SSブログ
船山温泉近郊ネタ ブログトップ

船山温泉99の謎139 道の駅 峯の城 [船山温泉近郊ネタ]

中部横断自動車道は、本年度9月に下部温泉早川IC、身延山IC、南部IC、これが完成する予定だそうです。そうなれば東名高速&新東名高速と中央高速が南北に結ばれる。
神奈川、静岡方面からの宿泊客誘致に加えて、西東京方面からの宿泊客誘致も期待できるというものだが、このコロナ禍ではなぁ。
「君は太平洋を見たか、僕は日本海を見たい」これにプラスしてT館長は「だったら君は船山温泉を知ってるか?」と声を大にして言いたいところだろう。
私は中部横断道は使わないで、東名高速の富士川SAでこれまで走った52号線(富士川街道、身延街道)に下りて、富士川に沿って北上するルートを走りたい。一度、中部横断自動車道で新清水ICから新東名に入ったが、それだと走行距離が長くかかる。
日曜日の下り東名高速道が思いっきり空いてたので、12時半くらいに南部町に入ってしまった。
時間を潰すにしても観光地なんかないし、人混みは避けたい。そこで閃いたパーク地がある。道の駅南部、そこには私の中での船山温泉近郊ネタで最大のテーマがある。
道の駅1.jpg
道の駅2.jpg
道の駅だから国道52号沿いです。船山温泉方面に左折しないで北上、南部路の前を少し北上する。南部路は刺身蒟蒻とカツ煮がメチャ美味しかったな。
https://funayama-shika-3.blog.ss-blog.jp/2018-05-03-1

「光行公の像がある筈だが」
「???」(ジャン妻)
「あ、あったあった」
幕末まで続いた盛岡藩、支藩に八戸藩、七戸藩といった奥州南部氏の始祖、南部三郎光行公です。
光行公1.jpg
光行公2.jpg
ジャン妻はまた私がヘンに偏った自己的趣味に自分をつき合わせるのかというカオをしていたが、まだ宿入りする時間には早いので、シブシブ下車した。
駐車場は満車に見えますが、施設内にはそんなに人がいなかった。台数が少ないからだろうか。
ほぼ満車1-1.jpg
ほぼ満車2-1.jpg
ほぼ満車3-1.jpg
道の駅3-1.jpg
道の駅4-1.jpg
道の駅5-1.jpg
道の駅6-1.jpg
道の駅、メインゾーンには野菜、果物他、物産がたくさんあった。地場のものだけでこれだけのスペースは埋まらないだろうな。山梨県内全域から集めているのでしょう。
でも私はそういうのに興味がないんだ。南部氏関連は何処だ?どこにある?
船山温泉が載ってないじゃないか.jpg
南部町一帯のMAPがあった。
「船山温泉が表記されてないじゃないか」
「船山は観光地じゃないでしょ」
「十枚荘温泉もないぞ」
「・・・」
温泉マークだけあった。
展示室1.jpg
南部氏の展示室を見つけた。入ってみる。でも誰もいないぞ。
展示室2.jpg
誰も興味を示さないのかな。これが奥州だったら見学者が何人かいるだろう。哀しいかな山梨県南部町、南部氏発祥地とアタマではわかっていても、県外からの来訪者にとっては「それ、何?」なんだろうな。
HPには「南部氏の歴史を紹介する「南部氏展示室」南部氏は奥州の武家として知られていますが、実はここ南部町が発祥の地です。南部氏の歴史や町内に残る南部氏ゆかりの史跡などを紹介しています。」
やはり甲斐国は武田なんだろうね。南部氏がこの地発祥ということを知っても知らなくても日常には不自由しないしね。
解説1.jpg
南部氏の解説です。発祥地がここであること。奥州での繁栄に繋がること。
解説2.jpg
南部三郎光行公は、源頼朝率いる奥州平泉征討軍に従軍して武功を挙げ陸奥国を拝領、それまで領していたこの地、甲斐南部領は三男の実長に割譲した。実長を南部破切の六郎という。
波切?南部町の北隣、身延町に波木井という地がある。破切=波木井らしいです。
実長の子に長義という人がいて、この人の系譜が波木井に土着、代々波木井氏を称する。
奥州の南部氏は中世を生き抜いて繁栄したが、甲斐の波木井南部氏はというと、
「甲斐では宗家南部氏と波木井南部氏が南部と身延を治め、南北朝の頃までは奥州との間をしばしば往来していた。しかし、移住もあって徐々に衰退、大永7年(1527年)波木井南部氏が武田信虎に滅ぼされたことにより、甲斐の南部氏は歴史の表舞台から姿を消すことになってしまった」
解説3奥州へ.jpg
船山温泉T館長は「ウチを南部の隠し湯にしようかと考えたんですが」
でも船山の開湯は明治45年と聞き及ぶ。ちと時代考証的に無理がある。開湯から遡っておよそ400年前に南部氏は滅んでいるからである。
400年前とはいつ頃か。どこで滅んだか。年表があった。ある箇所が大事で、その記載もあった。
解説4年表1.jpg
解説5年表2.jpg
「大永元年(1521年)今川氏親の将、福島正茂が甲州河内に侵攻、波木井義実(波木井南部10代)と穴山信風(信綱)はやむなく今川勢に味方し、大島(甲斐大島)で武田勢と戦う。その後今川勢が府中に進軍」(穴山信風は武田信虎に降伏、従属しています。)
「大永7年(1527年)波木井義実は今川勢に加担したことで武田の軍勢に襲われ、本郷(現・南部町)峯ノ城にて全滅した。これにより波木井南部家は滅亡したという。※15」
本郷とはまさに船山温泉のある地名です。むかしむかし湯治場だった時代は「本郷の湯場」と呼ばれたともいう。
解説6滅亡の箇所1.jpg
解説7滅亡の箇所2.jpg
解説8滅亡の箇所3.jpg
※15は出典です。「南部町伝承」とあった。
出典は伝承による.jpg
南部町伝承とありますが、裏付ける史料は甲斐国誌、それには、
「大永中福島上総乱入ノ時、波木井三河守義実此ニ党スルニ依テ、武田信虎ノ為ニ峯ノ城ニ於テ責殺サルトアルモ此城ノ事ナルベシ」
大永年間(1521年~)駿河今川氏の福島(クシマ)上総介が甲斐に侵攻、波木井三河守義実が今川方の福島を手引きしたが為に「峯ノ城ニ於テ責殺サル」峯ノ城で武田信虎に攻め滅ぼされたという記述で、南部町アルカディア図書館にあります。
武田信虎に攻め滅ぼされた波木井義実は、馬上像の南部氏の祖、三郎光行に同行せず甲斐に残った三男、実長の系譜で数えて十代目、船山温泉を含めた南部町身延町、河内一帯を支配していた。
南部氏の末裔である波木井義実が滅亡した場所はお隣の身延町にもあって、そこには波木井という地名や波木井城があるし、1984年には身延町の南部氏館跡発掘調査報告書が出ている。場所は南巨摩郡身延町梅平という場所です。検索するとPDFで見れます。
だが身延の波木井には甲斐国誌でいうところの「峯ノ城ニ於テ責殺サル」峯という地名はないようである。
峯という集落は船山温泉のすぐ北方にあって、南部町誌には波木井義実が滅んだ場所の推定地としてこのような記載があった。
「峯ノ城は波木井義実に関係した城と記され、北川の一段低い所に波木井氏の子孫が祀る社が建てられている。身延町に波木井城があり、波木井氏の峯ノ城とも呼ばれていることから、ここも峯ノ城の比定地の一つとして位置づけられる」(南部町史)
この辺りの記述において、南部町と身延町が学術論争に及んだという話は聞いていない。私も南部町史だけで身延町史は見てない。船山温泉が南部町にあるからそっちに偏っただけである。
だけど私の中ではこれまで大人しくしていた南部町が、道の駅内にある史料展示室に堂々とその旨を明記したのが大事なのだ。ハッキリここ南部町で滅んだと言い切っているのだから。
波木井義実が滅んだ峯ノ城は船山温泉の北東、高台にある集落にある。波木井山ともいふ。
(今回、船山に泊まった翌朝に撮影)
峯の城1.jpg
峯の城2.jpg
峯の城3.jpg

位置関係はこうなっている。
位置関係1.jpg
位置関係21.jpg
位置関係2.jpg
位置関係3.jpg
船山温泉のすぐ近くではないかい。
武田信虎軍が攻め寄せた時、船山にも矢が飛び交う音や喚声が聞こえたのだろうか。
位置関係22.jpg
峯ノ城には2010年、船山温泉のT館長と同行した。
その前、2009年に幾つか証言を得ている。

証言1、峯集落にお住まいの農家のオバちゃん、
「坂を下ったところにうちの田んぼがあってそこに大きい岩があるの。岩の辺りは誰かが斬られた場所だって聞いた。」
刀で斬る仕草、槍で突く仕草をしながら、
「斬られたか槍で突かれたかわかんないけど、そういう怖い場所だって。こんなコワイ話、今までしたことないよ」

同じく2009年、証言2、峯ノ城入口にある畑を耕していた耳の遠い爺さん、城域を指しながら、
「中は潰しちゃった。知っている年寄りはもうおらんね」

2009年以降、いつだか忘れたけど証言3
穴山信懸(ノブトオ、穴山氏五代、波木井義実と共に今川を手引きした穴山信風の父)の墓近くで出会った爺さん、
「公民館を建てた時にあの辺りを掘ったら石垣と人骨が出て来た。光行の墓じゃないかって」

2010年晩秋、私が週1日勤務していた弊社の支店に、ひとりのお爺さんが来られた。
新患だったので、待合にご案内して初回問診票の記載をお願いしたら、そのお爺さんのお名前が「波木井」だったのです。ハキイとフリガナまで振ってくださった。
「もしかして身延の方ですか?」
「うん」
「では南部氏の末裔?」
「先祖がね。義実でしょ」
お爺さんははっきり義実(ヨシザネ)と言われた。

2015年「甲斐武田を探検」サイトに峯ノ城に碑が立った旨が掲載されていた。
https://ameblo.jp/mnrhanz1/entry-12430684379.html
そこの管理人、みんさんに連絡して情報交換をしたことがある。城域にある御堂を波木井堂といって、そこには大小の石碑が2つあって、大きい方には波木井六郎実長、もう一つの小さい方には、十一代波木井三河守義実とあるそうです。
他、武田信虎が攻めて来た時の戦死者を供養する千人塚があって、それらの碑は波木井氏の子孫の方が建てられたという。
その後、2016年に行ったら、峯ノ城域は獣害対策の電気柵が取り巻いていた。峯ノ之城だけでなく、集落のあちこちが電気柵だらけになり、里の者たちが電気柵に閉じ込められた感があった。
https://funayama-shika-3.blog.ss-blog.jp/2016-10-07

船山温泉のある南部町は「奥州南部氏発祥の地」と謳ってはいるが、これまでは謳っているだけで、アピール度は歯痒いくらいに薄かった。
外来者へのアピールは、この道の駅南部で初めて打ち出されたといっていいのではないか。

だが、私の中ではまだ新たな謎がある。これです。
位置関係23謎1.jpg
山城神社についてはすぐわかった。御祭神は波木井実長、南部三郎光行(南部城主)の実子で、奥州に下向せずこの地に残って波木井氏を名乗った最初の武人です。
では山城の鼻とは何のことか?
山城といえばみ52号線が潜るトンネルの山上に「荒れた状態です」(南部町役場)放置状態の南部城山(ジョウヤマ)があるが、そこから西に離れていて山続きとも言い難い。鼻とは何のことなのだろうか。
位置関係24謎2.jpg
もうひとつ、これは明記されていなかった。
標柱10南部光行だって?2.jpg
https://funayama-shika-3.blog.ss-blog.jp/2021-01-03-1
前回の船山行で訪れたこの標柱は、船山温泉から峯集落に向かう坂道の途中を右に下りた辺りにある。茶畑の中にあるので全文は確認できないが「館跡に向って左奥に井戸と泉水の跡がある。尚、石積みは鎌倉時代以前の平石積みである」という。
この館跡は展示室には明記されていなかったな。内容も場所も。
あの茶畑の館跡標柱は末裔の方が独自に立てたのだろうか。
光行公3.jpg
解説9系図1.jpg
解説10系図2.jpg
南部氏の郷.jpg
南部氏はこの地で滅んだ義実以降も血脈は残った。他へ落ち延び、武田の勢力が盤石になった頃に戻ってきたら南部町一帯は穴山氏が支配するところとなっていたので、南部や波木井を称するわけにいかず姓を変えたという。(近世こもんじょ館、サイトから。)
その姓もわかっていますが、それは本稿とは別カテゴリになるかな。この稿では南部町が道の駅南部に滅亡の地である旨を初めて外来者にアピールしたということにしておく。
見学者は私だけだったけど、コロナ禍が収まったら、奥州盛岡の南部氏関連の方々もこの地に来訪されるかもしれないが。

山城の鼻とは何なのだろうか?
コメント(4) 

船山温泉99の謎 138 山梨県熊出没状況2020年10月22日夜。。。 [船山温泉近郊ネタ]

熊出没注意2.jpg

夕餉、ディナーの途中、料理を運んできたスタッフのKさんに、
「何年?」
「もうすぐまる〇年になります」
「へぇ、そんなになるんだ。永年勤続表彰もんだ。よう辛抱したなぁ。エライエライ」
旅館業を永く勤めるには辛抱が肝心だって。
「〇年もいると、この辺りでいろんな動物を見たでしょう?鹿とか?」
自分でもこの時、何でこんなネタをKさんに振ったのかワカラン。何かピンときた、直勘のような閃きがね。
Kさんが言うには、
「いますいます。夜、帰りに鹿の群れに遭遇したり。カモシカが1頭、棲みついているんです。猿は前の森をザーッと群れが動くんです。」
「私は船山で動物を見たことはないな。楮根で猿を見たくらいだ」
「それと秋にウチの館長と女将さんが、静山の湯から見える堰堤のもうひとつの先(堰堤を指した)の堰堤辺りで、熊に出くわして」
「えっ!」

