいこの古めかしいキップを。職員さんがパンチでプチッて切ってましたから。
昔ながらのキップ.jpg
私は上信電鉄で駅員が常駐している吉井駅で「上信電鉄はいつまで経ってもSUICAに対応しねぇんだなぁ」と難癖をつけたことがあります。
駅員が常勤する駅は限られている。一之宮駅を見る限り全駅がSUICAに対応する必要は無さそうである。
はるなが急浮上した辺り.jpg
ここの駅ホームでで2年前、突如として防災ヘリ「はるな」がアクション映画のように急浮上したことがあるが「はるな」はもう無い。
https://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2016-08-26
https://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2018-09-10
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高崎方面上り電車がキタ。さっき自分が乗った車両が下仁田で折り返してきたようだ。
これに乗って次に向かった先は。。。
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6年振り再訪した小城たち [隠れ郷土史]

我が第二の故郷、群馬ネタ2018年も間もなく終わります。
その次は会津紀行にするか、年末の飲みネタにするか。忘年会に繋がる人間ドラマを新年に持ち越しすのも何だしなぁ。
やはりBlogの記事も旬とうものがあるのですよ。
今日は在庫の吐き出しですが。
https://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-06-04
https://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-05-28
https://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-05-26-1

平成24年4月に群馬に飛ばされ都落ち気分だった私の心境が「いいところだ。この地に何年いられるだろうか・・・」に化学変化し始めた最初の頃に訪問した3つの小城たち。
6年振りに訪れたら、そのひとつには白くて新しい解説板が立っていた。
奥4解説板と城域遠望2.jpg
奥2解説板と城域遠望1.jpg
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あの頃は訪城口にある判読し難い解説板だけだったのに。
奥平氏は三河に移ったと書いてあるが、その後の奥平氏が長篠城に籠ったことは記載されていない。あくまで発祥地とだけ。
奥に踏み込んでもこれといったものが無いそうである。
奥5入口1.jpg
奥6入口2.jpg
この方面の第一人者、余湖先生の鳥瞰図です。
奥平城鳥瞰図.jpg
この辺りの道は県道171号線というのですが、何回も何回も何回も走ったですよ。
初回は道に迷った。迷ったといっても高崎市内だからドン詰まりにならずいずれは何処かに出れるのですが、いつの間にか家々が見えなくなり、田んぼから山中に入り、ところどころで道幅が狭くなり、昼なお暗く、ゆっくり走行していると前方から地元の軽トラが慌ててブレーキ踏んだり、産廃不法放棄を戒める看板、廃屋があり、台風や大雨の翌日は木々の枝や竹が倒れてたりした。それでいて「こんな場所に人家が?」驚くようなところに人家も散見される高崎市内にある山中なのです。
そのうちその狭いくて暗い道が気に入ってしまい、広い国道を走ればいいのものを敢えて自然と隣り合わせの県道171号、203号、繋ぎの49号を何回も走ったのだ。

群馬で知り合い今は都内におられるBlogger、T女史のBlogを見たら、北海道の旅で四稜郭が取り上げられていた。
そこに植えられていた芝生で思い出したのがこれ。高崎市郊外にある。
北斯波5.jpg
北斯波6.jpg
巨大な麻雀卓みたいである。
だけど素人目に見ても防御性が低い。土居は低いし。
敵が攻めて来て籠城したら負けるだけである。
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館か?あるいは非常時に民衆が逃げて来た避難所か?
立て籠もってもアブなそう。逃げて来てもアブないだけだろう。
近所に住まわれているのか?ヤンママが子供たちを遊ばせていた。寝転がってる子もいたね。
無邪気なものだ。芝生のもっともっと下の地中には、450年前の血塗られた遺物が眠ってるかも知れないのに。
北斯波1解説板1.jpg
北斯波2解説板2.jpg
北斯波3解説板3.jpg
北斯波4解説板4.jpg
次に安中市内へ。
安中市内、碓氷川を望む段丘上にある。
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簗2虎口1.jpg
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城主は不明で記録にも残っていないそうです。東に安中城、西に松井田城、その間に位置するので、上州を蹂躙しに来た甲斐軍に対して護らんとする地元一揆衆が繋ぎの為に設けたか、甲斐軍が安中城と松井田城を分断する為に設けたかである。
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今ある遺構は主郭だけでコンパクトなものだが、周囲に立ち並ぶ住宅の場所も、往時は主郭を取り巻く郭だったに違いない。
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またまたこの方面の第一人者、余湖先生の鳥瞰図です。
簗瀬城鳥瞰図.jpg
この城域が印象に残っているのは遺構でも謂れでも何でもなく、人に挨拶すること、それを教えてくれたから。
今回もそうだったのだが、主郭の城山稲荷前でゲートボールをプレイしているお年寄りや、散歩している人、土塁の向こう側に建つ住宅地の人から、見ず知らずの私に対して「こんにちは」と声掛けしてくれた。
「こんにちは」
「どうも」
「こんにちは」
「ああどうも」
ぐらいだが、知らない人に「こんにちは」って言っても別にオカシくも何ともないんだなと気付かせてくれたのがここなのです。
何故、アヤしまれなかったのかわからない。面はゆい気分である。
これが帰京するとそうでなくなる。だって東京の大都会では人がうじゃうじゃいる。すれ違うだけでも数えきれないぐらいだし、数えているバカはいないだろう。いちいち挨拶してたらヘンに見られるし、人が多過ぎてそんなことやってられないもん。
簗8堀2.jpg
2018年が終わろうとしていますが。私ら今年の大河見なかったです。戊辰の新政府軍ものは嫌いです。会津攻は描かれたのかな。
週末の夕食時はこれを見てました。
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大河2.jpg
完全版買っちゃったんですよ。ジャン妻のたっての希望で。
全編的に暗いストーリーですね。昨夜が第34回「上州攻め」だったのですが、そのタイトル見て「ついに故郷に攻めてくるのか」と思ったよ。飯富兵部と武田家嫡男・義信の謀反事件の後、信玄が諏訪勝頼を伴って西上野の箕輪城へ出兵したお話だった。
箕輪城攻めが勝頼の初陣だなんて知らなかったな。
箕輪城は陥落、城主の長野業盛(業政の子)は自刃する結末は存じていましたが、ドラマの構成上いきなり箕輪城攻めに入っている。でもその前哨戦がここ簗瀬や松井田、安中アルプス、里見川流域でもあった筈です。
甲斐に戻ってしばらくしたら義信は自害、暗い内容だったな。
裏では駿相の甲斐塩止めが始まっている。
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