ツキノワグマ1.jpg

Kさんが去った後、
「見たんだ」
「またネタにするつもり?」
もちろんである。
「前に出なかったっけ?」
「あの時は足跡。裏手の山で」
船山温泉では2009年の秋、裏手の山でツキノワグマの足跡が発見されている。
足跡の大きさ、踏み具合からして「そこそこの大きさと思われますね」(T館長)
この時のクマ公は、同じ南部町にある十枚荘温泉の奥、成島の釜の口という場所か、十枚山の東斜面に生息していたクマがノソノソやってきたと推測されている。
でも食事の延長でこの晩には聞かなかった。「見たんだって?Kさんから聞いたぞ」ではなく、何か公式な裏付けをとってT館長に聞いてやろうと思ったのである。でないと後でKさんが「あの人(私のこと)にヘンなネタを提供するんじゃない」ってT館長から怒られかねないからな。
その日は飲んで食って寝ただけですが、翌朝、目覚めて意識と記憶が戻った私は、山梨県のHPを検索してみた。キーワードは、山梨県、クマ出没情報、これだけでTOPにあがってきた。
山梨県のHPに「ツキノワグマ出没に対する注意について」という頁があって、
https://www.pref.yamanashi.jp/midori/kuma2.html
その頁に、2020年度ツキノワグマ出没目撃情報(2020年12月16日現在)というPDFデータがある。2020年4月1日から総計144件もの目撃情報が載っていた。神奈川県では52件なので3倍近い。

クマ1.jpg

それには日時、目撃地市町村、場所、天候、目撃地のクマの様子、目撃者の行動、目撃した環境(道とか山林とか)、人的被害の有無、子熊か成獣か、目撃頭数、目撃後の対応などなどが載っている。
https://www.pref.yamanashi.jp/midori/documents/r2_1216_mokugeki.pdf
人的被害が生じた件は赤で塗り潰されていた。

クマ2.jpg

12/13で目撃情報が途切れている。おそらくもう冬眠に入った頃合いだろう。
その中から船山温泉がある南部町の目撃情報をピックアップしたらでるわでるわ、15件ほどもあったぞ。

53 2020/7/8 11:00頃 南部町御堂地内 道路脇から現れ威嚇してきたが、大声を上げたら逃げた。成獣
57 2020/7/10 14:00頃 南部町楮根地内、道路を横断し、山の中に向かっていった。子熊
65 2020/7/16 - 南部町御堂地内、水田から山に向かう足跡を確認した。成獣
72 2020/7/19 18:30頃、南部町下佐野地内、道路上にいた。子熊
73 2020/7/20 11:10頃、南部町下佐野地内、道路上にいた。子熊
77 2020/7/22 5:00頃、南部町中野地内、道の駅付近(フェンス外)にいた。成獣
83 2020/7/29 6:00頃、南部町福士文京区地内、有害捕獲調査中に目撃。子熊
85 2020/7/31 16:30頃、南部町下佐野地内、道路上にいた。子熊
108 2020/9/6 11:30頃、南部町塩沢地内、鳥獣柵の内側にいたが、柵を乗り越えて山に戻った。不明
119 2020/10/15 6:00頃、南部町井出地内、線路と河川の間、県道沿いにいた。不明
127、2020/10/22 10:00頃、南部町内船字上地内、成獣、詳細不明
130、2020/10/26 8:30頃 南部町中野地内、成獣、詳細不明
133、2020/10/27 9:00頃、南部町本郷地内、河原にいた。成獣
135、2020/10/28 16:30頃、南部町福士地内、自然歩道上にいた。成獣
137、2020/10/31 18:30頃、南部町福士地内、遊歩道沿にいた。成獣

成獣とか子熊とかは私が書き直しています。原文にはオトナ、コドモとあった。

船山温泉のある南部町では、1970年頃から植林地保全の為に熊狩りが始められ、各地に檻が仕掛けられて捕獲され、数は減ったといいうが、それでもこれだけの目撃情報がある。
クマ公は行動範囲が広く、移動する距離も長いので、県内で再度目撃されてダブルカウントされ、実際より多く生息していると誤認されるケースはあるらしい。エントリーナンバー72、73、85、下佐野地区内で目撃された子熊ちゃんは同一個体かもしれない。135と137も同じではないか。

さて、この中で、エントリーナンバー127、2020年10月22日の目撃情報は、

「2020/10/27 9:00頃 南部町 南部町本郷地内 晴 河原にいた - 河川敷 無 オトナ 1 防災無線にて注意喚起 関係機関と情報共有」

クマ3.jpg

ははぁん、これだな。
南部町本郷ったらまさにこの場所一帯だし。河原にいた?河原ったら船山川しか考えられないじゃないか。
だけど、目撃者時の目撃者の行動が−(マイナス)になっているのは何故だ?

その辺りは後で聞きだすとして、フロントにいるであろうT館長にメールした。
「おはようございます。
山梨県のツキノワグマ出没状況を見たら、本年度は144件ありました。
その中で10月27日9時、南部町本郷の河原での目撃例を発見しました。
河原とは船山川ですかね。
もしかして目撃者はTさん?」

食事処ふじで朝飯食ってたら、T館長から返信がきて、
「キタ」
「何が?」
「Tさんから。さっきのネタで。〇〇さん(私のこと)さすがです。遭遇しちゃいました。朝食の後で」
絵文字付きで何だかウレシそうだった。

で、食事済ませてからフロントに行ってT館長を呼び出したのよ。バレてしまったかシブシブってな感じで出てきた。
「見たの?」
「見たんですよ」
「あっちの河原で?」
「そうです。お風呂から見える堰堤の先に二つめの堰堤があるじゃないですか。前に上流の方へ探検に行ったあの辺りの河原にいたんです」
「何しに行ったんです?」
「ウチで飼ってるネコの親が山に棲みつくようになっちゃって、夜に女将さんと捜しに行ったんです。」
「2人で夜に行ったの?これにある9時頃ってのは朝、午前中じゃなくて夜なんだ」
「そうです。夜です。裏手の山を上がって探してたら鹿が2頭いましたね。そこから先に歩いてって、懐中電灯の先に目が光って、女将さんと、何か光ってるよ、もしかして、ってなってビックリして。」
モソモソした黒い影が浮かび上がったという。

どれくらいの距離で?
「自分たちが立ってる先の100mもない距離にいたんです」
目が光ったからこっち向いてるから、ヤバイっ熊だってなって、もう2人して100mを9秒でダッシュして逃げ帰りましたよ。」
100mを9秒でダッシュして逃げ帰ったと?
「あんなに速く走れるものなんだなと思いました」
「クマに遭遇する時って背中を見せて走って逃げるとアブなくない?本能的に追いかけてくるんじゃないの。こうやって(後さずりする真似)クマに向き合ったまま、ゆ~っくり後退するとか」
「いやいやいや〇〇さん(私のこと)そんなにね。遭遇したらそんな冷静になれるもんじゃないです」
だから目撃時のも目撃者の行動が横棒になって何も記載されてないわけか。他の目撃譚を見ると冷静に対処した例が多いけど。まさかクマに背中を見せて猛ダッシュして逃げ帰ったなんてことを記載したら、見た誰もが「クマからはそうやって逃げれるのか」と誤解するからね。

マンガ?.jpg

「クマは河原にいたんでしょ?」(ジャン妻)
「そうなんですけど、クマってウチのオヤジ(先代、四代目)が言うには、爪でこうやって(ひっかく真似)ガリガリってやって上がって来れるんですよ」
凄い身体能力である。
「で、逃げ帰った後は」
「地元の猟友会に連絡したんですけどもう遅いし。狩猟の時期は過ぎてるので捕獲できないし、情報共有とパトロールだけですね。猟師さんも高齢者になって数が減ってきてますから」
船山温泉のご先代は猟銃免許と狩猟免許をお持ちだと聞いたことがある。でもその方面からは引退されている。
銃って重たいし、免許更新の際に本人の診断書が必要で、精神疾患がないとか認知症でないとか、家族に銃を悪用する人がいないとか、いろんな証明が要るのです。
実弾一発毎に使用状況を細かく帳簿につけなきゃならない。麻薬小売業と似た世界です。
鳥獣保護機運が高まったのもあって、駆除すると外野からあーだこーだ言われるし、そんなんじゃぁやってらんないってのもあるみたい。
T館長も猟銃免許と狩猟免許取得を考えたこともあるそうだが、館長自ら山をウロつき回ったら肝心の旅館業が留守になってしまうからね。
若女将さん(この後現れます)が免許取って「狩りガール」になるとか。

なので今回目撃されたクマは駆除されていません。山梨県のHPに載っただけです。クマ君は県内の山里でノソノソして冬眠に入っただろう。

クマ君冬眠.jpg

冬眠しそこねたクマはアブないっていうね。
動物園のクマは冬眠するのかね。

「目撃場所が載るにしても、ウチの敷地内のように記載されるのは困るのですが。でも南部町本郷の河原って言ったら、誰がどう見てもウチなんですよね(苦笑)」
そこで館長はおそるおそる言うには、
「これ、ネタにします?」
「する。何で?」
「う~ん」
「だってもう山梨県のHPに載っちゃってるし。堰堤から先は山なんだから」
T館長はシブシブという感じだった。「ついに遭遇してしまいました」とも言っていた。これまではなかったそうである。
「宿の敷地内に現れたんじゃないしさ。それにクマならそこにもいるでしょ」
「???」
この子です。
熊さん.jpg
この子がどういうツテでいつからいるのかは知らない。私は剥製ってあまり好きじゃないので。船山温泉を紹介してくれたBANTOUさんもそう仰ってたな。

「自分が遭遇する前に、近くの中野ってとこでも目撃されてるんですよ。ホラ、前にご一緒した桜の辺りに」
それはエントリーナンバー130、2020/10/26 8:30頃 南部町中野地内、成獣、詳細不明とある。
昨日の記事で、波木井三河守義実が斬られた?岩の辺りにある「本郷の千年桜」の辺りだという。あの辺りは農地だが、家々もあるし。
「同じ個体かな」
「いや、違うと思いますね」
「河原に何しにきたんだろ」
「おそらくエサを探しに・・・」
畑を荒らしにきたな。お腹が空いてたのだろう。そしたら厨房から女将さんが空いた皿を下げる台車を押して出てこられた。
「ねぇ〇子さん(女将さんの本名)クマ見たよね?」(T館長)
女将さんは固まった。イヤなことを思い出させて顔が蒼ざめたような。
「ええ、もうあれからトラウマになっちゃって」
ニコリともせず言っておられた。夜に出歩きたくないでしょう。でもそういう場所に嫁いだんだからしゃぁないよな。
「その晩、ネコを探すって、タマでもミケでも、おぉ~い、タマぁ、とか呼ぶんでしょ。そしたらクマ公が、うん?呼んだか?ってカオをこっちに向けて、目がキラッと光ったわけか」
そこにいた全員がドッ白けて苦笑いになった。
「現場を見に行ってくる(ジャン妻)」
「止めなさいっ」
「行ったことありますよね」
そりゃ過去の写真でも使えなくはないけど。やっぱりリアルタイムで撮った最近の写真の方がいいんだ。
「実地検分が大事なんだよ」
私はいったん部屋に戻って、頃合いを見計らって裏山に行った。
裏1.jpg
裏2.jpg
2009年にクマの足跡が発見された場所を見上げてます。
裏3数年前に足跡が見つかった場所.jpg
その先へ。今は陽が昇って明るいが、この広場を夜に歩くのは危険かもな。
裏4この道を100m9秒で走った.jpg
裏5.jpg
第二の堰堤が見えてきた。船山温泉の敷地自体は広大で、T館長は「今は二束三文の土地です」なんて言ってたけど、いったい何処までがTさんの敷地なのか、何処からが国有地なのかよくわからないところがある。
裏8二つめの堰堤1.jpg
裏9二つめの堰堤2.jpg
裏10二つめの堰堤3.jpg
目撃したのはこの辺りだろうか。
そういうことにしておこう。まさかクマいないよな。ああいう話を聞いた後だから警戒した。
でももう12月後半だから冬眠に入ったと思う。冬眠しそこねたクマはキケンだともいうが。
裏7遭遇現場想定2.jpg
裏11遭遇現場想定3.jpg
目撃した晩にこの道を100mを9秒のスピードで走ったってか。
クマは時速40kmで走ると何かで見た。
T館長と若女将さんが走った時速は何Kmかというと。
1時間=60秒×60分=3600秒だから、36000秒/9秒×100m=40000m・・・
1km=1000mだから、40000m/1000m=40km・・・
時速40km!
クマと同じである。(合ってますよねこの計算?)
裏6遭遇現場想定1.jpg
さっきその生々しい話を聞いたばかりなので多少の緊張を伴ったが、無事に宿に戻りました。
裏12船山館を見下ろす.jpg
山梨県は四方を海で囲まれてるからどこでもクマと出あう可能性はあるよ。
猟師が山の中でクマに遭遇してもいちいち報告しないだろうからね。クマが餌を求めて活動しているうちに人里に出没して人間と出遭い頭で遭遇するケースが多いから騒ぎになる。記事や記録に載らない目撃談もあると思うが、人里に現れるようになってから件数が増えた。
でもクマたちにしてみれば山は自分たちのテリトリーで、そこへ闖入してきたのは人間じゃないかと言いたいだろうね。
クマさん1.jpg
クマさん2.jpg
クマさん3.jpg
ツキノワグマは臆病な性格だというが。ヒグマと違って積極的に人を襲うことはないという。でも危険なのは出会い頭。クマが身の危険を感じた場合には攻撃してくると。
懐中電灯で照らしたってのが凄いよな。クマも「何だ?」ってびっくりしたんじゃないか。
では最後に船山温泉で過去に試験的に出された熊鍋の写真を載せておきます。
実は私、熊肉、食べたことあるんです。
猪熊鍋共演2.jpg
熊鍋1.jpg
「ホントの猟師さんの熊鍋は肉だけで、野菜なんて入れないんです」
「水1:酒1の比率で、2日で5時間煮込みました」
「オプションで出したい気持ちはあるんですが。煮るのに時間がかかって。これだけの為に厨房で人が見てないといけないので、宿で出すのは無理かなぁ」
だそうです。私もこれきり食べてない。煮込んだ時間が長かったので肉は固くはなかった。肉というより殆ど脂身でコラーゲンたっぷりの醤油味でした。
コメント(6) 

船山温泉99の謎 137 新・南部氏館跡 [船山温泉近郊ネタ]

船山温泉のある南部町は、奥州南部氏発祥の地、南部氏の郷と謳っている。
「ウチの温泉を南部の隠し湯って謳おうかと思ったのですが」(船山温泉T館長)
そりゃ無理があるんじゃない?船山温泉の開湯は明治中頃だから、武田の隠し湯と言っても無理がある。南部氏はとっくに滅んでいます。
南部氏の郷.jpg
その南部氏の館跡は、南部町旧商店街から逸れて富士川の土手の傍らにあります。
南部館1.jpg
南部館2.jpg
そこから近くを通る52号線(身延街道、富士川街道)で船山温泉に向かう手前、最後のトンネルの上に南部城山がある山が連なっていますが、前述の館の詰城なのかどうか。後世の狼煙台とも。
私は登ったことないです。城山公園と謳っているが、南部町役場に問い合わせたら「荒れて自然に還っています」とのことであった。
南部城山.jpg
無理して城域に登られた方のサイトもありますが、荒れ放題で森、雑木林の感があった。狼煙台の説明板が落ちていた。

南部氏の館、城塞、滅亡の地についてですが。
ここに一遍の記述があります。
「大永中福島上総乱入ノ時、波木井三河守義実此ニ党スルニ依テ、武田信虎ノ為ニ峯ノ城ニ於テ責殺サルトアルモ此城ノ事ナルベシ」
(南部町史、甲斐国誌)

この記述は、南部町のアルカディアという施設内にある図書館で見つけた。大永年間(1521年~)駿河今川氏の福島(クシマ)上総介が甲斐に侵攻、波木井三河守義実が今川方の福島を手引きしたが為に「峯ノ城ニ於テ責殺サル」峯ノ城で武田信虎に攻め滅ぼされたという記述です。

波木井三河守義実とは何者か?
幕末まで続いた盛岡藩(支藩に八戸藩、七戸藩)南部氏の始祖に南部三郎光行という人がいて、源頼朝率いる奥州平泉征討軍に従軍して戦功を挙げ、それまで領していた甲斐の南部郷(船山温泉のある南部町)を離れて陸奥国を拝領した。
自身は奥州に赴任せず、鎌倉にあって統治したかもしれないが、奥州に赴任したとして、三郎光行は甲斐南部領を三男の実長に割譲した。
実長は骨太い気質で、鎌倉幕府から睨まれた日蓮を身延に保護したという。この実長を南部破切の六郎というのですが、南部町の北隣、身延町に波木井という地がある。破切=波木井です。そこにいたとも聞き及ぶ。
実長の子に長義という人がいた。この人の系譜が波木井に土着、代々波木井氏を称する。
信虎に攻め滅ぼされた波木井義実は、前述の南部氏の祖、光行に同行せず甲斐に残った三男、実長から数えて十代目だそうです。船山温泉を含めた南部町身延町、河内一帯を支配した。
船山温泉一帯も知行していたといっていい。

武田信虎に滅ぼされるまでは。

2010年の晩秋、当時、私が週1日勤務していた社の支店にひとりのお爺さんが来られた。
待合にご案内して初回問診票の記載をお願いしたら、そのお爺さんのお名前が「波木井」だったのです。ハキイとフリガナまで振ってくださった。
「もしかして身延の方ですか?」
「うん」
私は敢えて身延と言っています。
「では南部氏の末裔?」
「先祖がね。義実でしょ」
お爺さんははっきり義実(ヨシザネ)と言ったのです。南部氏の祖、義光でも分かれた実長でもなく、滅ぼされた義実のお名前を言われたのです。
帰り際、ご先祖を訪ねられたのが満更でもなかったのか、ニンマリしながら帰られましたよ。
身延町には波木井城がありますが私は今日まで行ったことがありません。波木井氏はそこにいて、滅んだというのが定説になっているようです。
1984年には身延町の館跡発掘調査報告書が出ています。

だが身延の波木井には「峯ノ城ニ於テ責殺サル」峯という地名が見当たらないのだ。
異説があります。
峯という集落は船山温泉のすぐ北方にあるのだよ。
その地について南部町誌には、波木井義実が滅んだ場所のあくまで推定地としてこう記載されていた。
「峯の城は波木井義実に関係した城と記され、北川の一段低い所に波木井氏の子孫が祀る社が建てられている。身延町に波木井城があり、波木井氏の峯の城とも呼ばれていることから、ここも峯の城の比定地の一つとして位置づけられる」
その一帯にある山を波木井山という。(過去の写真)
波木井山1.jpg
波木井山2.jpg

2009年に訪れ、城域を見て廻り、野良作業している地元の方に聞いて回った。
(峯集落のオバちゃん)
「坂を下ったところにうちの田んぼがあって、そこに大きい岩があるの。岩の辺りは誰かが斬られた場所だって。斬られたか槍で突かれたかわかんないけど、そういう怖い場所だって。こんなコワイ話、今までしたことないよ」

これがオバちゃんの言う「誰かが斬られた」という辺り。
稲刈りしている地元農家の方が私らを訝しげに見ていた。
誰かが斬られた場所.jpg
(峯之城入口の畑を耕していた耳の遠い爺さん)
「中を(遺構を)潰しちゃった。知っている年寄りはもうおらん」
城域に入ってみたが、自然地形にしか見えなかった。地形的には10年以上経った今もそう変わらないと推定されます。
波木井山と社(右手に墓).jpg
城域1.jpg
城域2.jpg
この竪堀みたいなのは後世の崩れらしい。(南部町史)
竪堀か?.jpg

虎口?.jpg
土塁か後世の壊変か.jpg
(後日、穴山信懸(ノブトオ、穴山氏五代)の墓近くで出会った爺さん)
「公民館を建てた時に、あの辺りを掘ったら石垣と人骨が出て来た。(南部)光行の墓じゃないかって・・・」
この公民館の中に、南部氏関連の何かが仕舞ってあるとか言うてたが、それが南部光行公か、実長公か、滅んだ義実公かはわからない。
公民館.jpg
波木井山には2010年に船山温泉のT館長と同行したことがある。
「峯という集落は確かにありますよ。お話を伺った方はおそらくあの辺りだと、○○さんか、△△さんか」

2015年、「甲斐武田を探検」サイトに峯城に碑が立った旨が掲載されていた。
https://ameblo.jp/mnrhanz1/entry-12430684379.html
私はそこの管理人、みんさんと連絡を取り、自ら碑を確認しようと行ってみたら、峯之城域は獣害対策の電気柵が取り巻いていたのです。
こじあけて入ろうと思えば、いや、普通に開けて入れそうだが、感電するのもバカらしいので断念した。
電気柵1.jpg
電気柵2.jpg
峯之城だけでなく、集落のあちこちが電気柵だらけになり、里の者たちが電気柵に閉じ込められた感があった。
前述の「甲斐武田を探検」みんさんによると、波木井堂の裏には石碑が大小二つあって、大きい方に「波木井六郎実長」もう一つ、小さい方には「十一代波木井三河守義実」とあるそうです。
他、信虎が攻めて来た時の戦死者の供養塔、千人塚がある。それらの碑は波木井氏の子孫の方が建てられた。
この写真は当時、みんさんからお借りしたもの。
甲斐武田を探検.jpg
みんさんに電気柵写真を送ったら、「まさに難攻不落ですね」と仰っておられた。

以下の暗い写真は2009年に訪れた時、本郭(波木井堂の辺り)から南に下る尾根道です。
そのまま行くと南の集落に出そうなので、逆にそっち側(南側)から登れば城域に入れるかも知れない。
波木井山4.jpg
南へ伸びる尾根.jpg

波木井山5.jpg
甲斐に残った南部氏最後の当主である波木井三河守義実は、甲斐統一を目指す武田信虎と、駿河から侵攻して来る今川氏親の間で微妙な立場に置かれ、去就が難しくなったようです。
「大永中福島上総乱入ノ時、波木井三河守義実此ニ党スルニ依テ」大永元年(1521年~)2月28日、駿河今川方の福島(クシマ)上総介を手引きした。9月6日武田信虎勢と甲斐大島で激戦になり、武田勢を打ち破って下山を経て軍勢を甲府に進めた。
だが10月6日の飯田河原、11月23日に上条河原で大敗した。
福島(クシマ)は2004年の大河、風林火山でテリー伊藤さんが演じた福島越前守に繋がる。第一話で、龍雷太さん演じる甘利虎泰が、
「福島といえば、飯田河原合戦の総大将、福島上総ノ介の同族。我らの仇敵ではないのか」
忌々しげに言い捨てる場面があった。
この合戦で波木井義実が今川方を手引きしたとみてよさそうです。それがバレたか、大永7年(1527年)「武田信虎ノ為ニ峯ノ城ニ於テ責殺サルトアルモ此城ノ事ナルベシ」攻め滅ぼされた。

峯之城の碑が小さいながらも建立されたことで、南部氏滅亡の地が身延町の波木井か、ここ南部の町峯か、私の中での論争に終止符が打たれたのでいったん興味が引いた。獣害対策の電気柵に城域が封じ込まれてしまったのもあって。
峯之城.jpg
そして数年経った。
私は自室でグーグルマップグーグルを見ていた。グーグルマップを時折眺めていると、ついこの間まで無かった場所に、新しい建造物や遺構、名勝や伝承地が記載されてたりする。そこをクリックすると左画面に写真が表示される。便利だけど凄い世の中になったものだ。
船山温泉界隈にカーソルを持ってって拡大したら、そこにそれまで無かった新しいものが写っていた。
船山温泉から北東へ細い道が伸びていて、八幡神社(南部光行・実長)とあった。
南部氏祖の光行公と、奥羽に行かずにこの地に残った実長公の名前が記載されていたのである。
マップ12.jpg
前は無かったぞ。いつの間にできたんだ?
その近くを通る細い道は、先に述べた峯之城(本郷の千年桜のすぐ南、七面社の辺り)へ向かう道すじだが、峯より手前の集落だった。
そこをクリックして浮かび上がった写真がこれで、何やら標柱が立っているじゃないか。これは何だ?
こんなものがあるらしい.jpg
タワーのような標柱は直方体、四面体で、まず一面には、
「南部光行、実長公の末裔、市川總本家市川武司の家は十代目頃より・・・(葉っぱに隠れて見えない)・・・おそれ市川と姓を改め昭和の始めに沼津市に移り居住す、旧法泉寺が・・・(葉っぱに隠れて見えない)・・・現在は本郷寺が菩提寺である。南部公遺徳顕彰会」
もう一面には、
「館跡に向って左奥に井戸と泉水の跡がある。尚、石積みは鎌倉時代以前の平石積みである」

全くノーマークだった場所に突然浮かび上がったが、直方体の標柱の限られたスペースに書かれた解説文だが、・・・の部分が枝葉に遮られて見えない。茶畑ですかねこれ?

この標柱を前回の船山温泉宿泊時、チェックアウト時に探したのがみつからなかった。峯方面へ向かう細い道の右崖下に隠れているらしい。
12月25日、宿にチェックインして、ジャン妻が借りてた本をT館長に返却、次の参考書を借りて、新たなハウツーテーマの相談事に付き合うのも退屈なので、私は自分の興味の世界に出向くことにした。
「何処へ行くの?」(ジャン妻)
「その辺へ散策に。こないだ見つからなかったヤツを探しに」
「くるまで行くの?」
「歩いていく。何処に停められるかわからないからな」
「だったら湯に入らないでそのまま行ったら?冷えるわよ」
そうすることにした。
「どの辺りまで行くの?」
「塾があった辺りの先。前に船山で働いていた〇さん宅の少し先」
「またヘンな場所じゃないでしょうねぇ」
ヘンな場所とは、足場がぬかるんでるとか急な坂とか崖とか、そういうのを懸念しているらしい。
「畑だよ。行ってる間にT館長と話を済ませなさい」

私は浴衣にも作務衣にも着替えずチェックインしたそのままのカッコで宿を出た。下駄箱に仕舞われた靴を引っ張り出さなきゃ。
この宿にしては永年勤続のKさんがいて、
「ちょっと散策に」
「サンダルではなく、靴で?」
「うん」

そこへ向かうには、船山温泉を出て船山川に沿って郷に下って最初の細い十字路、右手に十枚荘温泉方面から船山川を渡ってクロスする道との十字路を左折して、細い坂を上がっていく。南部町営バスの路線道路でもあります。
その前に左にカーブしてあがっていくバイパスがあった。十字路まで行かずにその急な坂を上っていった。
結構、キツい坂である。
アイフォンにグーグルマップを表示して、その目的地に向かって延々歩いた。

左にある杭みたいなのは淇水軒学舎(キスイケンガクシャ)の跡地を示すもの。淇水軒学舎とは明治の頃にあった私塾で、塾を閉鎖した際、船山温泉に解体した塾の資材(中古材)を提供したという。(南部町史)
T館長の本家もこの辺りにあるらしいが知らない。
塾1.jpg
途中、草むしりしてる婆さんがいた。
軽トラック2台に抜かれた。
誰もマスクなんかしてない。私はマスクしてるが、バカらしくなったので外して胸ポケットにねじ込んだ。
坂1.jpg
道は曲がりくねっており、前に船山温泉で働いていた〇さん宅を過ぎて、峯之城のある集落手前まで来て、行き過ぎたのに気づいた。
坂2.jpg
墓石群があった。その脇に獣道が。そこへ分け入った。
獣道1.jpg
枯葉、落ち葉を踏む音が心地よいが、滑ったりしたら危険だ。
獣道2.jpg
獣道3.jpg
獣道4.jpg
獣道5.jpg
獣道6平場に出た.jpg
獣道7まさか土塁?.jpg
サクサク音を立てて下っていくと平場に出た。茶畑になっていた。こんな場所を革靴で歩いたなんてことがジャン妻に知れたらまたうるさく言うは必至だ。
茶畑1.jpg
茶畑2.jpg
山の方を見上げたら眩い逆光にで、御堂のようなものが見える。あれが八幡社だろうか。それとも倉庫?
茶畑3御堂が?.jpg
茶畑4御堂へ.jpg
こんな急で足場の悪い階段を昇ります。石段といえるのかどうか。上る時はつま先、下る時は踵しか段に載せられない。
御堂3この階段を昇ってきた.jpg
御堂1.jpg
御堂2.jpg
これがマップに載っていた八幡神社なのかな。
小さい。小屋というか物置みたいだ。賽銭箱も無いが、普通に頭を垂れて境内に入った。
御堂の手前には左右の石に穴があって、おそらく小さいながらも鳥居があったと推定されます。
御堂の向こうに何かが見える.jpg
その向こう、西側を見たら、
あ、あれだっ!
標柱1あれだっ.jpg
グーグルマップで見た標柱が屹立しているのが見えた。
そこへ歩み寄ったが、これも茶畑なんですかね。標柱のすぐ側までズカズカ踏み入ることは憚られた。遠目で見るしかない。
標柱3.jpg
標柱はなるほど細長い直方体で、八幡社から見て最初の一面には、
「館跡に向って右側の八幡社には屋敷神・・・人達の氏神様になっている」
館跡に向って右側の八幡社、ということは、今いるこの地が館跡だということか。
標柱4遠目で読むしかないが下の方が見えないぞ1.jpg
そして山側に移動して見た一面には、
「南部光行、実長公の末裔、市川總本家・・・おそれ市川と姓を改め昭和の始めに沼津市に移・・・現在は本郷寺が菩提寺である。南部公遺・・・」
グーグルマップで見たのと同じだが、それよりもっと枝葉が伸びて、更に本文が隠れてしまっている。
標柱5遠目で読むしかないが下の方が見えないぞ2.jpg

標柱6遠目で読むしかないが下の方が見えないぞ3.jpg
そして南側に廻って見えた一面には、
「館跡に向って左奥に井戸と・・・石積みは鎌倉時代以前の平石積みである」
これもグーグルマップと同じだが、枝葉のせいで見える箇所が少ない。
標柱7.jpg
標柱8遠目で読むしかないが下の方が見えないぞ4.jpg

標柱9南部光行だって?1.jpg
標柱10南部光行だって?2.jpg
最後に東側へ、そこには、
「南部光行・・・」
デカデカと揮毫してある。枝葉に遮られて見えない下の部分にはおそらく、実長公の名前が書かれているに違いない。
標柱11ぐるっと回ってみたが.jpg
標柱12.jpg
立ってる場所的には親切な案内板とはいえないですよね。全文読めないし近づけないし。畑の真ん中でなく、せめて社の脇にでも据え付けてくれればいいのに。
これが館跡ね。では非常時の詰めの城は?
ここから峯之城までは直線距離で300mほどか。駆け込めるだろうか。
標柱13引き上げよう.jpg
標柱14振り返る.jpg
何だか中途半端な満足感である。
誰か耕作人でもおればインタビューできたのにな。
では引き上げましょう。帰りにあの落ち葉の坂を上るのも何なので、そのまま畑から出たらあっさり平場に出た。
引き上げる1獣道か生活道か.jpg
引き上げる2平場に出た.jpg
引き上げる3篠井山が見える.jpg
平場に出て振り返ったところ。
引き上げる4館跡五を振り返る.jpg
引き上げる5左に廃屋があった.jpg
すぐ舗装された農道に出て、往路に合流した。こっちから入った方が楽でしたね。
引き上げる6.jpg
引き上げる7公道に戻った.jpg
山を下りる。陽は西に傾き、陽射しは大森山に隠れて寒くなってきた。
宿に近くなった辺りで後ろから如何にも燃費の悪そうな不完全燃焼のエンジン音が迫ってきた。敢えて振り向かずやり過ごしたらT館長の運転するくるまだった。何処へ行ってたんだろ。
T館長と駐車場で挨拶した。
「どうもいらっしゃいませ。また何かを見に?」
「ええ、こんなのを見つけて」
写真を見せた。館長は目を見開いた。
「グーグルマップでたまたま見つけたんですよ。南部光行って書いてあるから。でもこれ、畑の真ん中にあるからそこまで行けないし、踏み込めないんですよ。下の方の文字が隠れて見えないの」
「どの辺りにありました?」
「塾と、前にここ(船山)で働いていた〇さん宅の先です」
「ああ、あの辺り、前にご一緒した峯集落の方」
「その手前です。峯まで行かない」
「となると、右手に下る道があって、廃屋とかありませんでした?」
「ありました。そこは帰りにそっちを通って出てきたんですが、行きはその先まで行っちゃって、お墓の脇にある獣道を下りてって」
「ホントだ。裾にくっついてますね」
裾を払いながら、
「今の時期は葉が落ちて枝だけになるから、散策に適してるんですよ。夏場はそうはいかないし」
「なるほど、どさすがです」
何がさすがなんだろ。館長はやや呆れたように感心された。
「まだ湯に入ってないんで。あ、そうそう、彼女(ジャン妻)が書籍のことで相談があるって」
今回の位置関係です。
マップ21.jpg
マップ21-1.jpg
マップ21-2.jpg
あの畑は南部光行公の館跡なのか。
畑、土地の所有者さんは南部氏の末裔なのか。
それとも単に地元の方の私有地に建てただけなのか。その辺りの背景がわからない。
南部氏の館跡候補のひとつなんだろうけど、ここからすぐ北にある峯之城との関係も不明です。一石を投じるものになり得るか。
今回は散策だけで、文献の裏付けも取れていない。
南部光行公像.jpg
現在、道の駅なんぶには馬上姿の南部光行公の勇姿が建立されている。
あの茶畑にお住まいでしたか?
(館跡は畑、私有地なので、中まで入らないようお願いします。)
コメント(2) 

南部路 [船山温泉近郊ネタ]

朝1.jpg
青空の下、新緑に彩られた船山温泉。
この時期の船山温泉がいちばん好きです。
周囲に何もないだけに、そこにある自然と調和した宿とその周辺の風景が映えます。
朝2.jpg
前日、清掃と水替えで水が少なかった池も水が満たされていた。
昨夜背鰭を出していた鯉たちも悠々泳いでいる。
朝22.jpg
朝3.jpg
朝4.jpg
朝5.jpg
朝6.jpg
朝7.jpg
朝8.jpg

朝21.jpg
朝23.jpg

朝11.jpg
朝12.jpg
朝13.jpg
朝14.jpg
朝15.jpg
清水が硫化水素の香がやや強かった。窓を全開にしてみる。
朝33.jpg
朝34.jpg
朝31.jpg
朝32.jpg
軽トラがスピンしている音がしたので見たら、駐車場に作業員の後姿。
T館長の父御だった。重機も動かしてましたね。
リハビリ兼ねて山仕事に復帰したらしい。これだけの自然の中にいれば復調も早いだろう。

「そろそろ出立か?」
寝床から起きてきたプチとヴィー(ドライブの御守)
朝40そろそろ帰るのか?.jpg

朝41.jpg
朝42.jpg
朝43.jpg
10年前よりは飲まなくなり食べなくなった私らですが、基本が上がったからやはり5万いきますね。もう船山温泉は高級旅館になった感があるな~。
今後はどうなるかな。ジャン妻がもうすぐ現社の籍を離れて伊東甲子太郎の許へ行くので、次の船山再訪は現段階では未定なのです。伊東の下でどういう業務をさせられるのか、それによって日常がどうなるのか全くわからないのだ。
この船山行の後、週が開けた初日にミーティングがあるらしい。
ルーチンワークではなくなるのは確かだ。
ジャン妻はルーチンワークは嫌いらしいが。

あれ?朝餉の写真は?
前回も無しでしたが、今回も朝食無しにしました。身延街道沿いのグルメを探訪しましょうということで。
前回の大和峠「うな富士」はモノ凄いウナギだった。今回は普通の食堂です。数年前までは船山温泉で連泊した場合、前日までの予約制で幕の内弁当を出前していた「南部路」です。
私は先に荷物を持って駐車場に出た。その間フロントで、
「これから南部路へ行かれるんですよね」(T館長)
「え?そうなんですか?聞いてない」
この時ジャン妻は、南部路を南部寺、寺と勘違いしていたらしいのだ。
「お寺に寄るんだ。朝兼昼ご飯はアナタが考えるのかと思って」
寺じゃないよ。船山温泉を11:00前にチェックアウト、彼岸花街道をダラダラ下って、身延街道(富士川街道沿い)の交差点、新船山川橋を左折して身延方向へ走ってすぐです。
お寺かと思っていたジャン妻は、着いたところが年季の入った食堂なのと、店の外観に唖然、拍子抜けした感がある。
南部路1.jpg
南部路2.jpg
南部路4.jpg
南部路、いいネーミングである。町の名前そのもの。地元南部町を代表する食堂といっていい。
だがオカシイ?
開く気配がないのである。
田舎によくある。ネット上には11:00開店となっているのに、実は11:30開店の店って。群馬なんかにもそういうアバウトな店が多い。
南部路3.jpg
しばし待ったが開く気配がないので電話した。
「昨夜船山温泉のTさんとこに泊まった者ですが。お店って11:30からでしたっけ?」
「何名様でしょうかぁ~」
開店時間を応えないかわりに人数を聞かれた。
「2人なんだけど。もう敷地内に入ってます」
「じゃぁどうぞ中に入っちゃってくださぁい」
アッバウトな店だなぁ。後でT館長は「強引ですね」と笑っていたが、入れてくれたのは地元の名士たるT館長の船山温泉を出した効果であろう。
南部路5.jpg
店内.jpg
テーブル席と小上がり、座敷で占められていた。座敷には「予約席」の札が置いてあった。
「お座敷以外でしたら何処でも大丈夫ですよ~」
法事でもあるらしい。
今はまだ開店前なのか、こんな早い時間にお客はそうそう来ないから来たら入れたらいいやと思ってるのか、法事の予約客で今日のノルマはクリアしているからマイペースで営ろうと思っているのか。のんびりした店だな。
この店、南部路を事前予約して、ほうとうか釜飯をいただこうかとも目論んでいたのだが、船山の館内、特に堰堤側の215号室は携帯が繋がらないのと、ほうとうではないけど猪鍋、釜飯もいただいているのでその気が失せてしまった。チープにいこう。
ジャン妻は「湯神」「船山」「さらの木」の後だと大抵2kg体重が増加するのだが、珍しく、
「カツ煮定食にする」
カツ煮定食だと!!
私も同じにした。この幟がホントなら甲斐国ブランド肉を使っているんだろうというもの。確かこの豚肉は船山温泉でも使っていたような。
甲州富士桜ポーク.jpg
お茶持ってきてオーダー聞きに来たのは地元の体育会系のバイト君ですな。おそらく望月、佐野、武井、武田、遠藤、この辺りによくある姓に違いない。
そのバイト君、雰囲気が「風林火山」の春日源五郎(のちの高坂弾正、演:田中幸太郎さん)によく似ていた。ルックスじゃなくて雰囲気が似ていた。緊張しながらも丁寧で礼儀正しいTALKに店内を爽やかな空気が吹き抜けた。
ジャン妻.jpg
メニューをパラパラめくる。メニュー数は多い方だと思う。
フォントを詰めたら7頁も要らないとは思うけど。見やすい。
メ1.jpg
メ2.jpg
メ3.jpg
メ4.jpg
メ5.jpg
メ6.jpg
メ7.jpg
「このうどん、追加していい?」
ジャン妻の眦が釣り上がった。眉間に縦皺刻んで「ダメッ!!」
メ9.jpg
箸が四角いのに挟まってる。
これ外すと箸置きになるのです。
箸1.jpg
箸4.jpg
「おぉ~い」
「ハイただいま」
さっきの雰囲気春日源五郎が来た。
「刺身蒟蒻できる?」
「ハイできます。おひとつ?」
刺身蒟蒻1.jpg
刺身蒟蒻2.jpg
あ、これ、メチャ美味なんだけど。
刺身蒟蒻なら群馬にもあるだろって?いやいや、群馬は奥ゆかしい県民性が裏目に出て、夜の店では地産のものを余所者に出さない傾向にあるのですよ。刺身蒟蒻なんて群馬の居酒屋メニューにないです。食べたことないモン。
「これは美味しいね」(ジャン妻)
一杯飲りたいところだが。
船山温泉で刺身蒟蒻は扱ってないのかな。岩魚が苦手な客っているだろ。内々で湯葉とかこういうのを出してるのかも知れない。
刺身蒟蒻4.jpg

カツ1.jpg
カツ4.jpg
春日源五郎がカツ煮定食を持ってきた。
これも普通以上に美味しいね。デカいし、厚いし、熱いし、揚げ具合もいい。田舎(失礼)らしい甘めの味付け、浸み具合、玉子とのバランス、完璧じゃないか。都内のどのランチのカツ丼より美味しいぞ。中身熱々だし。
カツ2.jpg
カツ3.jpg
カツ5.jpg
カツ6.jpg
「おぉねぇがぁいしますぅ」
また源五郎が来た。
「ハイなんでしょう」
「ご飯半分だけくれ」
我ながら横柄な注文の言い草だが、体育会系ぽいから慣れてるだろう。
ミニカツ丼にしてみた。ツユだくにしようとしたらまた睨まれた。
カツ7.jpg
カツ8.jpg
カツ9.jpg
完食.jpg
「ごぉちぃそうさまぁ」
「あ、少々お待ちください。よろしければ珈琲をお持ちしますから」
またまた源五郎が登場してアイス珈琲を持ってきたがこれにジャン妻は感激した。喰ったらすぐに追い出される港区の居酒屋ランチと違うんだ。
近年、食後のコーヒーって絶滅傾向にあるからな。店側もゆっくりさせない。利用者側もゆっくりしてられない。忙しない日常にいるのです。
食後のアイコ.jpg
レジで会計時に、
「美味しかった!!」
吠えるように言った。お世辞じゃない。ホントにそう思ったから言ったの。
だが次のひとことは余計だった。
「船山温泉の朝飯より美味いぜ!!」
地元同士を諍いさせかねないこの心無い比喩に店主(男性)、サブ(男性)、女将さん、バイトの源五郎君はやや固まり返す言葉に窮した。
「どーもありがとーございます」と私らに返すのが精一杯だった。

「どうだった?」
「まぁ美味しかった。最後にコーヒーが出てきたのはウレしかった。最後のアナタのひとことは余計でしょう?食べたもの(朝飯とカツ丼)の路線が違うんだから」
南部路6.jpg
後でT館長に聞いてみた。
「前は連泊した際に、前日までの予約制で南部路さんの弁当を取っていたでしょう。あれは廃止したの?」
現在船山温泉のパンフには連泊の際は「おにぎりかうどん」になっている。それもバカ高い。(汗)
「いえ、廃止はしておりません。現在もございますよ。表に出してないだけです。」
まぁ他所から出前取るよりも、館内にあるものを出して儲けた方がいいからね。これも悪い意味じゃないですよ。
「南部路、美味しかったですよ。従業員の感じもすごくいいし。お知り合いですよね?」
「安心しました。南部路さんとは仲がいいですよ」
ただ、11時OPENならその時間にちゃんと開けようぜ。
コメント(2) 

尾崎の狼煙山 [船山温泉近郊ネタ]

船山温泉をチェックアウト、くるまを駐車場敷地内から出そうとしてアクシデントが発生。
T館長自らの応急処置の後で南部町から最も近いディーラーへ持ち込むことになった。お隣の静岡県富士宮市内、船山温泉から20数キロの距離である。
実はそこのディーラーに行ったことがある。
「そこへ行くの2回めだよ」
「え??」
「前にタイヤがバーストしかけたの覚えてる?」
「ああ、あの時に」
8年前、船山温泉に惚れ込んだ最初の頃、富士宮市の芝川という町から富士川を渡る釜口橋(川幅が狭い急流地帯で、狭いので度々架橋したがよく落ちたという。)の先、内房橋で富士川を渡って尾崎のトンネルに入る手前、そのトンネルと山を撮影しようと左の路肩に寄せたらデカい縁石に気付かず、タイヤをベリッと擦った。
その時は一旦富士宮市内に戻ってバーストしけかたタイヤを交換している。
尾崎トンネルを撮影しようとしたのはそのトンネルの山に狼煙台か小さい砦があったと。訪城も楽チンらしい。
実は狼煙台そのものはトンネルの峰続きの南にあり、トンネルの真上ではないのだが。
①船山温泉チェックアウト時のカーアクシデント
②富士宮市内のディーラーへ連絡
③実はそのディーラーへ行くのは2回め
④では初回は何だったかな?
⑤尾崎の縁石で擦ったんだった
⑥何で路肩に停めようとしたんだっけ?
⑦思い出した尾崎の城山だ、ではそれを見に行こうと。点と点が繋がった。
だがジャン妻は山道をくるまで登ると思い込んだらしく、助手席で大声を張り上げた。
「やめなさいこの状態のくるまでっ!!」
「くるまは麓に停めるから大丈夫だよ」
「何もこういう時に・・・」
「それとこれとは別」
「・・・」
尾崎マップ.jpg
鳥居.jpg
身延街道を南下。
甲駿橋北を富士宮方面へ左折。
富士川の支流・稲瀬川に沿った県道を快走。
尾崎トンネルを潜って右折しようとしたら右折不可。
そのまま真っ直ぐ、かつてタイヤを擦った縁石がまだ残っているのを横目に走って新内房橋を渡って右折、旧い方の橋、釜口橋を渡って尾崎に戻るという迂遠な走行をした。
目的地は尾根の先端にある。そのまま真っ直ぐ南下すると、旅人の惑星さんが泊まった芝川苑に至るはず。
山の上には小さい浅間神社がある。くるまを脇に停めてそこの階段を上る。
「すぐ戻ってきて」
「・・・」
階段1.jpg
階段2.jpg
アスリートが階段を走って登ったり下りたりしている。
「こんにちは~」
「どうもぉ」
こういうところを散策する場合、地元の人に出逢ったら必ず声かけ、挨拶すること。
頂上へ.jpg
携帯電話の無い時代、ここ尾崎、白鳥山、大和峠(うなぎのあるところ)、狼煙台のネットワークが富士川に沿って甲斐府中まで繋がっていた。
神社手前が一段低く、小さい腰郭(帯郭)に見えなくもない。
腰郭.jpg
比高30mほど。神社だけの単郭構造。10m×30m程度。そこに社が立っている。
神社1.jpg
神社2.jpg

土塁1.jpg
土塁2.jpg
土塁3.jpg
神社の背後に低い土塁があってその先が断ち切ってあった。深さ3mほど。
堀切1-1.jpg
堀切1-2.jpg
その先も断ち切ってあった。深さ1mほど。
1mは浅い。崩れて埋まっちゃったんでしょう。
堀切2.jpg
更にその先に深い断ち切りがあって深さ6mほど。
堀切3-1.jpg
堀切3-2.jpg
その先(北側)は・・・おそらくこのまま分け入ったら尾崎トンネルの真上に至る筈だが。
その先の尾根.jpg
小さい単郭でしかない構造なのに北側に堀切が3本もあるのは、尾根の先のトンンルがある辺りの方が高いから。
防御は弱く、籠れる兵数は多くて20~30人程度。敵軍に包囲される前、今川軍が攻め上って来たら狼煙を上げてさっさと尾根続きに逃げ出したに違いない。
ただ、こういうのが無いと困る場所であった。富士川や支流の稲瀬川に面していて、山麓には現在の県10号線や75号線といったかつての街道がクロスしている交通の要衝だから。
誰がいたのかわからないが、甲斐駿河国境の最前線である。甲駿どちらかに併呑されない限り存続しただろう。
富士1.jpg
富士2.jpg
村.jpg
出典、鳥瞰図の第一人者、余湖先生のHPからです。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/4393/sizuoka/sibakawamati.htm
鳥瞰図.jpg

下る.jpg
待つ.jpg
「今から下りる」とメールしたら返信は、
「遅いっ!!」
これから応急処置しにディーラーへ向かいます。
コメント(4) 

南部氏滅亡伝承地に電気柵が [船山温泉近郊ネタ]

今回の船山温泉は寝湯の衝撃がデカかったので、考察も昂じて批判、愚痴になりがちだった。
帰途の車中もブーイングで、何であんな風にしたのかクエスチョンだらけで帰宅した。
「アタシは船山って寝に行くようなものだけど。お風呂は貸切に一度か二度は入れればいいや」(ジャン妻)
よく寝れるそうである。ベッドや貸出枕がフィットするんだって。
今だって、なんであんな風になっちゃったんだぁ~、利用客の端くれとして叫びたい気分。
で、今日の記事はチェックアウト後の散策で、一連の船山記事としては竜頭蛇尾に過ぎないですが。

「大永中福島上総乱入ノ時、波木井三河守義実此ニ党スルニ依テ、武田信虎ノ為ニ峯ノ城ニ於テ責殺サルトアルモ此城ノ事ナルベシ」(南部町史、甲斐国誌)
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2016-01-06

幕末まで続いた盛岡藩南部氏の始祖に南部三郎光行という人がいて、源頼朝率いる奥州平泉征討軍に従軍して戦功を挙げ、それまで領していた甲斐の南部郷(南部町)を離れて陸奥国を拝領した。自身は奥州に赴任せず、鎌倉にあって統治したともいふ。
三郎光行は甲斐南部領を三男の実長に割譲した。実長は鎌倉幕府から睨まれた日蓮を身延に保護した硬骨漢。この実長を南部破切の六郎という。
南部町の北隣、身延に波木井という地がある。破切=波木井?そこにいたとも聞き及ぶ。
実長の子に長義というがいて、この人の系譜が南部の波木井に土着。代々波木井氏を称する。

それから何代目かの甲斐南部氏当主・波木井三河守義実は、甲斐統一を目指す武田信虎と駿河から狙って来る今川氏親の間で微妙な立場に置かれ去就が難しくなる。
冒頭の甲斐国誌の記載は、大永年間(1521年~)、駿河今川氏の将、福島(クシマ)上総介が甲斐に侵攻して来た時、今川方を手引きしたが為に、武田信虎に攻め滅ぼされたという記述です。

甲斐南部氏(波木井氏)が滅んだ場所(信虎が攻めて来た場所)が問題で、「武田信虎ノ為ニ峯ノ城ニ於テ責殺サル・・・」、身延の波木井には波木井城があるが、峯という地名は見当たらない。
私は波木井城には行ったことがない。身延街道から逸れてそこへ至るまでの道が狭く、セダン車では切り返しが難しいとも。
身延の波木井は地理的に見て甲斐府中に近く、今川軍を手引きし難いのではないだろうか。

南部町の富士川の土手に南部氏の館跡があるが・・・攻められて立て籠もる地形ではない。
南部館1.jpg
南部館2.jpg
そこから近く、52号線(身延街道、富士川街道)で船山温泉に向かう手前、最後のトンネルの上に南部城山があるが、後世の狼煙台とも。城山公園と謳っているが、南部町役場に問い合わせたら「自然に還っています」とのこと。
南部城山.jpg

で、もうひとつある。船山温泉の北東に峯(峰)という集落がある。その一帯にある波木井山。
南部町誌では、ここを南部氏滅亡の地と言っている。
波木井山1.jpg
波木井山2.jpg
2009年11月に峯集落をいきなり訪れ、野良作業している地元の方に聞いて回った。
(峯集落のおばちゃん)
「坂を下ったところにうちの田んぼがあって大きい岩があるの。岩の辺りは誰かが斬られた場所だって。斬られたか槍で突かれたかわかんないけどそういう怖い場所・・・」 

(峯の城域を耕してた耳遠い爺さん)
「(遺構を)潰しちゃった。知っている年寄りはもうおらん」

(穴山信懸の墓がある建忠寺近くで出逢った爺さん)
「公民館を建てた時にあの辺りを掘ったら石垣と人骨が出て来た。光行の墓じゃないかって・・・」

そして2015年に、「甲斐武田を探検」サイトに峯城に碑が立った旨が掲載されていた。
http://1st.geocities.jp/minohazz/shiseki-shousai/mk026/mk026.html
私は波木井南部氏が滅んだ場所、身延の波木井か、南部の峯か、終止符が打たれたのかなと。

今年の4月、船山で一夜明けたら豪雨だったので、峯城への訪問を先送りした。
船山温泉内湯改変の衝撃を引き摺りながら、チェックアウトして行ってみたら・・・。
電気柵1.jpg
柵!!
電気柵!!
電気柵2.jpg
電気柵が城域を取り巻いている。
北方に聳える御殿山から下りてくる獣たちの獣害対策だろうか。
こじあけて入ろうと思えば・・・いや、普通に開けて入れそうだが、感電するのもバカらしいので断念した。
峯城だけでなく集落のあちこちが柵だらけ。時折コメントいただく似非師匠さんいわく、「まるで人間が電気柵に閉じ込められて・・・」の感がある。

前述の「甲斐武田を探検」によると、波木井堂の裏には石碑が大小二つあって、大きい方に「波木井六郎実長」・・・盛岡の本家から分れてこの地を割譲された波木井南部氏の祖です。
もう一つ、小さい方に「十一代波木井三河守義実」とあるそうです。十一代で滅んだ訳である。
他、信虎が攻めて来た時の戦死者の供養塔、千人塚があるとか。
これらの碑は波木井氏の子孫の方が建てられたとか。
甲斐武田を探検.jpg
2009年に訪問した時のもの。地形的には現在も変わらないと推定される。
波木井山と社(右手に墓).jpg
城域1.jpg
城域2.jpg
竪堀か?.jpg
(南部町誌)
「峯の城は波木井義実に関係した城と記され、北川の一段低い所に波木井氏の子孫が祀る社が建てられている。身延町に波木井城があり、波木井氏の峯の城とも呼ばれていることから、ここも峯の城の比定地の一つとして位置づけられる」

その波木井山は東に船山川の支流、西は谷になっている。現状を見ると北の守りが脆弱そう。北の峯集落と地続きになってるからである。
だから電気柵で囲まれている?獣たちが北から侵入しないように?
無粋で野暮な柵だが仕方がない。南部町の農家では(南部町に限らず)有害鳥獣(猿、猪、鹿、鳥類までも)により、農作物の被害に苦慮している。
補助金制度もある。電気柵(ポール、電線、バッテリー、ソーラーシステム等)、電気の通らない防除網、他、資材。
HPを見たら、補助金の限度額は30万円。資材費用の75%以内。
設置費は1箇所につき5000円。
資材費120000円として、補助金が90000円、設置費5000円、合計95000となる。
申請書類は申請書、見積書、領収書、設置完了後の写真、位置図。
書類申請だけなら私でもできそうである。
虎口?.jpg
土塁か後世の壊変か.jpg
スゴスゴと公民館脇に停めたくるまに戻った。
「済んだの?早いね」(ジャン妻)
「それがさ・・・」
公民館.jpg
誰かが斬られた辺り。稲刈りしている地元農家の方が私らを訝しげに見ている。
誰かが斬られた場所.jpg
路を下る。南側の本郷集落側に電気柵は無かった。
波木井山4.jpg
南へ伸びる尾根.jpg
上の暗い写真は、2009年に訪れた時、本郭(波木井堂の辺り)から南に下る尾根道です。そのまま行くと南の集落に出そうなので、逆にそっち側(南側)から登れば城域に入れるかも知れない。
くるまを道に停めて、私有地(田んぼや畑)を突っ切らなきゃならないけど。
波木井山5.jpg
秋風が吹く本郷集落を抜けた。
大永年間にこの電気柵があったら信虎軍も撤退したかな。
今の時代、猿や鹿が攻めてくるのだろうか。

峯之城の碑は建立された。身延波木井かここ南部の峯か論争に終止符が打たれたのかと思いきや、獣害対策の電気柵に謎ごと封じ込まれてしまったのである。
甲斐武田を探検、管理人さん(みんさん)に電気柵写真を送ったら、こう仰っておられた。
「まさに難攻不落!!」
コメント(0) 

南部氏滅亡の地に標注が建った [船山温泉近郊ネタ]

最近になって船山温泉近郊ネタで気になる情報を見つけた。
船山温泉のある南部町は南部氏発祥の地と謳っています。南部氏とは近世まで続いた盛岡藩が本流で、そこから分知したのが八戸藩、七戸藩。
南部氏の始祖は南部三郎光行という人。清和源氏(甲斐源氏)の系譜で南部郷(現在の南部町)を領していたが、文治5年(1189年)の奥州平泉征討軍に従軍し、南部光行は甲斐の南部を離れて陸奥国に入国したという定説になっている。
でも拝領したのを証明する文書はないようです。伝承による。
光行の子息に実長という人がいる。鎌倉幕府から睨まれた日蓮を身延に保護した人ですが、この人を南部破切の六郎というそうです。
破切=波木井?
南部町の北隣、身延に波木井という地があるけどそこに居住したのだろうか。
実長の子、実継が陸奥に行って根城南部氏の祖になるのだが、同じく実長の子で長義という人は陸奥に赴かず、この人の系譜が南部、波木井に土着、波木井氏を称した。
そこから数えて数代、南部氏は甲斐府中武田、駿河の今川、勃興してきた穴山、微妙な立場に置かれ、去就が難しくなる。南部町史には「甲斐国誌」からの引用で、
「大永中福島上総乱入ノ時、波木井三河守義実此ニ党スルニ依テ、武田信虎ノ為ニ峯ノ城ニ於テ責殺サルトアルモ此城ノ事ナルベシ」
伊藤さん.jpg仲代達也さん.jpg
福島(クシマ)上総とは、大河でテリー伊藤さんが演じた福島越前と同一人物か、一族の誰かと思われます。
峯ノ城ニ於テ責殺・・・大永年間は1521年~、武田信虎に攻め滅ぼされたという記述。
波木井南部氏が滅んだ場所の伝承地が2箇所あって、身延の波木井城と、船山温泉近郊の杉尾集落の東、峯という集落にある波木井山。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-05-03
位置関係です。粗いですが。
船山温泉と峯の城.jpg
峯集落にある波木井山です。峯の城という。
波木井山1.jpg
町史にはこの場所についてこうあった。
「峯の城は波木井義実に関係した城と記され、北川の一段低い所に波木井氏の子孫が祀る社が建てられている。身延町に波木井城があり、波木井氏の峯の城とも呼ばれていることから、ここも峯の城の比定地の一つとして位置づけられる」
ハッキリ断定していない。可能性を言っている。
身延には碑まで建立されている波木井城がある。そこに南部波木井氏はいたかも知れないが、そこで滅んだ伝承はないようで、むしろ伝承はここ南部町本郷にある。身延はあくまで波木井という地名から来ているのではないか。
波木井山と社(右手に墓).jpg
城域1.jpg
城域2.jpg
竪堀か?.jpg
南部町の波木井山は、東に船山川の支流、西は谷になっているが、北の峯集落と地続きになってる辺りはあまり要害性が感じられない。南はだらだらした尾根になっていた。
城域も後年の壊変で明瞭でなくなっている。
碑.jpg
波木井山は2009年に初訪し、2010年に船山館主と訪れている。身延の波木井城には碑が建立されているが、南部の波木井山、峯の城伝承地にははっきり示すものはなかった。
ただ、私が現地の人から聞き取った証言に、
「坂を下って山を振り返るとそこに大きい岩があるの。うちの田んぼの傍だけど、そこは誰かが斬られた場所だって。斬られたか槍で突かれたかわかんないけどそういう怖い場所」 (峯集落に住むおばちゃん)
「(遺構を)潰しちゃった。知っている年寄りはもうおらん」 (峯の城域を耕してた耳遠い爺さん)
「石垣と人骨が出て来た。光行の墓じゃないかって」 (穴山信懸の墓がある建忠寺近くで出逢った爺さん)
私は、ああそういう場所なんだな、と思っていたのだが、昨年末に偶然にたどり着いたサイト、「甲斐武田を探検っ!!」http://1st.geocities.jp/minohazz/shiseki-shousai/mk026/mk026.htmlを見たら、波木井山の峯城域に、小さいながらも碑(標注)が建っていた。波木井氏の子孫の方が建立されたらしいです。
(甲斐武田を探検管理人、みんさんからご提供いただきました。)
波木井山2.jpg
最後の写真は本郷の千年桜から見た峯の城です。
「桜が散る有名な場所って武士の最後にちなんだ場所が多いですよね」 (船山温泉T館長談)
では南部氏滅亡の伝承地論争、身延波木井か、南部町本郷か、この伝承は終止符が打たれたのだろうか。
コメント(0) 

穴山勝千代君が眠る寺 [船山温泉近郊ネタ]

船山温泉さんのFacebook6月5日にこうあった。
「今日は新しい取引先の佐野おとり店さまに行って来ました。なんと4本の井戸から水が入っておりまして、こんなところで育った鮎は最高のものだと確信いたしました。」
佐野おとり店は52号線身延街道の南部町役場、道の駅とみざわの交差点を西へ曲がり、福士川に沿って道なりに1kmほど進んだところにある。福士川は富士川の支流で、釣り場スポットが点在している。
私はそこへ向かう・・・のではなく、その近所にあるお寺へ向かった。
最恩寺.jpg
今回の船山行は、宿の前のS字カーヴだった道が、何故か現在は付け替えられて直線になった経緯を調べるのがメインだが、もうひとつ寄ってみたいところがある。
5月に静岡出張に行った時、偶然にも穴山梅雪のいた江尻城を見つけたのですが、よく知られているように梅雪がああいう横死の仕方をした後、穴山家がどうなったかをチョイ見してたら、嫡男が15歳くらいで夭折し、そのお墓が南部町(旧富沢町)にあるのを知った。
穴山勝千代君のお墓です。福士の最恩寺というお寺。佐野おとり店の手前にあるこの寺は、武田マニアでないとまず訪れないだろう。

そこへ向かう車中で私は夕餉の追加料理を切り出した。
「前回、山女魚の燻製を喰ったな」
「うん。あれって美味かったね~」
「あの山女魚はこの先にある魚屋・・・(佐野おとり店です。おとり店って何だかわかんないので魚屋としか表現できなかった・・・)から仕入れてるんじゃないかな。新しい仕入れ先を開拓したみたいだよ」
「宿の中に山女魚いないの?」
「宿ん中は岩魚と鯉だけじゃないかな」
この時期、燻製は山女魚ではなく鮎に替わっているらしいが、その日の夜の夕餉は館長に無理を言って2種類お願いしてある。
最恩寺本堂.jpg
寺に着いた。ここに穴山勝千代という子のお墓があるのです。元亀3年(1572年)に生まれ、天正15年6月に亡くなっている。
ジャン妻はくるまから下りて来やしない。
「どーぞ行ってらっしゃい」
「・・・」
いつもこうである。私はやや憮然としてくるまから下りた。
それほど広くない境内にある仏殿は何と室町時代の応永二年(1395年)に建立されたそうです。よく戦火に見舞われなかったものである。今後も維持していくのがタイヘンそう。
最恩寺仏殿.jpg
仏殿の解説のみ.jpg
寺の背後にある山は福士の城山とうって、狼煙台程度の郭が2つ、堀切が1つあるそうです。
福士の狼煙山.jpg
勝千代は穴山信君(梅雪)の嫡男です。武田信玄の外孫。勝千代は幼名で元服してからは穴山信治。
上手くいけば武田信治になってた筈だが。。。
官途名、受領名は無いようです。
身延の下山で生まれ、裏切り者の父、穴山信君の後継として養育されるが、勝頼の代になって武田家が傾くと人質として甲斐府中に置かれた。
父の穴山信君は河内一帯(身延~南部)と駿河の江尻を領し、対峙する織田・徳川勢との前線にあって緊張の毎日だが、甲府を離れ、冷めた目で甲斐府中を眺めていた。(と、小説風に推測する。)
勝千代君は天正8年(1580年)、父、穴山信君が出家(梅雪)した際に家督を譲られて穴山家当主になっているが、実権は梅雪が握っていた。
天正9年(1581年)には武田勝頼の娘との婚約が破棄された。アヤしいけどオモシロそうな甲陽軍鑑ではこれこそが梅雪離反の要因だという。
家康が梅雪にちょっかいをかけてくる。梅雪は武田家を離反する条件として、①武田氏の名跡を残す、②当主を勝千代(信治)とする、これを家康は呑んだ。
勝千代は甲府を脱出する。これで穴山梅雪の謀反が明白になった。
武田滅亡後、ご存じのように天正10年(1582年)6月、梅雪は本能寺の変後、上方で横死する。勝千代は正式に穴山家の当主となり、梅雪と別行動を取って九死に一生を得た家康は、三河国に戻ると河内領と勝千代の保護のもと、穴山氏は徳川氏の従属下、寄力に置いた。政務は家康の家来が代行したのではないか。
だが天正15年(1587年)、勝千代君は疱瘡で死去した。享年16歳。当時は早婚とはいえ妻がいたかどうかわからない。嗣子が無く穴山家の直系は断絶する。

勝千代君のお墓が見つからない。本堂の裏にあるって聞いたんだが。墓地全体をぐるっと回ったら、母屋から日に焼けた爺さんがラフな私服でお顔を出された。この寺のご住職と見た。
挨拶もそこそこに、「勝千代公のお墓は何処です?」
ご住職は何処の閑人と思ったようで怪訝そうにしてる。
「穴山勝千代君のお墓!!」
私は絶叫に及んだ。
ご住職は裏を指された。私は裏にあるお墓が並んでるところに上った。そしたら裏口からご住職が顔を出され、
「その上の〇側」と言う。
穴山勝千代君のお墓.jpg
あった。質素なものである。傍らに標注が立っているが解説板は無い。
「15歳で?」
「16歳です。元服した後で・・・」
「・・・」
燻製1.jpg燻製2.jpg
「この山女魚を仕入れた魚屋の近くのお寺に行ったよ」
「カンチインですか?」(T館長)
「観智院じゃなくってその先にある最恩寺ですよ」
あまり知られていないみたいです。何故、南部町にお墓があるのかもわからない。
法名、最恩寺殿勝岳守公居士。。。
コメント(0) 

南部氏と穴山氏異聞 [船山温泉近郊ネタ]

朝の215号室から.jpg
船山温泉のある南部町は「南部氏発祥の地」と謳ってはいる。もしくは南部氏の郷。
南部氏の郷.jpg
町内のあちこちに「南部氏の郷」を示す解説板がある。
この館跡は南部町旧商店街から逸れ、富士川の土手の傍らにある。
南部氏館跡1.jpg
南部氏館跡2.jpg
だが、南部氏の事績を表すものは少ないと思う。南部氏は後世、岩手県の盛岡で近世大名として存続したので、事績は青森県や盛岡市の方が圧倒的に多い。
南部氏がこの地がルーツなのは間違いない。南部氏の始祖は南部光行という人で、源頼朝に与して戦功を挙げた恩賞として甲斐国南部牧、すなわち現在の山梨県南巨摩郡南部町を与えられた。このときに南部姓になった。(その前の姓はわからない。)
文治5年(1189年)、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は南部光行に陸奥国、糠部五郡(青森県八戸~三戸)を与えられ、一旦は現地に行ったらしい。現在の青森県八戸市の何処かに上陸し、同県三戸郡南部町の何処かに居を構えたらしいが、大雑把に言って現在の八戸の南西、第3セク青い森鉄道の苫米地~三戸一帯です。
おそらく寒かったのか、建久元年(1190年)には頼朝に従って上洛した後は、自分は奥州の拝領地に殆ど行かなかった。
では奥州南部の地を与えられた代わりに、甲斐国南部領は没収されたのかというとそうでもないらしい。南部氏の庶流が残っていた。波木井南部氏という。
波木井南部氏有名なのは・・・(・・・知らなくても日常生活、一般常識に不自由は無い・・・)波木井実長という人。この人は鎌倉幕府に睨まれ佐渡で流刑を終えた日蓮を文永11年(1274年)に身延に迎え、それが身延山妙法華院久遠寺となって現在に至るのだが、要は日蓮を保護し久遠時を興した人とも言っていい。
身延の地頭職も兼ねていたようではある。
では南部町にある館が機能していたのか。移転したのか、その辺りは皆目わからない。その後の八木井南部氏の事績もよくわからない。
250年の歳月が流れ、大永7年(1527年)、当時の八木井南部家の当主、波木井義実は、甲州に進入した駿河今川軍に内応したのがバレてしまい、武田信虎に討たれ滅亡してしまった。

では武田家家臣に南部氏はいなかったのか。
いたらしい。波木井氏とは別にいたらしいのだ。南部宗秀という人です。
これが南部氏末裔?.jpg
観た人は「こいつかよ!!」って思うでしょ。
ホントかなぁ。でも近年、南部宗秀を探しているとこの人、大河に登場した赤部下野守がそうだと。そういうサイトに辿りつくことが多いのだ。
南部氏のサイトを見たら、南部始祖光行から何処かで別れた後胤だが、天文17年(1548年)自身の乱行を理由に甲斐国を追放され、会津まで流浪しそこで餓死した???
ドラマの登場は初回だけ。寺島進さんは万沢口で退陣した時、陣中を勝手に抜け出して村を漁ってた。乱捕り。村に乱入し、貫地谷しほりさんを追い回した挙句、主人公の勘助に返り討ちにあってハイサヨナラ。
まさか甲斐南部氏の末裔たる者がこんなキャラで登場するとは意外の感がした。これが南部氏の末裔となると情けない限りだが、時代考証担当者もよく調べたと思う。往時はこういうヒドイ時代だったんだよと視聴者に理解させる恰好のキャラではあった。
でも何で南部姓で登場させないで赤部で登場させたのか。素行が乱暴だったので、現在も存続する南部宗家を憚ったのか。

乱捕男の南部宗秀、赤部下野ではなく、波木井南部氏の最後の当主、義実は何処で滅んだか。
身延で滅亡したのかどうか。南部町誌では、滅んだのは南部町の峰という集落にある山だという。船山温泉の北東にあり、地元では波木井山と呼んでいる。
波木井山1.jpg
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-05-03
私も行って現地の爺さん2人とオバちゃん、計3人に尋ねた。「ここはそういう場所なのか?」って。
「真ん中の部分は潰してしまった。もう知ってる年寄りはもうおらん」(耳の遠い爺さん)
「誰かが斬られた場所だって聞いた」(峰集落に住むオバちゃん)
「石垣が出て来た。墓みたいなのも。光行の墓かも知れない」(建忠寺の東で立ち話し爺さん)

私はここ南部町に残った南部氏庶流たる波木井氏を滅ぼしたのは、信虎はもちろんだが、近所で支配権がぶつかりあった穴山氏ではないかと疑っている。
南部町は南部氏のルーツなのはもちろんです。でも穴山氏の里ともいえなくもない。というのは、南部町には穴山氏の墓が3つほどある。
武田家を裏切って、後年横死した梅雪入道ではないです。
五代 穴山信懸
建忠寺(穴山信懸).jpg
過去記事です。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-05-03-1
今でもこれ以上のことはわからない。
七代 穴山信友
穴山信友のお墓.jpg
穴山信友のお墓は船山温泉から船山川に沿ったいつもの一本道を下り、身延街道を突っ切って最初の橋を渡ったところにあるお寺の裏にあります。
そして、九代 穴山勝千代。。。
穴山勝千代君のお墓.jpg
コメント(2) 

船山温泉99の謎115 船山の神は狼なのか? [船山温泉近郊ネタ]

船山の山之神です。
私は甲斐の国南部まで来て、身延山久遠時に参詣したことが一度もないのですが、ここ、船山温泉の山の神には数回、お参りに来たことがあります。
正面から写真を撮るのは憚られるのでちょっとズラしましたが。。。
山の神.jpg
2011年11月に来た時の山の神の写真にはほぼ全体が写っちゃってるんですよね。石作りの祭壇の周囲、四隅を細い注連縄で囲って榊が置いてあります。
山の神2010年11.jpg
山の神とはその名のとおり山の神様です。山神さん(ヤマガミさん)とも言う。
まず農民に立場を置き換えます。農民たちはその年の豊作を願うのは当然ですが、それを神に祈る場合は田畑に水をもたらす川の源、すなわち山の方角を仰ぎ見ることになる。
農民が豊穣を願う神は山におわします。神は春になると山から平野部に降りてきて田んぼの神となり、恵みをもたらし、秋には再び山に戻るのです。これには山岳信仰も含まれるかも知れない。

では農民ではなく山に常時いる人々の場合はどうか。猟師、木樵、炭焼、林業にとっての山の神は、自分たちの仕事の場である山を守護する神なのです。自分たちが山中で暮らすから神々も常にその山にいるとされるです。
鉱山なんかもそう。採掘中の安全を祈念する為に神を祀ります。採掘し尽くして閉山しても、製錬所が操業を続けたり、廃水処理施設が稼働したりする場合があって、神社が施設の守り神として維持される事がある。
拝む場所が違うだけで、山の神と田の神は実はひとつなのかも知れない。

山の神は美人でないというのは前にも書いた。失礼ながら醜女であるとする伝承があって、自分より醜いものがあれば喜ぶとして、オコゼを山の神に供える習慣もある。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-08-21
Yのカタチになっている三又の樹木は御神体で神が宿っているので伐採してはいけない。そのいわれは、三又の木が女性の下半身を連想させるからだといいます。

神は動物にも置き換えられる。山の神ではないけど巷でよく見かけるお稲荷さん、稲荷神社にキツネの像がありますよね。他にも有名どころでは伊勢神宮には鶏。「矮鶏がいるよ」(ジャン妻)
八幡宮は鳩、春日大社は鹿、北野天満宮の牛、愛宕神社はイノシシ、熊野大社はカラス、秩父の三峰神社はオオカミ(後でまた触れます)、日枝神社はサル、出雲大社はヘビ。他にもある。
実はこれらの動物たちは神そのものというよりも眷属、すなわち神の化身、もしくは神に仕える者か、神の意志を伝える使者としての意味合いが強い。
眷属とは姿形のない神が人間の目に見える形で動物などを遣わすものです。神社の門脇に鎮座している狛犬もそうで、番犬のようなものですね。
すると神そのものは目に見えないので、眷属、すなわち動物を神そのものと崇める場合もあるし、眷属=眷属神を祀った神社もある。それには想像上の動物や、動物だけども動物学的には存在しないものも含まれる。神獣ですね。
オオカミ.jpg
山の神に戻りますが、船山も含めて山の神、その眷属はオオカミのようです。オオカミもしくは山犬なのですが、オオカミは大神の意味に繋がります。
ニホンオオカミ、山犬が山の神の使いとされてきたのは、オオカミは農作物に被害を与えるイノシシやシカ、サルなどの害獣を駆除し、山火事や夜盗に吠えたてることでいち早くその危険を人々に知らせる面がある。吠えない犬はいても、吠えないオオカミはいないのではないか。
作物を荒らす害獣に悩まされていた山国の民間人の間にオオカミの力にすがろうという信仰が広まった。厄除けの神獣となった。遠吠えを聞いたらブルッと震えるが、山で暮らす人々から見ればオオカミは必ずしも危険動物ではなかった。そこに付けこんで?オオカミ信仰を広めたのは秩父の修験者ではないだろうか。彼らが近隣を渡り歩き、そこで信仰していた山の神の習俗を取り入れて普及を図った。
秩父の三峰神社はオオカミ(山犬)を祀っています。もともと秩父地域はオオカミが多く生息していたという。当然、地続きの甲斐や信濃にも来たでしょう。
オオカミ3.jpg
江戸時代以降は三峯講が盛んとなり、甲斐国内でも講が組織された。組内から毎年代表者を送ってお札をもらって来たという。そのオオカミのお札は1匹あたり50戸の家々を守護すると言われているとか。
(この信仰が昂じてか、たまたま捕獲したオオカミの頭骨を神棚に祀る風習があって、笛吹市御坂町、神奈川県の厚木市、丹沢山麓の清川、山北町から足柄方面の民家にはオオカミの頭骨を祀る個人宅があるそうです。魔除け等の民間信仰といっていい。)
オオカミ2.jpg
南部町誌には山の神=オオカミ、ヤマイヌにも触れていて、山之神は主として山仕事関係者が祀ります。
祀る場所は尾根の見晴らしの良いところ、登り口、大岩の屹立する場所、老木の根元、何処か目立つ地象の場所とかです。そこに石祀を安置し、イシガミ(石神)さん、オズシ(御厨)さんと呼び、山仕事をする人々や猟師が山入りや伐採作業の前に山之神を拝んで供物を奉げて安全を祈願します。
船山の場合はそこで狩りをする猟師、猟銃会もそうですが、堰堤工事関係者か林業関係者が主だと思う。

船山の神も含めて南部町の山の神の眷属がオオカミかどうかはわからない。南部町誌には天狗だという説もあった。天狗の場合はタカガミサンという。天狗=修験者かもしれない。
天狗は大きな松の老木の樹上に棲んでいて、そのような木を切ったり傷つけると祟る。タカガミサンの宿木は、枝葉が大きく長く、東の方角に伸びている。これは伐採してはならない。
オオカミでも山犬でも天狗でも、山の自然を守り、恵みをもたらし、恵みを得る者を守り、山が荒れないよう鎮め、私のような他国者の入山を戒めるものには違いない。
前も書いたですが、山仕事で山中に入る時は懐に塩を入れ、オオカミに出くわしたら塩を投げつけ、振り返らずに戻れば襲われないという言い伝えがある。オオカミは塩が好物だとあったがホントだろうか。
船山温泉裏手の山の途中に小さい休憩ところがあって、そこは山仕事に勤しむ先代、武井正美翁のお休み場所だそうですが、そこに食塩が置いてあるのを見たことがあるぞ
まだまだ伸びる.jpg
疲れたので断念.jpg
まだこの先には堰堤があるのだが、ここでバテてしまったので引き返しました。
この先には最後の堰堤があります。そこから先は猟師さんしか踏み込まない御殿山への獣道。
2009年9月に撮影したものです。
山の神の先.jpg
本線まで戻って、少し歩いたところにある大森橋。さきほど上から見下ろした橋です。
大森橋1.jpg
ではこの先に何はあるのか。大森橋の先は林道と、地図には載らない作業道が続くだけなんです。では2009年9月に館長と散策した時の写真を掲載します。
大城平橋は人工建造物としてはこの道最後の橋です。
大城平橋.jpg
林道大森鉈取線は木々に遮られて風景を望める箇所は殆ど無いのですが、富士山や南部町が見えるビューポイントが1箇所だけあります。
富士山のビューポイント.jpg

小泉段.jpg
しばらく走ると、突然、平になる場所があるんですよ。
「小泉段って言われてます」
「小泉段?」
「小泉さんって方がいたのかも知れない」
まさかそれがホントなら、船山上流にはお墓のあった渡邉家(仮名)、林道終点近くに屋敷跡の表示がある鴨狩家、それとは別にもう1家あったことになりますが、真偽の程はわかりません。
また、この辺りの前後に枝分かれしていく林道の支線があるのですが、そこには踏み込んでいません。堰堤を設置する為の作業道のようでした。
鴨狩家屋敷跡.jpg
鴨狩家屋敷跡です。
奥深いところでどのような生活を営んでいたのでしょうかね。
この辺りで林道は終点になるのですが、その先にも作業道が続いています。関係者以外は立ち入ってはなりません。
作業道.jpg
普通乗用車で踏み込むのも避けた方がいいくらいの狭い道ですよ。でも大型重機やダンプが入るので、狭い幅ながらも舗装はされていました。オフロードバイクが望ましいですね。

これが2009年時点での作業道終点です。ギリギリ回転できるスペースがありました。
作業道終点1.jpg
作業道終点2.jpg
今はもっと奥まで延びてるかも知れないです。作業道は公道ではなく、あくまで作業関係者以外は立ち入り禁止なので、一般への告知もないようです。

これからも山の神は船山温泉を、その背後にある大自然を、そこに踏み込む人を護る為に存続すると思われます。山の神一帯は入ってはならない場所というわけでもなさそうですが。まぁ無理して来ない方がいいですよ。

もうひとつ神様があります。
ポンプ室.jpg
船山温泉のボイラ室には温泉の神もあります。あまり心神深そうに見えないT館長ですが。(失礼)
温泉も山々から湧き出す(染み出す)のだから山の神と同じかも知れない。
コメント(0) 

船山温泉発おとなの小探検 [船山温泉近郊ネタ]

タイトルは下記Blog「埼玉発おとなの小探検」の管理人・たからった氏の承諾を得て拝借致しました。
http://blogs.yahoo.co.jp/takaratta1152

船山温泉の215号室でヒマしてると、船山川に沿った林道を上流に向かって歩いて行く人をまれに見かけます。
「上に行っても何もないぞ」と思う私は2009年9月にT館長の運転する軽トラで作業道終点まで行ったことがある。出かける前、止せばいいのに缶ビールを飲んでしまい、「あっビールなんか飲んで大丈夫ですか?気持ち悪くなったら言ってくださいね」(T館長)
酷道とまでいかないが凄い道で、乗車中私は上下にガクガク揺られっ放し。一般人が見て興味を示すものは無かった。
あるのは大自然の森と木々。
船山川とその支流で御殿山水系に消えて行く小さな沢、小さな渓谷。
人間が分け入る為の林道と橋、巨大な砂防ダム(堰堤)の数々。
かつて2軒の人家があった場所とお墓。
小泉段と呼ばれるそこだけの平地。
小さく祀ってあった山の神。
砂防指定地.jpg
船山上流には何もないのです。船山川沿線と林道鉈取沿線は殆どが砂防指定地で、軽トラ、ダンプ、積載車が入りますが、そこへ分け入りする人たちは林業関係者、砂防ダム(堰堤)の工事や保守作業員ばかりです。
関係者以外は立ち入り禁止とまで謳っていないが、やはり深入りすると危険な箇所もあります。
ガレてるし、落石もあるし。
こんな地すべりの跡もあるし。
地すべりの跡.jpg
宿泊客の方の全てが私の体験談を見るとは限らないが、銃装備の探検ではなく、あくまで軽い散策感覚で行けるところまで。
赤い船山橋を渡って左折、左手に宿を見ながら上流に向かうと川と宿は黒い幕で遮られていて見えない。露天が丸見えになってしまうからです。
その黒い幕が途切れ、緩い坂を上って行くその先の左手に、船山館の私有地の畑があって獣害防止の為にフェンスが設けられています。幸い電気柵ではないです。
上流への道1.jpg
上流への道2.jpg
水呑橋1.jpg
そして最初の橋が現れる。水呑橋という。
旅人が水を呑んだ橋のように思えますが、水呑という地名は南部町誌第二章246頁と第四章1058頁「集落と人口」の現在地名項目にあって、船山川の水源のひとつとあります。
橋は昭和42年竣工です。
水呑橋2.jpg
三つに分かれるところ2.jpg
船山川はこの辺りで三筋に分かれ、手前の沢は水呑橋の下を潜って東(右手)に消えていく。木々に隠れているが、目を凝らすとそこに堰堤があるのです。
向こう側の流れが本流で最も長い川です。木々に隠れて見えないですが、河原を歩いて行くと自然の大滝があって、そこからは硫化水素の源泉が染み出ている。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-12-25-1
三筋に分れた真ん中は支流です。水呑橋のすぐ先にある橋、船山橋で渡り、それまで左に流れていた川は右側に移ります。
船山橋1.jpg
船山橋は昭和36年竣工。桁はコンクリート、欄干は石造り。
船山橋2.jpg
大森山系.jpg
更に上流へ.jpg
かなりの高さから見下ろす船山川の支流は小さい渓谷になっている。人工構造物と自然の岩々が混在した短い渓谷だが、お世辞にも幽境の渓谷美とはいえない。
ガードレールがないのであまり身を乗り出さない方がいいです。
船山渓谷.jpg

その先の三叉路に「林道大森鉈取線」の標注、起点があった。延長3976mとある。
林道大森鉈取線起点1.jpg
延長3976m.jpg
この標注は以前は無かった。ここが基点ということは、身延街道で南部トンネルを出て船山方面へ左折(身延方面からだと右折)して、船山温泉に至る道は林道ではないことになる。
三叉路は歪んだTの字になっていて、右側に道が分かれている。この先は台風や大水が出ると通行止めにることが多いのですが、船山橋で渡った船山川支流に沿って続いている。

三叉路右路の船山川橋.jpg
船山川橋です。
赤い船山橋、昭和36年竣工の石造りの船山橋、そして船山川橋、船山を冠する橋がこれで3つあることになります。最後の橋は他に名前の付けようがなかったのかもしれない。
西沢1号堰堤1.jpg
西沢1号堰堤2.jpg
ここでまた川は左手に移り、その先に巨大な堰堤が現れる。埋め込まれたプレートを見たら西沢1号堤とあった。昭和47年竣工。
プレート.jpg
城壁のようにそびえ立っている。上から兵が現れて矢を射かけられそうなシチュエーションです。
城壁のようです1.jpg
城壁のようです3.jpg
この堰堤上部から対岸に渡って堰堤下に下りたら、そこにも硫化水素の源泉があるのです。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-12-25
危険なので絶対にお止めくださいね。

S字カーヴの坂を抜けて森の中へ。
S字カーヴ1.jpg
S字カーヴ2.jpg
S字カーヴ3.jpg
更にその先へ.jpg

支流最後の堰堤?-1.jpg
支流最後の堰堤?-2.jpg
ここで行き止まりなので、ここが船山川支流の最後の堰堤かと思われます。ってことは、明治に氾濫した船山川の土石流はここが発端かも知れないのだ。
この先はよく目を凝らすと山の斜面をつたって消えていく獣道らしきものが見えなくもないが、蛮勇をもってしてもそこから先に行くことはお止めください。
支流最後の堰堤?-3.jpg

再度起点に戻る.jpg
三叉路まで戻ります。
そこを起点とする林道の本線を歩いて完全走破する訳にはいかないし無駄な労力というものですが、オフロードバイクで上がった人は少なからずいるようです。
それほど距離のない散策がてら、2つポイントがあるのでせめてそこまで。本線の右脇の土手はブロックで補強されていて、奥に分け入る道がある。意外に思うのは、その道はガレていますがところどころアスファルトではなくコンクリートで舗装された形跡がある。
T字路.jpg
その先へ1.jpg
その先へ2.jpg
その先へ3.jpg
実はこの坂道の右手が段になっていて、かつて1軒の人家があったそうです。渡邉家(仮名)といいます。
今はその家のお墓が残っています。割とキレイな墓石で、最近どなたかお参りに来られたのか、お花が供えてありました。
私も手を合わせました。祈るというよりもご挨拶をした程度です。「山を荒らす者ではございません」ってね。
その先、林道はお墓の背後を通っています。他所様の墓石を正面から撮る訳にはいかないので、あくまで道の撮影ということでちょっとだけ。
左にお墓があるんです.jpg
船山温泉の上流には2軒の人家があった。渡邉家(仮名)と鴨狩家です。
このような場所でどのような生活を営んでいたのだろうか。明治の頃、船山温泉背後の山々一帯では焼畑農業が盛んだったというが、船山温泉上流にお住まいだった2軒(鴨狩家、渡邉家・仮名)はその関係者だろうか。
どうやって暮らしていたか。インフラが整備されていないし、水は雨溜めておけば何とかなるかな。電気水道ガスは通っていないでしょう。WCについても想像するしかない。
最も上流にお住まいだった鴨狩家があった辺りは殆ど林道の終点にあります。そこには「屋敷跡」という表示まで建っていました。
下写真は2009年9月に館長と散策した時のもので、右手奥が鴨狩家屋敷跡です。
林道としてはそこで終点なのですが、その先、地図に載ることのない作業道が続いています。
鴨狩家屋敷跡.jpg
船山のT館長も、船山上流に興味を持った私からの質問攻めに遭ったが為に、先代に聞いて知ったそうですが、いつ入植していつ引いたのかはわからないそうです。
渡邉家(仮名)と鴨狩家、2家ともこの地に入植したはいいが、過酷な自然に適さず山を下りたのでしょうか。今は船山温泉上流には1軒の人家もありません。
(林業関係者や堰堤工事関係者、作業員の簡易的な小屋程度ならあるかもしれない。)
今は2家とも山を下りて何処かへいってしまったが、渡邉家(仮名)に関して言えば、十枚山の麓、成島辺り(時折、熊の目撃例が出る集落)にお住まいだという。鴨狩というお家も幾つかあるようです。まずご縁は無いと思いますが、この場所でどのような生活を営んでいたのか聞いてみたいもの。
ここに至る道は地図には載っていません。それは林道でも作業道でもなく、ここにお住まいだった家の為の生活道だったからです。
林道と作業道は同じですが定義が違います。作業道はその作業の為だけに開かれた道で地図に載らないし登録されない。作業が済んだら原則はもとに戻さなくてはならない。(自然に返すということ)

渡邉家(仮名)屋敷跡の更に先へ行くと、水呑橋で三筋に別れた船山川のせせらぎが聞こえてきる。右下には林道本線の大森橋が見えます。
大森橋が見える.jpg
その先、今度は右手に石造りの祠というか、小さな小さな祭壇のようなものがあるのです。
山の神.jpg
船山の山之神です。
コメント(0) 

船山温泉99の謎113 船山温泉近郊電気柵の効果は? [船山温泉近郊ネタ]

http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-01-15
4月に行きました。
今回は(今回も?)T館主様からいろいろとお気遣いをいただき、改めて御礼申し上げます。
春の船山館.jpg
電気柵2.jpg
船山川に沿って宿に向かう道途中、最後の住宅のある杉尾1号堤(船山温泉に至る手前の)辺りの鳥獣防止電気柵が完成、稼働していました。
何か装置があるぞ.jpg
近づいてみたら機械のランプが点滅している。
稼働中だった.jpg
触ってみたかって?
触れてませんよ。「高電圧危険さわるな!!」ここまで表示してあって触るヤツはいないでしょう。感電したらシャレにならないからね。
調べてみたら、感電させるにしても弱い電流を流してイノシシ、鹿、猿たちを驚かせ、怖がらせ、学習させ、立ち入りをさせないようにするもの。
柵は民家の裏手を通って延々続き、山の斜面を長城のように斜めに並んで何処までも続いていました。
伸びている1.jpg
山に向かって.jpg
伸びている2.jpg
改めて柵を見たら、格子が四角ですね。
これは価格が安い標準タイプだそうですがイノシシには適さない。もうひとつ、六角形の亀甲型があって、こちらの方は四角い格子より強度が高いそうな。
菱形目の網は破損し易くて向いてないそうです。

設置費用は長さと高さで決まると思うのだがどれくらいかかるのだろう。設置後のメンテナンンスもバカにならないだろう。
T館長が言うには、この辺り一帯では設置費用は行政負担だそうである。とはいえ税金ですけどね。

船山川対岸にもあるぞ。
「この辺りの獣による農作物の被害は深刻です」という館長の言を裏付ける。
対岸にも.jpg
平成23年9月に兵庫県で農家の方が自ら設置した鳥獣防止電気柵で感電死する事故があったらしい。電力会社が供給する(船山温泉の場合は中部電力)家庭用コンセントの100V電源にそのまま繋ぐだけだとアブない。設置工事は行政が指定した電気屋さん、有資格者が行うべきで、無資格者は乾電池やバッテリーによる12Vの電源を使用した場合のみだそうです。
この電気柵は船山温泉に至る道に脇に立っている電柱から電気を取っていたので、設置したのは電気業者に違いない。

この電気柵のメカニズムについてですが。。。
電気ってのは+と-で繋がった状態で電気が流れる。私は電気に弱いのですが、それくらいは5秒でわかる。(ピタゴラスイッチ)
乾電池と豆電球を手に取ったとします。豆電球からコードが2本あって、1本は電池の+へ、もう1本は電池の-へ繋がると点灯します。これを電気柵に当てはめると電球の部分が動物なのです。
でも電気柵は乾電池ではないし獣は四足獣(鹿、猪)と二足獣(猿)とある。そこで分けて考えましょう。まず猿ですが、猿が電気柵をよじ登った場合はどうなるか。
このネットの横に伸びた1本1本のネット線は、縦に向かって電気の+と-が交互に織り込んである。サルが飛び付いて前足が+、後ろ足が-に触ったら(またはその逆)ビビビッと感電する。ウキィと驚く。柵から飛び降りる。
よほど人間以上に賢くて、破壊工作員並クラスの知能を持つサルがプラスマイナスを見極めて、+と+、-と-のように同極を掴まない限り登り切ることはできない。
次に鹿ないし猪の四足獣ですが、コイツらは前足後ろ足とも地面に着いて(立って)います。
電気柵にはアースが設置されていて、電源装置~電線~動物の体が降れる~足~地面~アース~電源装置へという流れで感電する。電気の帰り道となるアースの設置が大事なんです。通電線とアースの両方に触れて初めて電気が流れるわけ。
防護柵の特性.jpg
電気柵を設置したからもう安心というわけではない。
木々から伸びて来る枝葉、蔓、地面に生える草はまめに刈り取らないといけない。植物が電線にからみつくと漏電が発生して電圧が下がってしまうからです。柵周囲の雑草を刈り取らないと伸びた草が電気柵に触れて漏電を起こし、電気柵の効果が無くなり余計な電力を浪費することになる。
もっとも理想なのは、山の麓を用水路が廻っていて、水路がコンクリートで固めてあるか、水路に沿って歩ける程度の道があるのがいいそうです。用類路の幅の分だけ山側の木々と距離が保てるし、地べたがコンクリートやアスファルトなら草が生え難いから。道があればそこを人が歩くので、見回ることができる。動物側もそれに気付くといいます。

これらの柵は動物園や牧場と違い、獣を中に囲い込んで脱出させない為ではない。他からやって来る獣たちの侵入を防止し、追い払い為のものです。
でもヤツらだってバカではない。この電気柵も船山温泉に至る公道に面しているので、そこを廻り込んで来たら侵入されてしまう。
サルが木を伝って柵の上を飛び越えてきたり、イノシシが穴を掘って侵入してきたり、鹿が角で穴をこじあけて侵入してくることもある。住民のいる集落の山側に万里の長城よろしく長々と数キロメートルに渡って柵を設置しても、長いものには何処かに必ず進入路、突破口があるのです。100%獣たちの侵入を防ぐことは不可能なのだ。あくまで忌避させるのが目的なんです。

公道や沿線に住む人が立ち入る可能性だってある。
T館長に、「宿泊客で下流にある電気柵に触った方っています?」とバカな質問をしたら、「まだおりません。おそらく人が近づくところは電流を低く設定してあると思います」
もし触って感電したらちょっとした騒ぎになってるだろう。実際あの電気柵には24時間フルに電流が流れてるそうですよ。
船山温泉の上流に畑がある。そこに電気柵は設置しないのか聞いたが、今のところその予定は無いとのことだった。何故だろうか。延々伸びた長い柵ならともかく、小さい畑を囲うだけだと費用対効果で合わないのかも知れない。
さわるな.jpg
電気柵の設置は獣の侵入を妨げる一手段でしかない。獣もバカではないので、侵入を完全に防ぐことができなくても、設置後に被害を軽減できることでしかないのだ。だから電気柵を設置しましたで安心はできない。巡回して、ここに人間がいるぞと知らしめることを繰り返さないと効果がない。
触らない方がいいですよ。
コメント(0) 

船山温泉99の謎111 船山温泉道端のフェンスは何? [船山温泉近郊ネタ]

朝霧に濡れながら船山温泉に至る道、林道大森鉈取線を富士川街道沿いに下っていったら、杉尾堤辺りに目新しいフェンスがあった。
鳥獣防止柵1.jpg
工事看板とフェンス.jpg
工事中を示す看板には。。。
「鳥獣による被害を防ぐ柵を作っています」
フェンスの傍らには小さい仮設詰所と便所もある。工事期間は平成27年1月30日までとなっていた。フェンスの高さは2m弱といったところだろうか。
工事詰所と看板.jpg
「杉尾堤の辺りでフェンスを作ってたけど。あれって鹿対策か猿対策?」
「鹿対策ですね。他の野生動物の対策にもなると思います」(T館長)
鹿が船山温泉の自生クレソンでも喰いに来るのかな。

私は船山温泉で動物を見たことは一度もないが(楮根地区で猿を目撃したことがあります。)・・・船山温泉のある大森一帯では猿や鹿が出るそうです。猿は平成20年12月に癒しの宿ハンター、りんくの旦那が、紅い船山橋を渡った辺り、かなり近距離で目撃されています。
このフェンスは山梨県森林環境部みどり自然課~峡南農務事務所農業基盤課という長ったらしい名前の課が地元の有限会社I工務店に発注した工事事業で、目的は近年増え続ける鳥獣による被害(農作物とか)を軽減する為のものだそうです。
あくまで被害軽減です。完全に被害ゼロにするのは難しいというか、不可能らしい。
I工務店という業者さんはT館長からよく耳にした。船山温泉背後の土砂崩れや、過去に木製の船山橋が流された時に対応してくれた工事業者だと思う。

これは船山橋から見た船山川の朝霧ですが、写真左に作業員さんが数人いるのがわかりますか。
船山川と朝霧1.jpg
作業員さんは8人くらいいて、6台の軽トラックに分乗して下っていった。おそらくその方たちがフェンスの施行作業員か、鳥獣の害を見回りする人たちじゃないかなぁ。
大森集落と朝霧1.jpg
この辺り一帯は場所が場所だけに、T館長いわく、「野生動物の被害は常に後を絶たないですよ」
船山温泉上流にある畑もグリーンのネットで覆われている箇所があって、それも鳥獣害防止対策の一環です。
さて、このフェンスですが、対鳥獣対策で功を奏す高さは獣によって異なり、猪1.5m、鹿2.3m、猿2mだそうです。フェンスが低いと獣は飛び越えてしまうので、獣によってはある程度のかさ上げをするんです。
猪が1.5mと低いのは四足獣で体高が低いからだが、猿対策に何故2mも必要なのかというと、猿は樹木を伝って柵をキィキィ飛び越えて来るのである程度の高さは必要だが、あまり高いと今度は木の枝がブラ下がってフェンスに絡まり、漏電やショートが発生して機能しなくなるんだと。
漏電?
ショート?
「あのフェンスは電流が流れるの?触ると感電するとか」
「流れると思いますよ」(T館長)
だそうです。だからといって触ったわけではありませんよ。どれだけの電流が流れるのかはわからないが、要は電気が流れる防止柵、フェンスなんですよ。
まだ工事途中でしたが、フェンスの脇からヒョロッと獣が出て来れそうな隙間はある。それとこのフェンス、下から入って来れそうだな。
フェンスが地面にくっつく部分で、フェンスを60cm以上折り返してアンカーピンで補強し、持ち上げられないようにする工法もあるそうです。
初めて見ました。私は上州で猪を捕獲する檻を2回ほど見たことはあるけど、(室田の高留城、吉井町の天久沢陣城)、フェンスは見たことなかった。気が付かなかっただけかも知れませんが。。。
鹿.jpg
これは山梨県全域の鳥獣防止柵エリアです。
南部町もしっかり入ってます。
エリア1.jpg
問題は熊ですな。
船山温泉で熊の目撃例は無いが、平成21年秋、裏山で熊の足跡が発見されたことがある。成島から身延方面へノソノソ移動していった。
その場所へは宿の背後から登れるます。熊は成島方面から身延方面へ移動してったらしい。
「熊の足跡って見ればわかるんですよ。相当な大きさだったと思います」(T館長)

前述した山梨県森林環境部みどり自然課のデータでは、私が確認しただけでも平成26年4月から10月末まで106件の熊目撃騒動があった。
うち見過ごせないのが、船山温泉がある南部町一帯です。
6月8日午前中、南部町本郷地内で熊の成獣1頭に襲われた記述があった。襲われた方は猟銃を所持していたので1発ズドンと撃ったそうです。弾は命中したが熊は逃げた。
9月26日の朝6時、船山温泉より少し南、十枚荘温泉のある成島地区で重機の確認に行った人が熊とバッタリ遭遇し背中を引っ掻かれた。幸い傷はなく逃げてったから熊もバッタリ遭遇してビックリしたのだろうね。
南部町史にもあったが、成島方面は熊が出てアタリマエだそうです。
次に10月1日の朝6時、また南部町本郷地区内で車中から目撃された記述があった。場所は集落の中の道路とある。案外と船山温泉のすぐ近くかも知れませんよ。実害は無かったが防災無線で注意喚起、猟友会へ連絡し見回りをしたとか。
10月7日の朝9時、今度は南部町万沢地区(甲駿国境、武田信虎が追放された辺り)の何処かで車中から目撃された。熊は車の前を横切ったそうです。
熊の目撃例には同一個体を別の場所で数えたダブルカウントの可能性もあるそうだが、この辺りだと、「熊は出てもおかしくはないですが・・・」(T館長)
このフェンスが熊に対応できるかどうかわからない。館長は熊については余り語りたがらない。さては見たな。もしくは身内の方が出くわしたのではないか。
鳥獣防止柵2.jpg
鳥獣については過去にも述べましたが、被害増の原因は、①餌(実)のならない木々の植林、②開発による人間との緩衝地帯が減った、③猟友会や猟師さんが高齢化で数が減っている、他、いろいろあるようです。猟銃って意外と重いらしく、所持する銃砲類も届出を出さなきゃならないそうですね。
山の餌不足もあって人里まで下りて来るようになっちゃったわけで、このフェンス工事も鳥獣被害軽減対策のハード面ですが、フェンスを設けてそれで終わりではなく、緩衝地帯を設け、管理用道路を併設する。すると土地の人がそこを歩いたり、管理人が点検に来たりするので、獣たちの緩衝地帯になるんだそうです。獣もバカではないので警戒しますから。
ただ、前述したように獣の侵入を妨げる手段でしかない。被害を軽減することが目的で完全駆除とは全く違います。
無粋な人工構造物ではあるが仕方がないのです。あまり触ろうとしない方がいいと思いますよ。
鳥獣被害を知らない人間から見たら鹿なんかは可愛く見える。駆除し難い気持ちもあるが、被害に遭っている地元の人達から見たらそうも言ってられないのだ。
では船山温泉近郊で鳥獣に出くわしたら?
お手数ですが、フロントに連絡してください。その後は地元の猟友会が対処するでしょう。
コメント(8) 
船山温泉近郊ネタ ブログトップ